(2)異変
***
「短期留学の
ニヤニヤしながら、ベーカリーの店員・佐倉がパンを並べる棚を拭きながら尋ねた。
外にある立て看板を持って入った柚樹は、困った顔で首を横に振る。
「あれからずっと修行先の調理学校の紹介先に問い合わせてるんだけど、まだ返事が来ないんだよな。順番に対応するって言ってるけど」
「確か、橘くんて製菓か製パンの専門学校出たんだよね? そのあと、ここで職人兼店員やって1年になるんでしょう? それなのに、まだ留学するの?」
「俺、ドイツパンが好きなんだよね。本場ドイツのパン工房を見てみたいし、食べてみたい。実際に職業体験もしてみたくてさ」
「ふ〜ん、職人さんて、そういうものなんだ? 私はお小遣い稼ぎでバイトさせてもらってるだけだけど」
「ああ、大学生だよね、佐倉さん。そういえば、もう就職決まってるんだって?」
「うん、去年、内々定もらってたから」
「はやっ! 三年生で内定ってスゲェな! 優秀!」
ふふっと佐倉が笑う。
「来年大学卒業したら、あそこに見えるオフィスに勤める予定なんだ。そうしたら、ときどき……じゃなくて、毎日ここに買いにくるよ」
「ありがと! でも、俺もそのうち自分で店を持つかも知れないから、そのときには、もうここにはいないかもな」
偉そうに腕を組んで笑ってみせる柚樹に、佐倉も笑った。
「独立するときは教えてよね。私、お客さんになってあげるから」
「おう! 俺のお店のお客さん、第一号だな!」
「それで、いつ連れて行ってくれるの? 橘くんが気に入ってるハーブ料理のお店に」
「……ああ……、それは、まあ……」
ローズマリーの店のことになると、柚樹はいつも歯切れが悪くなり、目をそらす。
職場も好きだが、仕事が終わったあとは離れてくつろげる場所が必要だった。
何より、ローズマリーと気軽に話がしたかった。たわいない話でも十分だった。
「おっと、もう片付けは終わってるんだった! じゃ、またね! 店長、お疲れ様でした! お先に!」
逃げるようにして去っていく柚樹を見送り、佐倉はため息をついた。
「……まだまだかな」
***
「あ、橘さん、いらっしゃいませ! お好きなお席にどうぞ!」
やっぱり可愛い! ローズマリーさん!
なんだかいつもより嬉しそうに見えるのは、俺に会えたから?
……じゃなさそうだな。
軽い足取りのウキウキとしたローズマリーにあいさつをすると、柚樹はテーブル席の一つに目をとめた。
「今日って予約が入ってるんですね」
「ええ、そうなんです!」
いつもはゆったりと、ひとりで四人がけテーブルに着くところだが、隣のテーブルにはつかず、カウンターに座る。
まあ、このほうがローズマリーさんとも話しやすいし。
「ゴールデンウィークも過ぎて、やっと落ち着きましたね」
「ええ、そうですね。いつもよりは忙しかったので。柚樹さんのお勤めされてるベーカリーも、毎日早く売り切れてたんでしたね」
俺の話、覚えててくれてるんだなぁ。下の名前も。
ほわほわと、柚樹がローズマリーを見ていると、無言でグレーテルがグラスに入ったハーブウォーターを運び、カウンターに置いた。
「おっ、グレーテルちゃん、サンキュ」
「どうも」
エプロンスカートを着た少女は、客商売であるにもかかわらず、にこりともしない。
「本日のおすすめは、ペパーミントライスとアンガス牛のステーキ、野菜スティックです。ステーキと野菜スティックには、ディルソースが付いてます」
少年らしくない冷めた表情のヘンゼルが、横で淡々と説明している。
「へー、アンガス牛! 食べたことないので楽しみです! ペパーミントライスって?」
ローズマリーがにこにこと語り出す。
「昨日、すぐそこの紅茶館で、ネコちゃ……ああ、いえ、店員さんにすすめていただいたペパーミントの紅茶がとっても美味しくて、それで使ってみようと思い付いたんです。
ペパーミントの葉とパセリをペーストにしてお米と一緒に炊いて、バターを乗せて。ディルソースはハーブのディルを使ったマヨネーズベースのソースになります」
「グリーンが基調になってるんですか。今の新緑の季節にぴったりで美味しそうですね! それにします!」
「ありがとうございます!」
ローズマリーも少年、少女も厨房に入っていく。
待ち時間、スマートフォンを見ていた柚樹は、外が
「なんだろ?」
窓の外に、黒いモヤのような煙のようなものが流れていく。
「なんだ、あれ? 煙? もしかして、火事!?」
「橘さん、危ないので避難してください!」
厨房から飛び込んできたのはグレーテルだった。
「グレーテルちゃん! 窓の外に黒い煙みたいなのが見えるけど、ローズマリーさんとヘンゼルくんは!?」
「いいから早く! お店の入り口のほうならまだ大丈夫だから!」
グレーテルが柚樹の手を引っ張り、店のドアを飛び出した。
***
その少し前、柚樹の注文を受けてからローズマリーたちが厨房に戻ったときだった。
「……何かが来るわ!」
そう言ったグレーテルが、厨房の奥の扉から中庭に向かう。
「グレーテル、どうしたの? いったい何が……!」
後を追い、庭に出たローズマリーの足が止まった。
黒く曲がりくねった木の枝が絡み合い、その奥から黒いもやが吐き出されるように広がっていく。
「異界の扉が勝手に……そんな……!」
「向こうから来るなんてあり得ないよ! ヘンゼル!」
グレーテルがふりかえり、後ろにいる少年ヘンゼルが冷静にうなずいた。
「今、お客さんは橘さんだけだったな? グレーテル、彼を避難させて」
「わかったわ!」
がるるるるる……!
猛獣の唸り声に似たものが、低く響く。
庭の木から目を離さずに、ヘンゼルが口を開く。
「ドイツのフランクフルト空港に猛獣が現れたっていう話だったけど、あれは猛獣なんかじゃない。魔獣だ。まさかこんなところにまで……!」
「でも、ここの異界へのゲートは完全に一方通行だったはずだわ!」
「こっちから行かれても、向こうからは来られないはずだった。魔獣なんかは入ってくることはできないはずだった。ということは、誰かが……故意に
びくっと、ローズマリーが肩を震わせた。
「呼び出した……って……、
ヘンゼルがうなずく。
「そう考えられる。そして、そんなことができるのは相当な黒魔術師か、もしくは僕と同等かそれ以上の……
ざわっと、風が向きを変えた。
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