第二十二話 裏切りは突然に

遣欧視察団のオランダ到着と共にヨーロッパでの日本ブームが始まった。


アメリカ、ロシアでの日本ブームとの最大の違いは、視察団団長が日本ブームの旗頭となっていたことである。

ロシアに行った水戸斉昭とアメリカに行った井伊直弼は、身分の高い者として振る舞い、あまり人前に出ず、高位の者としか会わないという方針を貫いていた。

これに対し、本質的に趣味人の一橋慶喜は、興味のあることには積極的に視察に赴き、実際に自分でもやりたがる為、多くの人と出会い、強烈な印象をヨーロッパで振りまくこととなったのだ。


遥か地の果てからやってきた神秘の国の王子様。

それが、シーボルトと共に慶喜が作り上げた自分のイメージだった。

それは、慶喜が既にヨーロッパの政治は世論に左右される傾向があるということを理解していることを示すものであったとも言える。

慶喜のイメージ戦略であった。


平八の見た夢で、数年後に実現されるはずだった遣米視察団では16歳の立石斧次郎という通訳見習いの少年がトミーという愛称で呼ばれ、爆発的な人気を博したという事実が存在する。

これに対し、この当時の慶喜は数えで18歳。

小柄で若く見える日本人は、少年王子としてヨーロッパの少女たちからもアイドルの様な人気を博す要因となったのである。


また、慶喜は、日本においては唯我独尊、傲慢な性格だと言われている。

だが、それは日本人にしては、という意味であったようで、ヨーロッパでは謙虚で礼儀正しく、気さくで誠実であると評価されたのだ。

それが、文化の違いの大きさというものであろう。


加えて、慶喜は、半年の航海の間に、西洋人のマナーを完全にマスターしていた。

その様な人物が、西洋の様々の文化、芸術、技術に興味を示し、楽しんでくれるのだ。

ヨーロッパ人が好意を示さないはずがなかった。


更に評判となったのは、慶喜のダーツの腕前。

元々、慶喜は趣味で手裏剣を極めていた為、その腕前は日本でも屈指のレベルにあり、その腕前を応用した慶喜のダーツの腕前は、何処に行っても喝采を受けるようなものであったのだ。


その様に、日本視察団のオランダ視察と歓待が進む裏側で、アムステルダム王宮では日本の対策が相談され、日本に詳しいとされる人物がオランダ王ウィレム3世の前に呼び出されていた。


「日本が、この様に本国を離れ、世界各国に視察団を派遣するとは、驚きです。

私が赴任していた頃の日本とは全く異なる。

何か根本的な変化が日本に起きているものと思われます」


現在のオランダ商館長クルティウスの前々任の商館長であったレフィスゾーンが答える。

彼がそう答えるのも無理はない。

彼がオランダ商館長であった頃、フランス艦隊、アメリカ艦隊が日本にやってきた際、彼は幕府との間に立って通訳を行っていたのだが、

その頃の日本は鎖国政策真っただ中で、頑迷そのものであったのだから。


「そうか。どうせ変わるのならば、もう少し早く変わって貰えれば良かったのだがな。

それで、どうして日本が、どの様に変わったのか、解る者はいるか」


ウィレム3世はため息混じりに尋ねる。

実際、オランダは約10年前、ウィレム3世の父、2世の代に1844年、シーボルトの意見を入れて日本に開国を促していたのだ。

更に、1852年にもアメリカのペリー艦隊が砲艦外交に向かっていることを警告していた。

だが、日本はその全てを黙殺してきていたのだ。

もし、もっと早く日本が方針を変更し、オランダを頼り開国をしてくれていれば、日本の囲い込みに成功し、対日貿易の利益は独占出来たのであろうに。

現商館長クルティウスからは、対日関係を維持する為にということで要請があり、最新の蒸気船スクリュー船を寄贈し、有能な海軍士官や技術者、医師を日本に派遣している。

それなのに、日本は、アメリカにサンフランシスコ支店を設立し、ロシアとも通商条約を結び、ヨーロッパの他の国とも国交を結ぶことを検討していると言うではないか。

対日貿易の利益を独占したいオランダとしては、ため息も吐きたくなる様な状況なのだ。


「日本という国は、我々と異なり神を持ちません。

つまり、絶対の基準や原則に縛られないのです。

従って、日本は、その気になれば、劇的に方針を変更することが出来るのです。

不本意ながら、アメリカのペリーの暴力が、眠れる龍を起こしてしまったのではないでしょうか」


シーボルトがそう答えると、レフィスゾーンが尋ねる。


「君が日本を離れてから30年近く経っている。

その君が、ここ数年で起こった日本の変化がどうしてわかると言うのだ」


「30年離れようと日本人の本質は変わっておりません。

それに、私のことは日本でも、医術とオランダの技術を広めたものとして残っているようです。

だからこそ、日本は私に日本の領土について、ヨーロッパで広めるよう要請してきたのでしょう」


「だが、君がロッテルダムに行って、プリンス・ケーキに謁見を求めたところ、追い返されたというではないか」


レフィスゾーンが口元を歪めて皮肉を言うと、シーボルトが苦笑して返す。


「確かに、プリンス・ケーキとお会いすることは出来ませんでした。

何しろ、日本において、私は日本の法を破り、日本の情報をヨーロッパに伝えた犯罪者でございますから。

ですが、プリンス・ケーキの通訳をするサナイはオランダ語を学ぶ者。

私に十分以上の敬意を払い、彼らの情報を伝えてくれます」


シーボルトの言葉にウィレム3世は驚いて尋ねる。


「それでは、君は日本が何を望み、これからどうしようとしているのか、その方針も聞いているのか」


オランダ王に尋ねられ、シーボルトは自信たっぷりに頷き答える。


「はい。もちろんでございます。

彼らは、日本の中に閉じ籠ることを止めました。

これは、閉じ籠っていれば、アメリカやイギリスの様に野蛮な国が侵略に来る危険を実感した結果でございましょう。

その為、まず、第一に世界中を周り、情報収集をすることを考えたようでございます」


「我ら、オランダだけに任せるのではなく、他の国とも国交を結び、より有利な条件を探すということか。

信用されなかったことは残念ではあるが、国を治める者としては正しい判断ではあるな」


実際、この当時のオランダは、開国を迫る西洋諸国の中で、最も日本に誠実であったことは間違いない。

もっとも、日本がオランダを信用せず、アメリカと不利な通商条約を結んだりした場合には、日本が不利になることを日本に忠告して、条約の不利な条件を公平に戻すことに協力するのではなく、その不利な条約に便乗する程度の誠実さではあったのだが。


「加えて、日本は貿易で利益を上げ、侵略されないだけの武装を整えることを検討しております。

その点、日本はスクリュー船を寄贈し、海軍士官や技術者を派遣したオランダに大変感謝していると言えるでしょう」


「それならば、何故、日本はアメリカに日本商社の支店を開店したのだ。

感謝しているのならば、我がオランダにこそ、支店を開設すべきではないのか」


ウィレム3世が不満げに尋ねるとシーボルトが答える。


「日本が、それだけ侵略を脅威に感じているということです。

日本人は本質的に、感謝すれば、その感謝を示そうとする誠実な人々です。

ですが、今は侵略の恐怖が日本を縛っています。

その為に、日本は貿易の利益と感謝を別にして考えている様です」


「つまり、アメリカが余計なことをしたから、日本は貿易の利益第一で動き出したということか」


ウィレム3世が苦虫を嚙み潰したような顔で呟くとシーボルトが続ける。


「そうです。だから、日本はアメリカとの貿易で利益を上げる為に、サンフランシスコに支店を開くことを決めたのです。

ヨーロッパからアメリカは遠過ぎますからな」


確かに、アメリカと貿易をしようと言うのに、ヨーロッパに支店を開いても意味はないだろう。

そう言われて、ウィレム3世は少しホっとしたように息を吐く。


「ならば、ヨーロッパでは我が国に支店を開くことを考えているのか」


「いえ、残念ながら」


シーボルトは残念そうに頭を振る。


「日本は、これまでの航海でオランダの国力が落ちていることを知ってしまいました。

そして、ヨーロッパは多数の国に分かれていることも日本人たちは理解しました。

だから、彼らはヨーロッパの中で、最も多くの港を持ち、購買力もあるイギリスと通商条約を結び、イギリスの植民地に支店を開き、有利な条件で世界中で貿易することを考えていると聞いております」


確かに、日本が世界中と貿易するなら、イギリスと組むことが出来れば、それがベストだろう。

もし、イギリスが関税を安くすることに合意すれば、世界中にあるイギリス植民地に支店を開き、そこで貿易を行えば、日本の利益は最大になるだろう。

だが、イギリスが、その様な条約に合意するのかどうか。


「アメリカの日本に対する関税はどうなっておる?」


「時限かもしれませんが、今のところ、関税は掛けていないようです。

おそらく、世界で最初に、日本商社の支店を開設されたという成果を誇り、選挙に有利にしたかったのでしょう」


「それで、アメリカに利益があるのか」


「関税は入らずとも、日本はサンフランシスコで様々な注文をし、多くの日本人が滞在します。

更に、日本の品を求めて、多くの人がサンフランシスコまでやってくる。

それで、十分な利益になると考えたのでしょう」


そう言われて、ウィレム3世は考える。

もし、日本がイギリスとの条約締結に成功したならば、日本が安い関税でイギリス植民地から世界各地に貿易をすることを防ぐ方法はないだろう。

何しろ、オランダの植民地は、イギリスほど沢山ないのだから。


だが、ヨーロッパ限定で考えればどうだ?

幸い、オランダはヨーロッパの中央付近に存在する。

アメリカの様に、日本に関税を掛けず、支店を開設させる。

その上で、倉庫も用意してやれば、日本の品が大量に集まるだろう。

その品を目当てに、イギリス、フランス、ロシア、イタリア、それにプロイセンの商人たちが、オランダに集まることになるだろう。

それは間違いなく、オランダの利益となるだろう。

少なくとも、イギリス本国に日本の支店が作られ、日本との貿易の利益を独占されるよりは、ずっとマシだ。

ならば、ヨーロッパで日本ブームを起こす為に、日本に協力してやらねばならないか。

そう考えたウィレム3世は大臣に声を掛ける。


「アメリカの様に、日本に関税を掛けない代わりに、日本商社の支店を開設させることは可能か?」


ウィレム3世が尋ねると大臣は即答を避け、その場合の利益を試算することを約束する。

その様子を見たシーボルトは、思惑通りに事が進んだことに口元を緩める。


その後、日本対策会議が終わると、シーボルトは橋本左内に会いに向かい、結果を報告する。

その報告を受け、橋本左内は一橋慶喜との面会を求め、すぐに左内は慶喜のもとに通される。


「そうか。シーボルトはうまくやったか。これで、ヨーロッパでの交渉がやりやすくなるな」


橋本左内の報告を聞くと、慶喜が口の端を歪めて微笑むと左内は不思議そうな顔をする。


「何だ?何か、不審な点でもあるのか。直答を許すと言っておるだろう。聞きたいことがあるならすぐに聞け」


「それでは、恐れながら。殿はシーボルト殿を間諜にすると仰せでございました。

ですが、今回シーボルト殿がオランダ側に伝えたことは、全てこちらの本当の情報。

何一つ騙さず、オランダ側に情報を与えただけではございませんか」


左内が尋ねると慶喜が笑う。


「当然だろう。まずは、異人どもにシーボルトの持つ情報が正しい、役に立つと認識して貰わねばならぬ。

さもなくば、異人共もシーボルトに重要な情報など流さんであろう。

その上で、シーボルトの方も、ワシと会ったことを秘密にしたようだからな。

シーボルトにも異人への裏切りを積み重ねて貰い、我らを裏切らないようにせねばなるまい」


「それでは、今回はオランダを欺くつもりはないと」


「それも当然だ。そんなことも言わねば解らぬか。

交易に関する取引は有利な条件で長く続けられるようにせねばならん。

騙して手に入れた有利な条件など、簡単にひっくり返されてしまうだろう。

ならば、我らも、オランダも、双方に益のある取引にせねばならぬのだ」


橋本左内は目の前に座る青年が、権現様(徳川家康)の再来と言われていることに得心し、心から感服していた。

その様子を見て、気分が良いのか、慶喜が続ける。


「ついでだから教えてやる。

もし、裏切ったり、騙したりするなら、一度だけ、決定的な時にやるべきなのだ。

裏切るなら、裏切ってしまえば、もう取り返しがつかない大事な局面まで待たねばならぬ。

信長公を裏切った明智光秀のようにな。

それまでは、律儀者と思われている位が丁度良いのだよ」


「ですが、それではシーボルト殿が決定的な際に我らを裏切る危険もあるのでは?」


左内がそう尋ねると慶喜は左内が気が付いた可能性に嬉しそうに笑う。


「ほう、そこに気付くとは、少しは頭の回る奴がいたようだな。

確かに、間諜を使う以上、その危険は常に存在する。

だから、本当に知られてはならぬ情報は決して渡してはならぬのだ。

あくまでも、シーボルトに渡してやる情報は、こちらが異人に知らせても構わないと思う情報のみ。

その上で、シーボルトが裏切らないか、細心の注意を払う必要がある。

いざと言う時に、決定的な情報を隠されては、目も当てられんからな」


慶喜の言葉に左内は頷き尋ねる。


「その様な裏切りは、どの様にすれば見抜けるのでしょうか」


「シーボルトと親しくなれ。奴と話し、奴が何を望んでいるかを知れ。

裏切るなら、何か理由があるはずだ。

裏切るような理由があるかどうかを常に探るのだ。

そうすれば、裏切る兆候を見抜けるであろうよ」


「は、畏まりました。私の全力を尽くさせて頂きます」


左内が頭を下げると慶喜が答える。


「まあ、うまくやれ。

シーボルト以外にも情報収集が出来るようにして、お前一人が見逃しても問題ないようにしておいてやるから、そんなに気負わなくても問題ない。

だが、まずは異人にシーボルトを信用させることが第一だからな。

その為に、お前を裏切者として断罪することもありうるので覚悟はしておけよ」


突然の慶喜の言葉に左内は混乱する。


「私が裏切者として断罪されるのですか?」


「名目上、異人たちには、お前がシーボルトの情報源の一人ということにしておる。

万が一、その情報が世間に漏れれば、シーボルトの異人に対する信頼を保つ為にも、お前を断罪せねばなるまい」


確かに、橋本左内がシーボルトに情報を漏らしているということが噂になってしまった場合、幕府がそれを断罪しないはずはないのだ。

断罪しなければ、漏らしていた情報が嘘であると異人に疑われることになるか、シーボルト自身が異人に疑われることになるだろう。


橋本左内は、元々福井藩の藩医の家系に生まれ、蘭学修行の為に大阪適塾に通い塾頭まで務めた才覚の持ち主だ。

だが、彼は藩医として生涯を終えるよりも、もっと世の役に立ち、自分の生きた証を残したいと願い、家督を弟に譲り、遣欧視察団に参加した男でもある。

そんな彼にとって、裏切者として断罪されることなど、絶対に避けたいことだ。


しかし、彼は理解してしまった。

ここで、シーボルトを利用し、ヨーロッパ情勢を掴むことの重要性を。

その為に、汚名を被ることなど、恐れるに足らぬことではないか。

そう考えた橋本左内は平伏して応える。


「は、畏まりましてございまする。我が忠の全てをお捧げ致しまする」


橋本左内がそう言うと、慶喜がため息を吐く。


「ワシはお前の忠義など期待しておらん。だから、見返りなど要求するなよ。

心配するな。断罪すると言うても、名目だけだ。

まあ、名を捨て、アメリカ辺りに行って貰う必要もあるやもしれんが、既に家を捨てておるのだ。

名目上、殺されたことにして、名を変え、新天地でやっていくことなど、問題なかろう」


慶喜がそう言うと左内は驚いて顔を上げる。

この時代、忠義が重視されるところ、こんな考えをする人間はほとんどいないのだ。


「だいたい、忠義などと言いつつ、その忠義に報いてやらねば非難されるのだ。

もともと見返りを期待する忠義など、商いの取引と変わらぬではないか。

ならば、ワシは最初から忠義など求めぬ。

だから、お前も見返りがあるなどと期待せず、好きにやるが良い。

まあ、うまくやれば満足出来るだけの結果を残してやる」


慶喜はそう言うと口元を皮肉に歪めた。

その慶喜の言葉を聞いて、昔からの側近であるという中根長十郎、平岡円四郎、原市之進らは苦笑している。

長い付き合いの彼らだから理解出来るのが慶喜という人間なのだろう。


それから数日後、ロッテルダムに日本商社ロッテルダム支店が開設されることが発表されることとなる。

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