第三十話 ゲティスバーグ演説

フランスがプロシアに宣戦布告したという知らせはリンカーン大統領を絶望させていた。

彼は、本来の歴史で言えば、アメリカ史上最高の大統領と、その名を刻まれる大統領である。

演説が上手いだけではなく、戦略眼もあり、その先の動向を見抜く目も持っている。

だから、フランスのプロイセンに対する宣戦布告は無謀なものであることをいち早く見抜いていたのだ。


「しかし、大統領閣下、フランスがプロイセンを倒す可能性もあるではありませんか」


「確かに、フランスが勝つ可能性は存在する。

だが、戦う意味が何処にあるのだ。

ナポレオン三世は、どうしてプロシアの挑発に乗ってしまったのだ」


「フランス民衆がそれを求めたのです。

我々同様、フランス皇帝も民衆の声には逆らえない。

それは、大統領閣下もお分かりのことではありませんか」


そう言われて、リンカーンは苦笑する。

確かに、彼自身も、アメリカ民衆の声に逆らうことが出来ず、この南北戦争を始めてしまっているのだ。

だが、リンカーンには、明確な目的も、成算もあった。


この南北戦争に勝てば、アメリカ合衆国は中央集権国家として、世界最大最強の国家となる道筋が整えられるはずだったのだ。

これまでのアメリカ合衆国は、各州の権限が大き過ぎた。

その為に、国としての統一性に欠けていたのだ。

だが、この南北戦争で、リンカーンが勝ち、中央集権化する事が出来れば、アメリカ合衆国は飛躍することが出来るとリンカーンは考えていた。


資源豊富で、農作物も豊かに実る広大な大地。

大海に囲まれ、強力な敵が近くにいない安全な環境。

身分制度がなく、優れた者が、その才能を生かせる社会。

そこには、戦乱を嫌う、優れた人々が多く、やって来ることだろう。

そうすれば、アメリカ合衆国は未曾有の発展を遂げることが出来る。

リンカーンは、その発展を確信していた。

だから、この戦争を始めたのだ。


勝算はあった。


もともと、奴隷州である南部と、リンカーン率いる北部との間には明確な戦力差があったのだ。

南部は奴隷を人口に含んだとしても、北部の半分程の人口しかない。

人口が少なければ、戦力も当然少なくなる。

その上で、奴隷は戦力としては使えない。

奴隷に武器を与えたところで、素直に奴隷が農場主の為に戦ってくれるとは限らない。

むしろ、反乱を起こされる危険さえあるだろう。

そんな危険を冒してまで、南軍が奴隷を兵力として使うはずはない。

その様に、奴隷を戦力として使えない以上、南北の戦力差は更に大きくなる。

戦争において、数は力だ。

それだけでも、十分に勝てるはずだった。


更に、農業を主要産業とする南部と、工業を主要産業とする北部では明確な技術差があった。

自分で武器を大量に生産出来る北部と、自分で武器を作る技術が足りず、武器輸入に頼らざるを得ない南部。

優れた武器と大量の兵力差。

もう、負けることが難しい位の状況だったはずなのだ。


南北戦争は、倫理的な正しさを信じて戦う北部の人々と、死活問題として戦う南部の人々の間の戦争。

北部の人々は主義主張の為に戦うが、南部の人々は自分の生活を守る為に死に物狂いで戦う。

士気の差は明確に存在した。


その上、北部の職業軍人、多くの高級士官が、北軍を抜け、南軍の参加してしまったのはリンカーンにとって痛手であった。

だが、それでも、戦力の差は大きい。

士気や指揮官の差だけで、戦略的優位を覆すことは難しい。


それ故、リンカーンを含む北軍軍部は短期決戦で南軍を倒せると考えていたのだ。


予定通りの短期決戦ならば、外国勢力が介入する余地はないはずだった。

しかし、南軍に参加した指揮官が予想以上に有能で、最初の戦いで北軍は大敗してしまった。

そうなると、戦略的優位を確保している北軍が敗北することはないにしても、戦争が長期化してしまう可能性が生まれる。

戦争が長期化すれば、その隙をついて、外国勢力が介入して来る余地が出来てしまう。

それが、リンカーンにとっての悪夢であった。


欧州列強にとっては、アメリカ合衆国は分裂していた方が都合が良いのだろう。

分割して統治せよという大英帝国のやり方も、リンカーンは、よく理解している。

戦争が長引けば、欧州列強はアメリカ南部に加勢し、アメリカ分裂を促進させ様とする危険は十分にある。

そんな事態を防ぐ為、リンカーンは奴隷解放宣言で、南部に欧州列強が協力する大義名分を奪い取り、倫理的にも介入の余地をなくすつもりだったのだ。


しかし、実際に各新聞から流された奴隷解放宣言で全ては変わってしまった。


流出した奴隷解放宣言は世界中に衝撃を与え、かえって、外国勢力介入を招いてしまった。

その上で、南部から出された奴隷人権宣言。

奴隷人権宣言は、奴隷解放宣言の中にあった倫理的な優位性を奪い取り、欧州列強がアメリカ南北戦争に参戦する口実を与えてしまった。


奴隷解放宣言が出された時、最初、リンカーンは首脳部の誰かが勝手なリークをして、状況を悪化させたことを疑っていた。

奴隷解放宣言が出されたのは、北軍が南軍に大敗した直後。

南北戦争長期化の恐れが生まれ、南軍のワシントン侵攻が心配された当時。

奴隷解放宣言は敗北で打ちひしがれたアメリカ合衆国民を叱咤激励し、再び立ち上がる力となっていた。

だから、リンカーンの指示も聞かず、誰かが勝手に情報を流し、戦意高揚に使ったのではないかとリンカーンは考えていたのだ。


だが、発表された奴隷解放宣言の中身はリンカーンが当初発表を考えていた以上に過激で危険なものであった。

それは、人類の平等を謳う高らかな宣言。

全ての差別に敵対し、自由と平等の為に戦う宣言。

自由と平等を信じる者であるならば、決して否定出来ない圧倒的な正義であった。

しかし、それは同時に差別により、現状を固定し、既得権益を貪る人々にも、宣戦布告に等しいものでもあったのだ。


リンカーンは、奴隷解放宣言で、そこまでやるつもりはなかった。

彼は演説の名手ではあるが、言葉の危険性を熟知もしていた。

奴隷解放宣言は、植民地を持つ欧州列強を刺激しない様、題名は奴隷解放宣言でも、特別な演説などするつもりはなかったのだ。

あくまでも、南部の奴隷を解放することだけを謳う宣言文。

南部の奴隷の反乱を招き、欧州列強から参戦の口実を奪うための手段。

そのはずだったのに、戦意高揚の為に、ここまでやってしまうとは。


それ故、当初、リンカーンは奴隷解放宣言を本当に書いた何者かに激怒していた。

目先の危険性しか見えず、欧州列強の介入という危険性も判らない愚か者に、全ての計画を台無しにされたと。

あるいは、倫理的な正しさに酔った教条主義者が、先のことも考えすに勝手なことをやったのかとも。

もしくは、ただ目先の戦闘に勝つことにしか目に入らない視野狭窄な軍人がやったのかもと。

そんな連中が、奴隷解放宣言を自分に都合の良い様に変えてリークしたことを疑ったのである。


そんなリンカーンの疑惑を一挙に払拭したのが、奴隷人権宣言であった。


奴隷人権宣言を読んだ時、リンカーンは全てが謀略であったと確信した。

多くの人は、奴隷人権宣言は奴隷解放宣言を読んで、それを真似たものに過ぎないと考えていた。

だが、自分が考えていた奴隷解放宣言と全く異なる奴隷解放宣言を流出されていたリンカーンは、奴隷解放宣言と奴隷人権宣言の作者が同一人物であることに気が付いたのである。


それは、恐るべき謀略であった。


奴隷解放宣言により、インドを始めとする植民地各地の反乱に苦しむ欧州植民地宗主国の敵意をアメリカ合衆国に向けた上で、奴隷人権宣言でアメリカ南部を支援する口実も生み出す謀略。

それは、全てアメリカ合衆国に向けられた刃であった。


最初、リンカーンは、その謀略の源泉を大英帝国であるのではないかと疑っていた。

アメリカの分裂は間違いなく大英帝国の利益となるのだから。

だが、大英帝国の植民地での反乱も、他と変わらず、場合によれば、他の宗主国の植民地に以上に、激しくなるばかりであることを確認すると、謀略の主を南部にいると判断するようになった。

奴隷人権宣言起草者と言われているジョン・ブルック中佐。

南部では、次期大統領と噂される危険な男。

その男が、南部の生活を守る為に、全てを企みアメリカ合衆国を分裂させようとしていると考えたのだ。


フランスとプロシアの戦争は、フランスが戦略的に圧倒的に不利だ。

プロシア戦略的優位のまま、戦争が終われば、フランスは敗北し、アメリカ合衆国を大英帝国海軍から守ろうとするフランス海軍も撤退することになるだろう。

そうなれば、アメリカ合衆国の戦略的優位は失われるだろう。


来年はアメリカ大統領選挙。

その戦況はリンカーンにとって非常に苦しい状況だ。

1862年の中間選挙では戦争中にも関わらず、勝てないアメリカ合衆国への批判が集まり、リンカーンの属する共和党は大敗。

1864年の大統領選挙の準備として、同じ共和党は何とかまとめたが、民主党のタカ派は原住民がアメリカ西部を事実上支配している現状を激しく非難し、アメリカ原住民を西部から追い出さない限り、リンカーンを引きずり下すと宣言していた。

リンカーン自身、アメリカ原住民嫌いで西部を事実上、アメリカ原住民に占拠されている現状に怒りを覚えていた。

だが、ここで、南部だけではなく、西部まで敵に回すことはアメリカ合衆国の自殺行為となると抑えていたのだ。

そんな事実も判らずに、西部奪回を要求する民主党タカ派とリンカーンは敵対せざるを得なかった。

加えて、負け続きの南北戦争に厭戦気分が更に広がっていた。

だから、南部の独立を認め、西部を取り戻そうとする民主党の大統領候補ジョージ・マクレランが人気を集めつつあったのだ。

リンカーンは、アメリカ分裂を認めることは出来なかった。


リンカーンが大統領選挙に勝つ為に必要なのは、南軍に戦場で勝利することと、再びアメリカ民衆の心に火をつけることであった。


そこで、行われたのが、この南北戦争の犠牲者追悼の為に行われたゲティスバーグ演説である。


このゲティスバーグ演説は、最も有名なアメリカ大統領の演説と呼ばれ、奴隷解放宣言、奴隷人権宣言と並んで、歴史的に高い評価を受ける宣言でもある。


1863年11月リンカーン大統領はゲティスバーグに立つと演説を始める。

この演説は約2分間の極めて短い演説である。

本来の歴史であれば、リンカーンは声高らかに民衆に語り掛けた演説ではなく、祈るような小さな声でされた演説であり、短すぎて演説中の写真すら残っていない演説でもある。

だが、新聞に掲載された演説の文章が世界中に広がり、アメリカ合衆国民の誇りともなる演説でもある。


だが、こちらの世界線において、リンカーンは、奴隷解放宣言などの報道により、報道の重要性はよく解っている。

だから、報道陣に、これから重大な演説を行うと触れ込み、写真を撮らせて演説を始める。


「87年前、我々の父祖たちは、自由の精神に育まれ、人はみな平等に創られているという信条に捧げられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。

今我々は、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。


我々はこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。

我々がそうすることは、まことに適切であり好ましいことである。


しかし、さらに大きな意味で、我々は、この土地を捧げることはできない。

清め捧げることもできない。

聖別することもできない。

足すことも引くこともできない。

我々の貧弱な力を遥かに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげているからである。


世界は、我々がここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶に留めることもないだろう。

しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできない。

ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きている我々なのである。

我々の目の前に残された偉大な事業にここで身を捧げるべきは、むしろ我々自身なのである。


名誉ある戦死者たちが、最後の全力を 尽くして身命を捧げた偉大な大義は決して無意味ではない。

自由を犠牲として、家畜の様に人が人に飼われることなどあってはならない。

名誉ある戦死者たちが守ろうとして戦ったのは、全ての努力する者が報われる自由だ。

人が人である為に必要な自由と平等だ。

我々がなすべきなのは、彼らの後を受け継いで、我々が一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、我々がここで固く決意することである」


南部の奴隷人権宣言も意識し、それを否定したリンカーンの演説は再び世界に激震を与える。

自由か生活か、自由を守るならば、どんな状況からでも努力が報われる世界を作り上げるべきだとの声も上がる。

植民地の独立運動は更に激化の一途を辿る。

だが、言葉だけでは、アメリカ合衆国国民の支持を確保し続けることなど出来ないことをリンカーンも理解していた。


だから、リンカーンはフランス・プロシア戦争の決着がつく前に南軍への大攻勢を命じる。

フランスがプロシアに負けた後では、戦略的優位は取り戻せなくなる。

その前に、決着を付ける必要があると思ったのだ。

リンカーンが大統領選挙の勝利を目指すのは、アメリカの統一を守る為。

その為に、多少の犠牲を払っても、短期間で勝たなければならないとリンカーンは考えていた。


だが、本来の歴史で活躍するはずであったユリシーズ・グラント将軍は日本で軍事部門の教官として働いており、同じくグラント将軍の下で活躍するはずだったウィリアム・シャーマンは日本商社のサンフランシスコ支店で原住民の補給路の確保を行っている。

南軍の名将リー将軍に勝てる将軍がいないまま、北軍の大攻勢が始まる。


1864年のアメリカ大統領が近づいていた。

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