第3話 不婚同盟って何ですか
―――起きたら、彼が居た。
心臓がひっくり返るかと思った。
一瞬学都の中央図書館かと思ったわよ。テーブルで、本につっぷせて眠っていたあたしが顔を上げると、その正面に居るんだもの。
あ、あたしまた図書館で眠ってしまったんだ、と当初思った。こんなふうに同年代(?)の男が前に座ってぶ厚い本を読んでいるなんて状況、あの頃、図書館でしかなかったんだもの。
だけど背景に、あのずいぶん背の高い、本がぎっしりと詰まった書棚が無かった。
代わりにあったのは、あの若い女官とは別の、ややふっくらとした女官が差し替えてくれた花器いっぱいの花だった。
「勉強熱心だな」
にやにやと皇帝陛下は笑う。あたしは彼を軽くにらむ。すると跡がついてる、と頬をつつかれた。慌ててそこを押さえると、
「失礼しました… いついらしたのですか?」
「つい一時ほど前かな」
窓の外を見る。確かに夜だった。確か夕方くらいまでは記憶がある。結構な時間、眠り込んでいたんだ。
「あ、痛」
肩と首と、そして頭を乗せていた腕が痛かった。変な恰好で眠っていたからだ。
「何処が?」
「…あー、何するんですっ」
「何もそう遠慮せずに」
つかつかと彼はあたしの後ろに回ると、肩や首をもみほぐそうとする。あ、気持ちいい、と思いつつも、皇帝陛下にこんなことさせていいんだろうか、とか、昨夜のこととか、無闇やたらに頭が回転を始める。
「だ、だいじょうぶですから…」
「大丈夫じゃないだろ。結構凝ってる」
「…ありがとうございます」
それでも何となく神経がとんがる。
しばらくすると彼は手を止めて、あたしの横に屈みこんで、顔を見上げた。
光の強い黒い瞳がじっと見つめている。思わずそらしたくなってくる位に強い。身動きが取れない。そして彼はあたしの頬に手を伸ばす。
「ああまた仏頂面してる」
「え?」
「国務大臣がな、『笑うと可愛らしい方ですね』と言っていた。あいにく俺はまだお前が笑ったところを見たことがないんだが?」
「そうは言われましても」
そうは言われても、笑えと言われて笑えるものじゃない。そりゃ今朝国務大臣にそうしたようなのはできる。けれど…
「女がそんなに辛そうな顔しているのは結構きついな」
「…いえ…」
「もともとお前はここへ来たくはなかったんだものな? ああ、そう言えば、イドゥ・コンデルハン侯爵が、お前達の『同盟』のことを言ってたが、そのせいかな?」
「コンデルハン侯爵?」
「何だ、知らないのか?お前の友達と最近結婚した若い侯爵だが。昨年やっと帝都へ入ることを許される年齢になったという」
「その結婚した相手とはダルガン伯令嬢のことですか?」
「ああ、そうだ。お前の友達だから、十八か。コンデルハンの方が一つ下だな」
「どういう方ですか?」
「どういう方ってな… まあ、変わった男だよ。大きくはないな。華奢で、腕なんか俺の半分じゃないかと思うんだが… ああ、侯爵夫人の方が大きいんじゃないか、って言われていたな」
「声が綺麗だ、と聞きましたが」
「綺麗、というよりは、面白い声だったがな。外見からは全然想像がつかない…… おい、ずいぶん関心があるんじゃないか?」
「え? ああ、寄宿舎時代の友人の結婚相手ですから…」
やや焦ったのだろうか? ふわ、っとあたしの顔の神経が緩んだ。
「笑った」
不思議そうな顔で彼はあたしを見上げる。あたしのひざに腕を乗せる。これでますます動けなくなる。
「確かに笑うと可愛げが出るな」
「…」
そう言われるとまた顔が仏頂面に戻ってしまう。
「…重いですよ」
「そのくらい我慢しろ」
「しびれたらまた揉んで下さるんですか?」
冗談のつもりだった。
「ああ。いくらでも?」
はあ、とあたしはため息をついた。この人は絶対あたしの脱力の意味なんて全く判っていない。
「皇帝陛下」なんだから、別にそんな、ただの妃に気をつかう必要などないのだ。好きにすればいい。あたしもそのつもりで来たのだもの。それならそれで、あきらめがつくと思った。
ところが、誤算だらけ。
「ま、だけど良かろう」
彼は立ち上がり、正面に置いてあった椅子をひきずると、あたしの斜め横に移す。
「どういう『同盟』だったんだ?侯爵はそう詳しくは説明しなかったが」
「『不婚同盟』と言いました」
「不婚!というと『結婚しません』か?」
「はい」
「何で? 結構お前達の年代はしたがるものだけどな?」
「…言っていいんですか? またずいぶん失礼にあたりますけど?」
「お前俺と会ってから何度失礼なこと言ってるか知ってる?」
知ってる。それに甘えていることも。
「別にいいんだよ。そういう奴がたまにはいないと俺はつけあがる。つけあがってどうしようも無い奴になってしまう。それはたまらない。確かに俺はこの国では特別品だがな」
テーブルに片ひじついて、何気なくそんな言葉を吐き出す。
「そもそも発端は友人の――― その侯爵夫人になったカン・リュイファが怒ったことだったんですが」
「ふむふむ」
「私達、国史政経の授業を受けていたんです。ちょうど四代帝陛下の御代の頃だったんですが… その時代に、『女性の政治参加禁止』が決められた、と言うことを習って」
「ああ、そのことか」
「で、私はその時寝てまして……」
思わず頬が赤らむのを感じる。彼はにやりと笑う。
「その授業の内容はよく覚えてないんですけど、リュイが説明したところによると、皇帝陛下の女性方の親族が政治に口を出すことを危険視したために、皇后陛下、夫人方、及びその親族の政治参加を禁止する、と言うことでした」
「まあそうだな」
「あたしはまあそれも尤もだろうな、と思いました」
「何故だ?」
「だってもしその親戚ということだけでいい地位についた人が政治をしたら、確かに危険だと思いますし、後宮の方々が感情にまかせてとんでもない法律とか作ったら怖いじゃないですか」
そうだな、と彼はうなづく。
「ただ、彼女が怒って… その話を聞いて私も怒ったのは、その『後宮の方々の政治参加禁止』がいつのまにか『女性の政治参加禁止』にすり変わってしまったことです」
「続けて」
彼の顔がやや真面目なものになる。
「上つ方がそうだから下までそうなる、というのも確かにそうかも知れないんですが… 『女性の政治参加禁止』がさらに『女性は政治をするべき存在ではない』『女性に学問は必要ない』… とかどんどんすり変わっていってしまって」
「確かにそうだな」
あたしは顔を上げた。先程までの笑いが消えている。
「まあ、事実だな。確かにすりかえはあったんだ」
「陛下」
「だけどそれと結婚しない、とどう関係があるんだ?」
「あ、だから世間の風潮がそうでしょう? 『女はやがて結婚して子供を産んで家庭を守ってたくだけなのだから学問など必要ない』と。だから結婚しない女を名乗れば好きな学問もやっていけるんじやないかなと」
「単純」
「私は単純ですもの」
何となく言い返したい気分になっていた。
「まだ何をしたいってのは無かったですけど、うちはそう裕福じゃないから… 兄様や母様達に迷惑かけたくないし… 自分にできることを探して、一人でもやっていけるようにしたかったんです」
「なるほど」
「リュイにはもう少し深い考えあったかもしれませんけど――― あの人は自分だけでなく、他の人のことを考える余裕もあるし。でもあたしは単純ですから。余裕だってまだ無いから、自分のことしか考えられないし… でも単純なりに真剣なんです! 真剣だったんですから…」
「ちょっと待て、泣くなよ」
手を前に突き出される。ぎくり、と心臓が飛び出しそうになる。
「俺は女に泣かれるのは本当に嫌なんだ。何だったら別に今日は何もしなくてもいい」
「昨日もそういう類のことをおっしゃいましたのに」
「あれは俺、嘘ついてないけどな? ちゃんとお前の言い分は聞いた」
…確かにそうだった。
「誰にでもそうおっしゃるのでしょう?」
「まあな」
何となくむかむかする。
「だけどその時俺の前に居る女が、その時の一番だからな」
「もっと美しい方だって沢山いらっしゃるでしょうに!」
「そんなのはつまらん」
「は」
「姿が綺麗だの、気だてがいいだの、礼儀正しいだの、そんなのは探せばごろごろしてる。だいたい周りが俺に押しつけるのはそんな女ばかりだ。最初はそれでも良かったさ。だけどな」
彼はそこで言葉を止めた。
「ところでお前も、どうして嫌だったなら逃げなかったの?」
あたしは反射的に口を押さえる。痛いところをつかれた。
最初に言われてはいた。「本当に」嫌だったら逃げてもいい、とあの女官長に言われていたのだ。皇帝陛下がそう仰せだ、と。
「俺は別に止めないし、お前が逃げようが何だろうが、お前の一族に危害を加えようとは思わない。今までの女達にも皆そう言ってきた。去るも自由、留まるも自由、と。中にはそれで逃げた女も居たしな」
「その方は」
「最初の日に、何も無しで行ったから、取り返しのつかないことにもならずに済んだしな。お前も結構その類かと俺は思ったんだけどな?」
「馬鹿にしないでください!」
思わずあたしは怒鳴っていた。
「逃げようなんて… 思ったこともないわっ! 来ると覚悟したんだから、いくら不本意だろうと、居ようとは思ったのよっ! 一度決めたことを覆すなんて、それはあたしじゃない! ただ…」
「ただ?」
「覚悟が… 緩んでしまって」
「どうして?」
「だって… 陛下が…」
喉が詰まる。
ああ全く。言える訳ないじゃない。一目で好きになってしまった、なんて絶対に信じてもらえる訳ないじゃない。
「俺が何だって? 言ってみな?」
声が出ない。ただあたしは首を横に振るしかできなかった。放っておくと、また勝手に涙目になってしまう。うつむく。顔が見えないように。
言いたい。でも言えない。すごく困る。こんなこと今までなかった。見ればどきどきする。声を聞けばいい声だと思ってしまう。触れられれば過剰に身体が反応してしまう。
「ずっとそのままでいるか?」
やや怒ったような、呆れたような声。とんだ強情物だと思っているに違いないわ。弁解したい。だけど弁解するのはあたしらしくない。
「別にいいさ。そうしたら、『そこで』襲うぞ」
あたしは驚いて顔を上げる。黒い瞳と真っ直ぐ視線がぶつかってしまった。心臓の音が聞こえる。どんどん速度を上げていく。病気じゃないかと心配したくなるくらいに。
「逃げないんだな?」
ほとんどにらんでいたんじゃないか、とあたしは思う。
声がどうしても出せないから、思いっきり勢いよくうなづいて見せた。
すると皇帝陛下は腕を伸ばして、太くはないけど筋肉のかたまりのような腕であたしを軽々と抱き上げた。
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