第八話 日本商社大株主 島津斉彬

阿部正弘が隠居して老中を退いて、暫くすると、裏閣議で言っていた通り島津斉彬も薩摩藩主を退いた。


理由は大きく分けて二つ。


一つは、少しでも斉彬自身が生き残れる可能性を高める為。


平八の夢によると、斉彬は阿部正弘の死の翌年に流行り病で死ぬとされている。

しかし、江川英龍などは、隠居して命を長らえている者もいる。

そこで、斉彬は、それに倣い、隠居を選んだのだ。


また、斉彬の隠居には、暗殺の危険を避ける為という理由もある。

平八の夢では、斉彬は病死したと言われている

だが、その死には不審な点も多いのだ。

本国、薩摩には父斉興を筆頭として、斉彬を嫌う勢力が存在する。

そして、現実に、斉彬の子ども達が次々と夭折している。

そんな中、斉彬は薩摩帰国中に、急病で亡くなったと言われているのだ。

その様な状況で、暗殺を警戒しない理由はなかった。


そこで、斉彬は薩摩藩主を隠居した上で、父斉興の望む血筋である弟久光の長男忠義に薩摩藩主の座を継がせることにした。

斉彬が父斉興に命を狙われるとすれば、薩摩藩の命運に掛かることが最大の原因だと考えられる。

しかし、日本を一つの国にして、欧米列強に立ち向かおうと考えていた斉彬にしてみれば、その様な理由で殺されては堪ったものではない。

加えて、今は国防軍や日本商社など、隠居して家と離れた後ではないと、就任出来ない要職も存在する。

そんな状況で、薩摩藩主の座に拘る理由は、斉彬の中にはどこにも存在しなかった。


そして、もう一つの理由は、日本の体制を安定させる為。


阿部正弘の改革により、日本には強大な国防軍が生まれて、各藩の軍備が縮小され、日本商社が日本全体の交易及び内政を取り仕切る体制が出来つつある。

強大な国防軍は、異国の侵略を防ぐ為の要の存在である。

それ故、斉彬は、国防軍を強化する為に、資金や武器を提供し、多くの薩摩藩士に国防軍への参加を指示しているのだ。

そこに、一切の野心はない。

ただ、日本を守るという国防の為の行動である。


だが、斉彬が元薩摩藩士が多い国防軍に参加してしまうと、幕府側の警戒心を煽ることになりかねないという危険が存在していた。

幕府旗本、譜代大名の家臣の中には、国防軍に参加せず、従来の幕府の仕事に固執している者もいる。

新たな組織に対し、古い組織に属する者が敵意を感じるのは自然なことである。

そんな中、斉彬が国防軍に参加し、国防軍の主導権を握ってしまえば、古い組織に残った旗本、譜代大名藩士の敵意が一斉に、国防軍に対して燃え上がるかもしれない。

その様な事態は、日本を一つとして、欧米列強に対抗する国にしようと考えている斉彬が望むことではなかった。

その為、斉彬が国防軍に参加するという選択肢は在りえないものとなっていたのだ。


加えて言えば、国防軍には、大久保一蔵(利通)がいて、国防軍総帥である一橋慶喜の腹心の地位を得ているという点も重要である。

二人とも、平八の夢では、まだ暫く、死ぬ恐れのない人物である。

特に、一蔵には、平八の夢の話を伝え、日本を一つにするという斉彬の意思も伝えてある。

つまり、国防軍は、斉彬が参加せずとも、旗本と対立する様な事態を避け、異国の侵略を撃退する為に動いてくれるであろうと期待出来る状況ではあった。


それ故、斉彬は日本商社に参加する道を選ぶことにしたのだ。


その最大の理由は、日本商社に参加すれば、斉彬自身が武力から離れ、薩摩藩や斉彬の武力蜂起を警戒する人々からの猜疑心を躱すことが出来るという点にある。

まあ、実際のところ、武力だけではなく、金も、また力である。

だが、武士で銭の力を知る者は決して多くはなかった。

平八の夢では、安政の大獄という大粛清をするはずであった井伊直弼も、斉彬の日本商社参加に驚いたようだが、反感を抱いている様子はない。

こうして、斉彬は、日本商社の大株主の一人として、日本商社の経営に参加することとにしたのである。


斉彬の目的は、交易によって日本を豊かにし、薩摩で既に成功している産業革命を、日本商社の莫大な資金を利用して、日本全土で実現していくこと。

現在、日本商社を経営している井伊直弼と小栗忠順おぐりただまさは、どうしても徳川家を優先する傾向がある。

その結果、日本全体の利益を損なう危険があると言うのが、勝麟太郎の見立てである。

だが、今の勝では、日本商社に参加していても、上層部の彼らに意見出来る様な立場ではない。

それこそが、斉彬が日本商社に参加した理由の一つなのである。


加えて、近々、日本商社を背負って立つだろう小栗忠順に会い、あるべき日本の姿を伝えておこうという考えも斉彬にはあった。

平八の夢通りならば、来年には斉彬が病死し、3年後には井伊直弼が襲撃を受け死ぬという。

ところが、小栗忠順は、これから11年後の鳥羽伏見の戦の後の大阪籠城戦に駆けつける途中で、奇襲を受けるまでは無事のはずなのだ。


平八の予言とは異なり、情勢は大きく変化してきている。

だが、夢の通り、変えられない運命も存在する様なのだ。

となれば、夢の通り、小栗だけが少なくとも11年間は生き残り、日本商社を掌握する可能性が存在する。


この点、同じ様に日本商社に在籍している勝が小栗に意見し、その方針を変更させれば良いのかもしれない。

だが、前述の通り、勝と小栗の間には身分の差があり、勝は小栗に諫言出来るような立場ではない。

しかも、徳川家第一の小栗には、国が割れ、徳川の世が終わると言うような平八の予言を伝え、信じて貰うことは非常に難しいだろう。

だから、斉彬は、予言のことは伝えずに、少しでも、将来日本商社を取り仕切ることなる小栗と話しておこうと思ったのだ。


「それで、太平天国に売る武器は、幕府の古くなった武器だけでは足りぬと仰せになるのか」


井伊直弼が尋ねると島津斉彬は頷いて答える。


「如何にも。

もし、本当にロシアが清国の援助をしているのであれば、それに対抗する為の武器は幾らあっても足りません。

ならば、幕府の古い武器だけに拘るべきではないかと」


「しかし、各藩が武器の供出に応じるかどうか」


小栗が不審げに尋ねる。

切れ者の小栗のことだ。

この後、斉彬が提案する話も理解しているのだろう。

だが、納得し受け入れて貰わねば、後々困ることになる。

そう考えて、斉彬は応える。


「供出ではありません。

触れを出し、買い取るのです。

商人と相談し、相場を確認した上で、値段を決めて、伝えるのです。

火縄銃なら幾ら、大筒なら幾らと値段を明確にした上で、希望する藩から買い取れば良い。

多くの藩は厳しい財政状況と聞いております。

そんな中、使わない武器を買い取ると言えば、喜んで売りに出される武器があることでしょう」


幕府と他の藩の付き合いは当然ながら対等なものではない。

力により相手を従えた主従関係に近いものである。

それ故、命令して提供させることはあっても、買い取るという様なことはしないのが当然だ。

その為、井伊直弼が即座に斉彬の言葉に反発する。


「買い取りなど、する必要はございませんでしょう。

島津殿が仰る通り、ロシアが清国内で勢力拡大することを防ぐ為に、多くの武器を太平天国に渡すことが、どうしても必要であるならば、各藩に武器の供出を命じれば良い。

日ノ本を守る為に必要なのです。

使わなくなった武器など、供出して当然でございましょう。

そして、もし万が一、武器を隠し、従わないならば、それは叛意の証拠。

逆賊と断じても良い。

お取り潰しされても仕方のないことでございましょう」


直弼はそう言いながら、隠し切れない笑みが口元から零れる。

もし、斉彬の言う通り、各藩から武器を供出させることが可能であれば、各藩の軍備を削減することが出来る。

それは、徳川家の地位をより確かなものとするに違いない。

その上で、提案者が島津殿ならば、反感は島津殿、延いては薩摩藩が被ることになるだろう。

幕府にとって、良いこと尽くめではないか。

そんな風に考える直弼の様子を、斉彬はため息を隠しながら見つめる。


やはり、危うい方の様だ。

権力に酔うておられる。

あるいは、平八の夢で、暴走したという話を聞いているから、余談があるのやもしれない。

だが、権力さえあれば、何でも出来るという妄想に直弼が憑りつかれている様に、斉彬の目には見えた。

さて、どう伝えるか。

斉彬は考えながら、話始める。


「井伊殿の仰せの通り、供出しろと命令し、従わねば罰を与える。

確かに、今の様な外敵のいない時代であったなら、それで良かったのやもしれません」


徳川の世は、戦乱の世を治める為に、発展も変化も全て力で押さえつけた時代だ。

各藩に参勤交代などの負担を与え、民百姓には、余分な力を蓄えられないようにする。

昨日と今日と明日は何も変わらない天下泰平の250年。

進歩や変化を拒み続けた250年。

それは、明日をも知れぬ戦乱の世から比べれば100倍マシな時代であったのかもしれない。

だが、欧米列強が侵略の牙を剥く、この時代では不都合なのだ。

斉彬は話を続ける。


「だが、欧米列強が侵略の牙を剥く、この時代には、残念ながら、不向きなのです。

それは、もし、家康公が、この時代に、ご健在であったとしても、納得して頂けることかと思います」


「権現様(家康公)ならば、何を納得すると言うのですか」


直弼が尋ねると斉彬が応える。


「異国には、『分割して、統治せよ』という言葉があると聞き及んでおります。

方々はご存じか」


「確か、古代ローマの言葉とも、英国女王の言葉とも聞きますな」


小栗が応えると。斉彬が頷く。


「如何にも。

そして、その言葉通り、大英帝国は天竺などの藩の争いを誘発し、漁夫の利を得ていると聞き及んでおります」


「つまり、島津様は、幕府があまり強権を発動し過ぎると、各藩から幕府が反感を買い、異国に付け入る隙を与えてしまうと」


小栗がそう言うと直弼の顔色が変わる。

それこそ、直弼が最も恐れている悪夢。

もともとは、阿部正弘より聞き、目の前にいる島津斉彬が実行するのではないかと恐れていること。

それを、まさか島津斉彬本人から聞くことになろうとは。


「その様なこと、決して許す訳には行かぬ。

異国との交流は、我らが独占的に管理するもの。

我らに隠れて異国と交流する様な藩があれば、即座に取り潰すべきだ。

まして、幕府に叛意を持ち、異国の力を使って、幕府に対抗するなど、日ノ本を異国に売り渡す売国奴ではないか」


直弼が憤慨するのを斉彬が宥める。


「それだけではございません。

アメリカに行ったお二人ならご存じであると思いますが、異国は兵の数が多い。

武士という階級がなく、民草まで武器を持って戦うと聞き及んでおりますが、間違いございませんか」


急に話題を変えられた直弼が言葉に詰まると、小栗が応える。


「確かに、アメリカでは誰もが銃を持っておりました。

その強大な兵力に対抗する為、民百姓も国防軍に加え、更に、そろそろ徴兵制度、国民皆兵制度を導入すると聞き及んでおりますが」


そこまで言って、小栗は納得した様に呟く。


「なるほど、そう言うことですか」


小栗の頭の回転の速さに感心しながら、斉彬が説明を続ける。


「強力な外敵のいない家康公の時代なら、幕府は、日ノ本にいる各大名の力を削ぎ、民百姓が一揆などを起こす力を与えないだけで十分だったのでしょう。

そのことによって、長きに渡り、我らは戦のない、天下泰平の世を享受出来た。

ですが、強力な外敵のいる状況では、日ノ本に住む者の力を削るなど自殺行為に等しい。

国民皆兵を目指すなら、幕府は民草に憎まれる存在であってはならない。

武器を持った民草が、蜂起しようなどと考えたりしないことが必要です。

徳川の世が続いていく為には、日ノ本に住む全ての者が豊かさを享受し、徳川の世が続くことに感謝する仕組みを作る必要があるのです」


斉彬の望むのは、日本が一つの国となり、異国の侵略を跳ね除けること。

その際、本音を言えば、誰が中心になっていても構わないと思っている。

実際、斉彬は、日本を一つにした上で国民皆兵にするなら、レパブリック(共和制)等を導入すべきと考えている位であるし。

レパブリック導入の結果、幕府の力が徐々に衰えていくのも仕方のないことであるとは、阿部正弘でさえも思っていたのだ。

だが、井伊直弼と小栗忠順は、徳川の世が第一の人物。

ならば、その為の知恵を貸し、実行して貰うのも構わない。

斉彬がそんな風に考えていると、井伊直弼が尋ねる。


「その様なこと、本当に可能であるとお考えか?」


「日本商社は、その為にあるのではございませんか?

日本商社が発展し、幕府が発展すれば、日ノ本全体が豊かになり、日ノ本に住む者は、誰でも、昨日より今日、今日より明日の方が良い暮らしが出来る。

その様な仕組みが出来上がれば、誰が幕府に叛意など、持つことでしょうか」


「各藩の武器を買い取ることも、その一環ということですか」


小栗が尋ねると斉彬が頷く。


「確かに、強権を持って武器を供出させることも可能でしょう。

ですが、どうせなら、各藩に感謝されて、武器を受け取った方が良い。

商いですから、太平天国に武器を売る際は、買った値に利益を付けて売り渡すのです。

そうすれば、売った者は使わない武器を売って利を得、我らは太平天国に武器を売ることで利を得、太平天国は足りない武器を購入することで利を得ることが出来る。

誰もが利を得る仕組みとなる訳です」


斉彬がそう言うと暫く考えた後、直弼が尋ねる。


「だが、幕府に叛意のある藩が古い武器を売り、得た利益で反乱の為の新しい武器を買ったら、どうする?」


「新しい武器は、それこそ、我ら日本商社と国防軍が管理するもの。

勝手に新型の武器を買うことなど、不可能であるかと。

まして、参勤交代の軽減の代わりに、今は各藩の財政状況が報告されております。(第四部第十三話国防軍創設の第一歩参照)

その様な状況で、武器を売却した利益をどの様に使うかも、全て把握可能である以上、心配はご無用かと」


斉彬がそう応えると、暫く考えた小栗が尋ねる。


「日ノ本を豊かにすることによって、徳川の世を盤石とする。

その考え方は、非常に魅力的ではあると思います。

ですが、本当に、その様なこと、可能なのでしょうか」


「その為には、皆様のお知恵を拝借せねばならないところではございますが、目指すべきことではありますな。

また、この考えは、日ノ本と異国との関係においても言えること。

日ノ本が繁栄することにより、地球全体が繁栄するなら、如何に欧米列強が貪欲であろうとも、日ノ本を侵略し辛くなるかと」


斉彬の話を聞きながら、この時代最高の能吏の一人、小栗忠順の考え方の根幹が大きく変わろうとしていた。

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