(2)ヴァルプルギスの夜の魔女たち

「なんなんです!? 一体何が起きたんです!?」

「まさかあなたがいるなんて思わなかったわ! 生身の人間が無防備にもほどがあるわよ! わたしの皮鞄かわかばんに香油が入ってるから、それを全身に振りかけて!」


 天使さんの腰には、皮のベルトに片手が入るほどの皮の小物入れがさげられている。


「ガラスの瓶に入ってるヤツですか?」

「そう! 軟膏なんこうを切らしちゃったけど香油なら作っておいたから」


 すごいのか抜けてるのかわからない。


 首を傾げながら、向かい風の中、しずくのような形のガラス瓶を取り出し、中身を柚樹は自分に振りかけた。

 ふんわりと、いろいろなハーブと花の香りが混ざった心地良い香りに包まれる。


「このオレガノのブレスレットも!」


 天使さんの手首から緑の小さい丸みを帯びた葉を連ねた草のブレスレットも手首に引っ掛けた。


 二人の乗る杖が、ぎゅん! とカーブする。


 天使さんにつかまりながら柚樹が周囲を見回すと、オレンジ色の空が紫へと移り変わっていく。

 下には緑色の尖ったような形の木々が見える。


「飛んでる!?」


 枝は上昇した後は少しスピードを落とし、水平に飛びながら移動を続ける。


「なんなんですか、『ヴァルプルギスの夜』って」

「そんなことまで知ってるの!?」


「え、だって、お店のカレンダーに書いてあったから」

「そ、そう……迂闊うかつだったわ」


「迂闊って……マジックで目立つように書かれてハートマークまでありましたよ。そんなに楽しみにしてたんですか?」

「ま、まあ……」


「……すみません、ついて来ることになってしまって」


 トーンダウンした柚樹の声に、天使さんは笑った。


「別にいいわ。香油をかけたんだから大丈夫。あなたも一緒にいかがです?」

「え、でも、ローズマリーさん、これからデートなんじゃ……?」


 ハッと目を見開く。


 山羊やぎに乗って飛ぶ黒ずくめの女が横切る。

 血色が悪い肌色は青みがかっていたり、緑がかっている。


 さらに、目の周りが黒ずんでいて、どこかけだものじみた形相で前方を見据みすえ、鳥の足の爪のように尖った指先の爪はインクに突っ込んだかと思うほど真っ黒に染まり、黒い三角帽子も被っていた。


「まさか……魔女!?」


 反対側にもその向こうにも、豚に乗って飛んでいたり、ビール樽にまたがっている女たち、自分たちのような木の枝に乗ってひゅんひゅんと移動する女たちを見て、コスプレとは思えない。

 おそらく皆魔女なのだろうと、柚樹は薄々理解していった。


 天使さんだと思っていたこの人も、実は魔女だった?

 ……とか!?


「はい。皆、魔女です。このわたしも含めて」


 なんでもないことのように実にあっさりとした口調で、顔だけ振り返り、彼女は微笑んだ。


 魔女……またしても『魔女』。

 なんだかさっき聞いた話にも魔女が出てきたけど。


 ふーっと力が抜け、うっかり手を離してしまいそうになった時、天使さん——魔女さん(柚樹の中では一瞬で書き換えられた)が後ろに向かって嬉々として言い放った。


「もうすぐブロッケン山の頂上に着くわ!」


 乗っていた枝がふわっと止まり、二人が地面に降り立つと、スッと枝が魔女さんの左手に収まった。


「あの! 俺、生贄いけにえとかにされたりしませんかね!?」


 あんぐりと口を開けた魔女さんは、焦る柚樹を見てくすくす笑った。


「大丈夫よ、そんなことしないから。そのために香油を塗って魔除まよけのブレスレットもしてもらったんだから。橘さんも安心してお祭りに参加していいんですよ。わたしのお友達も来ますから」


「友達って……」


 チラッと、柚樹が周りを見渡すと、視線の先にある黒い衣服の他の魔女たちが、獣が威嚇いかくするように黄色い瞳を光らせた。

 牙のように長めに伸びた八重歯をむき出し、鋭い目つきで柚樹を見ている。


 ローズマリーさんのお友達も、あんな感じの……?


 ドキドキと柚樹の心臓が恐怖で速まるが、それ以上の関心を示さなかった魔女たちはわらわらと集まり、火をたいて、それぞれ持ってきたアヒルや豚肉、カエルなどを焼き始めた。


 中には、抜け替わった犬の毛を焼いている魔女もいて、物が焼ける香ばしい香りが立ち込める。


 たき火や泉を取り囲んで踊り出す魔女もいた。


 動物の角で作った笛や山羊の皮を張った太鼓のような物や、動物の尾で作られた弦楽器に似た物などで聞いたこともない独特な音楽を奏でる者たちも現れた。


 黒ずくめであるのと目の周りが黒ずんで少し不気味だったそれらの魔女たちに比べたら、ツヤのある銀髪の一つの長い三つ編みに、やさしく微笑むローズマリーは、やはり天使に見える。


「橘さんも、良かったら、スープを作るのを手伝ってくれませんか?」

「え? 俺が!?」

「ねっ?」


 ローズマリーはたき火にかけられた大釜に、柚樹を連れて行き、他の魔女から受け取った刻んだ野菜のようなものを入れ、柚樹はしゃもじよりも大きな、オールのような形をした木ベラを持たされ、ゆっくりとかき混ぜるよう指示された。


「わたし、こんなの作ってきたんです。皆さん、そろったらどうぞ」


 ローズマリーがどこからか取り出したのは、粒々とした透明のものがごろごろと浮かんだスープだ。


「皆さんのお好きなカエルの卵のスープです」

「ひっ!」


 思わず柚樹が声を上げるが、周囲の魔女は喜んでいる。


「大丈夫ですよ、タピオカなので、橘さんも食べられます」


「そ、そうですか」


「それと、もうひとつ、目玉のサラダです」


 またしてもどこからか取り出したのは、スライスした黄色い目玉をホールケーキのように円形に敷きつめたものだった。


 魔女たちが歓声を上げ、目玉サラダだかケーキだかを持ち上げて騒ぎ出した。


 ドッと冷や汗をかいた柚樹に、またしても、にっこりと彼女が微笑んだ。


「目玉に見えるのは、ゆで卵に黒オリーブを刺して、中身はエビと枝豆の入ったポテトサラダです」


 なんだ、意外と美味しそう!?


「見た目は慣れないかもですが、サラダには白ワインも使いましたから美味しいですよ」


 にっこりと楽しそうに笑う彼女を目の前にしていると、自然と自分も笑顔になっていくのがわかる。


 その時——


 けたたましい集団の笑い声と共に、人の頭ほどもある火の玉が勢いよく泉に投げこまれた。


 音楽は鳴り止み、一変して辺りは叫び声や喚き声で騒然となった。


 轟音が響き渡り、次々と山の周辺の木々に落雷していく。


 真っ二つに折れた木が倒れ、下敷きになった魔女たちの叫び声がこだました。


「ヴァーテリンデの魔女たちだ!」


 地上の魔女たちが口々に叫ぶ。


 逃げ出そうとする者や争い始める者が放つ炎、風を起こし、箒に乗って下降してくる魔女の集団を吹き上げる。


 箒の魔女たちも渦巻いた炎を次々と発動させ、杖から蛇のごとく伸びていった草の蔓が、うねりながら狩りを始めた。


「危ないわ! こっちへ!」


 空からの襲撃と阿鼻叫喚あびきょうかんの中、慌てる柚樹の手を引っ張り、ローズマリーが飛び交う術をよけながら大木の影へと走った。


 ドカッ! と、彼らと大木の間に何かが落下するようにして立ち塞がった。


 腰まである長い黒髪に、男性のように骨張った怒り肩の長身。

 「ポセイドンとかの武器!?」と、柚樹の頭をよぎったほどの長槍の先が三本の鋭い矢に分かれている三叉槍さんさそうを手にしている。


 身体にピッタリとして足元は広がっているマーメイド型の黒いドレスをまとい、黒いアイメイクを施しているような目の周りは黒く縁取られ、銀色の瞳には揺らめく炎が映りこむが、冷たい光を放っていた。


 冷酷無情、残忍さに加えて、これから獲物を狩る喜びを隠し切れていない、そんな風に柚樹には見えた。

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