第十九話 日米修好通商条約
ピアース大統領を含むアメリカ側が重苦しい空気に包まれる中、井伊直弼は続ける。
「その様な状況でしたから、我らも、この様な熱烈な歓迎をして頂けるとは、全く想像しておりませんでした。
アメリカに行けば、再び脅迫され、生きて帰れぬかもしれぬと覚悟をしてきた程です」
「ペリー提督の脅迫は、本当に彼の独断です。アメリカ人の総意ではありません。
まして、あなた方、日本人は我ら、アメリカでも大人気ではありませんか。
もし、過去に脅迫したという事実が知られれば、それだけで糾弾されそうな状況なのです。
我らは、お願いしているだけです。脅迫などは決して致しません」
ピアース大統領が必死に弁解するのを勝が訳すと、直弼が頷いて続ける。
「我らは、
ですから、ペリー提督の行動を、今更、騒ぐつもりはございません」
「過ちは人の常、許すは神の
あなた方、日本人は、我らの信仰厚き者さえ出来ないことですら、自然にされる精神をお持ちなのですね」
とりあえず、直弼がペリーの砲艦外交の話を公開する気がないことを知って、ピアース大統領はホっとする。
「しかし、日本に残った者たちは、この様に我らを歓迎するアメリカを知らず、我らを脅迫したアメリカしか知りません。
ですから、私が予定外に条約を結んだとすれば、それは脅迫の結果であろうと考えることでしょう」
そう言われて、ピアース大統領は慌てて返事する。
「ですから、我らは、あなた方の出す条件を受け入れると申し上げております。
あなた方の目から見て、間違いなく、あなた方の利益となる条件で条約を結んでくれば、本国政府の方々も、脅迫ではなく、友好的に条約を結んだと納得して下さるのではありませんか」
勝がピアース大統領の言葉を伝えると、直弼は考えた振りをしてから、相談していた順で交渉のカードを切り始める。
「それでは、まず、オランダと同じ条件を整えて頂けませんか?
オランダは、我が国を守る為、多数の蒸気船、大砲、鉄砲を寄贈し、それを活用する為の教官を派遣して下さいました。
あなた方も、同じ様に寄贈をお願い出来ませんか?」
「武器の寄贈に教官の派遣ですか」
そう言われて、ピアース大統領は考える。
日本にはまともな軍艦は一艘もないと聞いている。
ならば、蒸気船であれば、廃艦予定の旧式の老朽艦でも、何隻か回してやれば喜ばれるだろう。
銃や大砲も、廃棄予定の旧式の物を譲り、使い方に慣れたところで、最新式の物を勧めて買わせれば、良い客になるに違いない。
教官というのも、軍事顧問という形で幕府の中に入れることが出来れば、日本を取り込む力となりうる。
そう考えて、ピアース大統領が返事をしようとすると、直弼は続ける。
「つきましては、最新型のスクリュー式の蒸気船、ポーハタン号と同じサイズの物を5隻。
ライフル式のスプリンフィールド銃を千丁。ペクサン砲50門を寄贈して頂きたい。
それだけして下されば、幕府も脅迫などされていないことは、納得してくれることでしょう」
直弼の要求にピアース大統領は慌てる。
全部、最新式の物ばかりではないか。
ピアース大統領が同席している海軍長官、陸軍長官に目を向けるが、二人は揃って首を振る。
正直、スクリュー船は、まだアメリカ艦隊にも配属されていない最新の技術。
おまけに、ライフルも、ペクサン砲も、配属されたばかりの最新技術ではないか。
そんな物、わざわざ作って、寄贈など、出来る訳がない。
「いや、それは難しい。
恥ずかしながら、アメリカには、まだスクリュー船は配属されていないのです。
それに、ライフル銃もペクサン砲も、そんなに大量にある訳ではありませんので」
ピアース大統領がそう言うと、直弼は慰めるように言う。
「そうですか。それは、困りましたな。
オランダはスクリュー船を寄贈して下さったのですが。国力の差は致し方ありませんな」
「オランダはスクリュー船を寄贈したのですか?」
「はい。今はオランダに向けて、航海をしておりますよ」
実際に譲って貰ったスンビン丸(観光丸)は決して大きな船ではないのだが、ポーハタン号並みの巨大軍艦が寄贈された様に直弼は応える。
ピアース大統領が頭を抱えたくなるようなところ、直弼が助け舟を出す。
「寄贈が難しいのであるならば、製造にご協力頂けないでしょうか。
もともと、自分達で作るつもりだったのですが、その為の道具と知識が、まだまだ足りないようなのです。
アメリカの造船、大砲、鉄砲の技師を派遣し、その為の道具を寄贈して頂けないでしょうか。
教官及び技師に対する給金は、日本でお支払いしますので、彼らが必要とする機材の寄贈をお願いしたい」
直弼の言葉に、ピアース大統領は再び考える。
イギリスなどの帝国は植民地に対して、武器を生産出来る様な技術を渡す様なことはしない。
武器を生産されて、反抗されては困るからだ。
だから、普通なら、技師や機材の移転など許可しない。
だが、武器の寄贈も断った後に、機材や技師の派遣も断れば、通商条約そのものがなかったことにされかねないではないか。
日本は、まともな軍艦すら持っていない未開国だという。
どうせ、たいした技術もないのだろう。
以来通りに、技師を派遣すれば、技師のいる間は武器を作れるようになるかもしればないが、その技師をアメリカに呼び戻せば、また武器を作れなくなるに決まっているではないか。
それが白人以外、産業革命に成功した国家が存在しない、この時代の彼らの常識であった。
文明を持つのは白人だけであり、未開人たちに文明を教え、導くのが白人の務めなのだ。
そう考えて、ピアース大統領は応える。
「わかりました。それでは、技師の派遣と機材の寄贈を許可しましょう。
それで、通商条約を結んでいただけるのですね」
「いえ、まだ通商条約を結ぶまでにはいきません。
条約を結ぶには、どうしても守って頂きたい条件があるのです」
散々譲歩したのに、まだ要求を重ねる直弼にピアース大統領は不満を感じながら尋ねる。
「まだ、あるのですか?今度は一体、どんな条件でしょうか」
すると、直弼は謙遜して話始める。
「我らは、この世界の常識を知らぬ田舎者です。
だから、間違えて、我らが損をする様な約束をしてしまうかもしれません。
ですから、条約を結んでみて、我らが不利となると判断すれば、通商条約を一方的に破棄する権利を与えて貰いたい。
それならば、条約を結んできたところで、文句を言うものもいないでしょう」
直弼があまりにも非常識な提案をするので、アメリカ側は驚愕する。
「待って下さい。条約と言うのは、互いの同意を持って結ぶものです。
勝手に条約を破る権利など与えては、法の安定性が保てなくなります」
ピアース大統領が反対すると、直弼は冷静に返す。
「一方的破棄の権利を頂くのは、あくまでも、通商に関係する部分だけです。
今回、お持ちした条約にある我が国の領土保全と主権を認める代わりに、小笠原諸島での捕鯨船の補給及び遭難したアメリカ人の保護することはお約束します。
その上で、通商をご希望されるなら、オランダと同じ条件で、小笠原諸島でのみ、交易を行いましょう。
ですが、現在、オランダと結んでいる条件が果たして、本当に我らが損をしていないものなのかも、我々はわからないのです。
だから、本当は各国の条件を確認してから、通商条約を結びたかったのですが。
どうしても、早く交易を始めたいと仰るならば、我らが損をしたと判断すれば、一方的に条約を破棄する権利を与えて頂きたいのです」
「いや、その様な一方的な条件では、議会を説得することも困難です。
もともと、我々は5年とか10年とか限定でも構わないので、貿易をしないかとご提案させて頂いたのです。
その様に、5年の期間限定での条約を結ぶことは出来ませんか」
「それでは、日本が損をすると解っても、5年間は損し続けなければならないではありませんか」
オランダと同じ交易条件であるならば、日本が大きな損をすることはないはずである。
だが、平八の見た夢では、銀と金の交換比率に問題があった為、日米修好通商条約を結んでから
僅か数年で何十万両の金が大量に海外に流出し、日本は大損害を受けているのである。
慎重にするに越したことはなかった。
「あなた方は既に、オランダと同じ条件で250年も貿易をしてきたのでしょう。
それなら、5年位なら」
「オランダとの交易は一国だけを相手にした量的には、小さな物でした。
ですが今度始めようとしている交易は、地球中の国を相手にするずっと大規模なものです。
損をするなら、その規模も大きくなる。
我らが責任をとって死んで詫びるだけでは済まないです」
そう言われて、アメリカ側はギョっとする。
キリスト教において、命は神から与えられた物であるから、自殺することは罪であるとされる禁忌なのだ。
それなのに、目の前の日本人は、日本が損をするなら、死んで詫びると言っている。
目の前にいる日本人が、言葉は通じても、全く常識の通じない存在であることを実感させられたのだ。
「死んで詫びるとは?」
「文字通り謝罪の為に自殺すると言うことです。
その様な気概があるからこそ、我らは必死で働けるのです」
憤るでもなく、淡々と述べる直弼にピアース大統領らは、恐怖を感じた。
直弼は続ける。
「あなた方は、この世界の常識はご存じだ。
だから、我らと通商条約を結んだとしても、損をすることはないはずではありませんか。
オランダと我らの交易条件を見て、あなた方が不利と思える点があれば締結前に、指摘して下されば良い。
そのご指摘は、しっかり
ピアース大統領は側近と相談し条件を付ける。
「アメリカは公平、公正を大事にしております。
ですから、一方的な破棄の権利を日本だけに差し上げるということは出来ないのです。
そこで、提案なのですが、我々、アメリカも、この条約が不利だと思えば、破棄する権利を与えて貰えませんか?」
ピアース大統領の提案を日本側も相談して受け入れることとする。
日本としては、条約に問題があった場合、一方的に条約を破棄して、相談しなおす権利が欲しかっただけなのだ。
アメリカにも、同じ権利を与えたところで、騙すつもりのない日本にしてみれば、何の問題もなかった。
「わかりました。
それでは、その条件で条約を結ぶこととしましょう。
アメリカに与える権利は、オランダと同じ。
交易の場所は、小笠原諸島に限定。他の場所に来ることは許しません。
また、武器を持って、日本に来ることは許可しません。
更に、日本にいる間、アメリカ人には日本の法に従って頂きます。
交易する場合は、一分銀と一ドル銀貨を交換出来るとします。
以上、よろしいですかな?」
直弼がそう言うと、ピアース大統領が提案する。
「オランダにも認めていない、特別な権利を何か認めて貰えませんか?」
ピアース大統領としては、歴史に残る偉業とアメリカ国民に宣伝したいと考えていた。
そうやって、国民の人気を取り戻せなければ次の大統領選挙に党の支持さえ得られないかもしれないという情報さえあるのだ。
そして、今年は大統領選挙の年。
ピアース大統領が大統領であり続ける為には、国民を魅了する偉業が必要だった。
だが、偉業だと言うには、オランダと同じ権利を貰ったというだけでは弱過ぎる。
何としてでも、特別な権利を認めて貰いたいところだった。
「オランダとは異なり、小笠原諸島での捕鯨船の補給と交易を認めておりますが」
「いや、それはペリー提督の時に決まったことではないですか。
それでは意味がない。
例えば、小笠原諸島以外にも、何処か、他に港を開いて貰えませんか?」
ピアース大統領が提案すると、直弼は苦笑して首を振る。
「それは難しいですな。日本で病を流行らせる訳には参りませんので」
「それは、どういう意味でしょうか?仰ることの意味がわからないのですが」
「我らは、ここに来るまでハワイ王国により、更にアメリカに来てからも話を聞きました。
ハワイに住む人々も、元々この地に住んでいた人たちも、あなた方が来ると病になったというではありませんか?
同じことを我が国でされる訳には参りません」
「どういうことですか?まさか、私たちが毒を撒いているとでも考えておられるのですか?」
「さあ、それはわかりません。
ですが、あなた方が来た後、ハワイの民も、元々この地に住んでいた人々も多くが病となり、亡くなったと申します。
その様な危険があることが解っているのに、日本に上陸させる訳には参りません」
欧米人が来たことによって、ネイティブアメリカンも、ハワイ島民も、多くが病になって死んでいるのは事実である。
欧米人は天然痘をはじめとする様々は病原体に長い年月晒され、それなりの抗体を手に入れていた。
それに対し、ネイティブアメリカンも、ハワイ島民も、その様な病に晒された経験がなく、
欧米人の持ち込んだ病原菌に抵抗出来ず、次々に死んでいったのだ。
病原菌の知識のない当時の欧米人は、神の奇蹟で、この土地を与えられたと言う者もいたと言うが、病気を持ち込まれた側としては堪ったものではない話だ。
直弼が持ち出したのは、その話である。
鎖国をしている神秘の国、日本としては、同じ様になるのではと心配するのは当然のこと。
まあ、本当は、日本は既に様々な病原菌を受け入れているので、ハワイやネイティブアメリカンの様なことにはならないのではあるが。
日本に来たがる欧米人を断るのに、良い口実になると海舟会では考えていた。
「確かに、そう言う事実はあります。ご心配されることも理解出来ます。ですが」
ピアース大統領が言葉に詰まる。
病原菌の知識が足りない当時においては、反論する根拠がないのだ。
理由はわからないが、現地の人が病気で死んでいくという事実だけがある。
その様な状況で、国に入れると病気が流行るかもしれないと言われると反論することは出来なかった。
とは言え、アメリカ側の協力を得たいと考えていた直弼は譲歩を見せることにする。
「それでは、最初は小笠原諸島にいて頂くにしても、技師や教官として来て頂く方については、
特別に島を出て、日ノ本に来て頂く場合があるということをお約束しましょう。
多数では無理です。
ですが、少数なら、何とか対応出来るやもしれません。
これは、オランダにも許可していない特別なお約束ですぞ」
「ほう、オランダにも許可していないのですか」
ピアース大統領は苦しい交渉の中で光明を見出し顔を輝かせる。
彼は知らない。
今回の条約がアメリカから、日本に多数の人材を流出させる切っ掛けとなることを。
平八の知識を基にして、日本に招かれるのは、酒の飲みすぎで軍隊を除隊していたグラント中佐、
アメリカの発明家ウィリアムケリー、そして引き続きブルック大尉が日本に招かれることとなる。
本来の歴史ならば、アメリカ南北戦争まで僅か5年。
アメリカに内戦の足音がすぐ近くにまで迫っていた。
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