第十六話 瀬戸際の攻防

「何だることじゃ」


水戸斉昭は怒りを表面に出さない様に注意しながら、不満を口にした。

今は大国ロシアとの交渉の真っ最中。

そんな中で感情を見せることがマズイことなど、斉昭でも判る。

だが、ロシア側の対応はあまりにも無礼ではないか。


「わしらは、ロシア側が我らの提示した条件に承諾し、我が国ど取り決めを結びだいど申すから、遥々この様な地の果でまで、半年も掛げロシアの視察に来だのだぞ」


斉昭は日本語で話しているので、ロシア側に、その言葉は伝わっていない。

通訳を勤める吉田寅次郎は、斉昭の言葉をどう伝えるか考えている。


「今回の視察で、ロシアが予想以上の大国であるごどは理解した。

そして、前ロシア皇帝が日ノ本どの交易を望んでおったごどもな。

そんだがら、仏心を出して交易を認めでやっぺど思っておったのに。

それが、北蝦夷(樺太)の領有は考え直せだ?

話が違うではねえが。

前皇帝の遺志ならば、それに従う忠孝の徳がロシアにはねえのが?

我らを呼んだ時に伝えだ約束を守る信はねえのが?

見掛げだげ取り繕うども、所詮異人は徳を持だねえ禽獣どいうごどが」


斉昭がそう言うと、松前崇広が答える。


「先日もお伝えした通り、異人にも、異人の徳と言うものはあるようです。

しかし、それが我らとは違う様なのです」


「正しきこどに、どの様な違いがあるど言うのじゃ」


確かに、日本とロシアでは常識が違う可能性があるとは事前に聞いていたことではある。

だが、まさかと思っていたことを、実際に行動されると不快感と不信感が増す。

その様に斉昭が不満を溢すと藤田東湖が答える。


「まずは、事前の打ぢ合わせ通り、根拠を聞いでみでは如何だっぺが?

我らの徳においでは、約束したごどを土壇場で覆すこどは無礼であり、先代君主や父の遺志に叛ぐごどは不忠である。

ロシアにおいでは、これらの事が不道徳であるどはみなされねえのが。

その様な常識の違う相手と交易なぞ出来ないと」


東湖がそう言うと斉昭は頷いて寅次郎に訳させる。

寅次郎は、ロシア側を責める様な雰囲気を抑えて、ロシア側に尋ねる。


「どうやら、我らとロシアでは議論の土台となる常識が異なる様なので教えて頂きたい。

我らの常識では、条件に従い約束すると遠方より呼び寄せながら、土壇場で条件を変えることは信義に欠ける行為です。

また、先代君主の遺志を敬い、守ることは残された者の義務です。

あなた方の倫理では、約束を守り、目上の者を敬うという徳はないのでしょうか」


寅次郎が尋ねるとロシア側は、驚き、困惑した様な様子で相談してから答える。


「確かに、地の果てより遥々来て貰ったのに、条件変更を申し出ることは失礼なことである。

また、ロシア人も、先代君主や父を敬うことに変わりはないと申しております」


「とりあえず、常識が通じるようで安心したわ。では、何故、条件を変えっぺど言うのじゃ。

無礼、不忠ど知りづづ、それを押し通すべどする理由を尋ねよ」


斉昭がそう尋ね、寅次郎が訳すとロシア側が答える。


「ロシア側は、まずロシア帝国繁栄のこそがロシア皇帝の最大の責務であると申しております」


「ふむ、お家第一が」


その考え方は、日本側にも理解出来るところではあった。

しかし、お家の為にとは言え、義や徳を捨て、利に走るのは浅ましいことではないのか。

そんな風に考えているところ、続くロシア側の言葉が斉昭を激昂させる。


「北蝦夷(樺太)は、ロシア人が探検し、現地人に支配を要請されたロシア人の領土である。

先代皇帝ニコライ1世は日ノ本との交易を望み、領土の放棄まで考えたようであるが、ロシアの領有を望む現地人、苦労して北蝦夷探検を成し遂げた家臣達の為にも、領土放棄するようなことは出来ないと申しております」


「北蝦夷は、ロシアよりも遥が昔に間宮林蔵殿が探検し、領有しておる日ノ本の土地だ。

ロシア人の土地などではねえわ」


斉昭はそう言うと事前に相談していた樺太領有の根拠を寅次郎に言わせることにする。


「まず、プチャーチン提督からも伺ったのですが、ロシアが北蝦夷を探検したというのは、5年前でよろしいか」


寅次郎がそう言うと、プチャーチンが慌てて止めようとするが、アレクサンドル2世はその通りだと答えてしまう。

その失言を斉昭に伝えると、斉昭が続ける。


「そうか。では、やはり、北蝦夷は我らのものだ。

我が国の間宮林蔵が北蝦夷を探検したのは、今がら46年前。

その時に北蝦夷の地図も作成し、その地図はロシアの日本派遣団を提案したシーボルト殿が20年も前に、ヨーロッパでも『日本』という題名の本で出版しておると聞いているぞ」


寅次郎がその言葉を伝えるとロシア側はプチャーチンを問い詰めているようなので、斉昭はロシア側に告げる。


「そのごどは、当然、プチャーチン提督が先帝陛下に伝えでいだはずです。

しかし、アレクサンドル2世陛下には伝えられでいながったのだっぺな。

ニコライ1世陛下の急逝でご苦労されでいるであろうごどは、同情申し上げる」


斉昭は大変だったでしょうなぁと同情する様に告げるが、ロシア側の混乱は元を正せば日本が原因である。

もし、最初から領土交渉をすることとなっていれば、ロシア側も当然、プチャーチンを呼び、これまでの交渉の経緯を確認していたはずである。

だが、日本側は弔問の為の訪問と言いつつ、条約締結の話を始めてしまったので、ロシア側は準備不足の中、条約交渉に引き込まれてしまったのだ。


寅次郎も、斉昭も本気でニコライ1世急逝によるロシア側の混乱に同情しているが、これらは全て佐久間象山からの助言を受けた吉田寅次郎の言葉を基に、藤田東湖と松前崇広が立てた策。

ロシア側の意志疎通が進まぬ中、日本の樺太領有の根拠が積み重ねられていく。


「更に、北蝦夷のロシア領有を望む現地人どは誰のごどが。

北蝦夷は、今、我らが統治し、そごに済むアイヌの者達より、我らに従うどの血判を貰い受げでおる。

北蝦夷全土には、我が国の旗がなびぎ、我らの砦がある。

今の北蝦夷に、ロシア領有を望む現地住民などいない。

従って、過去、現在においで、北蝦夷は我らの領土である。その事をご理解頂ぎだい」


斉昭がそう言うとロシア軍人らしき者が反論するのを寅次郎が訳す。


「今、北蝦夷にロシア人がいないのは、ロシアがイギリス、フランスと戦争しているからであると申しております」


そう言われて斉昭が反論する。


いくさで攻められで守れねえ土地を自分の領土だど言うのは武人どして如何なものが。

その様な領土の民草を守らず、何を根拠に北蝦夷がロシアの物であるど申すのじゃ」


斉昭がそう言うと、ロシアの軍人らしき男が大声を出す。


「撤退中の土地に入り込んで、領有を主張するとは、あまりにも卑怯ではないか。

日本人とは、名誉と騎士道を重んじると聞いていたが、とんだ評判倒れ。

望むなら、我らロシアが北蝦夷を領有する力があることを武力を持って示しても良いのだぞ」


寅次郎がその言葉を訳すと、斉昭らは恐れる様子も見せず平然と答える。


「ならば、交渉は不成立。次にお会いするのは戦場でどいうごどで宜しいが?

モンゴルを撃退した日ノ本の力、再びお見せいだすっぺ」


そう言って立ち去ろうとするのをアレクサンドル2世は慌てて止める。


「待たれよ。あなたは、ロシアと戦って、本当に勝てるつもりか?」


「これは、勝ぢ負げ、損得勘定の話ではなぐ、道理の問題である。

我らは力で脅され、道理を棄でるごどは御座らぬ」


ロシア人達は、勝敗を無視した殉教者の様な斉昭の言葉に困惑する。


「最後に、わしからも聞ぐべ。

アレクサンドル2世殿は、ロシアの繁栄を第一どして行動するどのごどじゃが、我らど戦いロシアにどの様な利がある?

我らは勝でずども、最後の一人まで戦いを止めぬぞ。

我らを根切りにして、誰も居なぐなった土地を支配し、どんな利がある?

そごまでして、凍らぬ港が欲しいのが?」


「一人残らず?」


アレクサンドル2世が驚愕すると斉昭が続ける。


「そうだ。日ノ本の民の天子様への忠誠は、それほどまでに厚いのじゃ」


斉昭は自信満々に答え、藤田東湖、吉田寅次郎らも、

本気で日本人は一人残らず天子様の為に戦うと信じていることから異様な迫力が生まれる。

本当のところ、この当時の日本には、全ての住民に天皇への忠誠心がある訳ではない。

あくまでも、水戸学や頼山陽の影響を受けた武士達に、その様な傾向は確かにあるだけである。

だが、その様なことを知らないロシア側にとっては、日本人が狂信的な忠誠を持つ集団に見えて戦慄する。


「そもそもだ。そうまでして、不凍港を得だどして、ロシアに何の利がある?

わしは、この半年、ロシアを横断して参ったが、そのほどんとが不毛の地。

人も町も道もロクにながったではねえが。

その様な不毛の地の果でに港を設げで、貴公はどの様に使うど言うのが」


斉昭がそう言うとロシア側は黙り込む。

そのことに対し、斉昭はロシア側が同意していると考え、更に追い討ちをかける。


「わしらはいくさをする為に来だのではなぐ、ロシアど交易をするがを検討する為に来だのじゃ。

そして、わしらは、ロシアという国を見てきた。

プチャーチン提督という立派な方もいることを知り、この様な街を作る文化があることも理解した。

それ故、ニコライ1世陛下の遺志を受げ入れ、交易を始めるごどを許可すっぺど思うでおったんじゃ。

その利を捨て、いくさすることで得る利が何処にあるど言うのだ。

最初がらプチャーチン提督に伝えでいる条件を飲まぬ限り、日ノ本はロシアど交易はせぬ。

アメリカもイギリスも勿論オランダもわしらの条件を飲んで、交易をする方向で話が進んでおる。

何故、ロシアだげが条件の飲めねえのじゃ」


アメリカ、イギリスが日本の出した条件を承諾したと聞いて、アレクサンドル2世は驚き尋ねる。


「条件を受け入れたというのは、我々ロシアと全く同じ条件でということか」


日本が交易の条件として出していたのは、樺太を日本の領土と認めるならば、樺太でロシアとの交易を許すという事。

ロシアが、樺太に来る際は、武装解除をし、日本の法に従うということだ。

その条件をアメリカ、イギリスも受け入れているというならば、アメリカ、イギリスも樺太を日本領と認めているということになる。

そうなれば、ロシアが樺太に攻め込んだ場合、米英はロシアの日本侵略と看做す恐れがあるのだ。

ロシアの南下政策を妨害し続けてきたイギリスがだ。

となれば、今回のクリミア戦争同様、イギリスが出兵してくる危険がある。

その衝撃は決して小さくはなかった。


「いや、そんたけではねえ」


そう言うと斉昭は寅次郎に指示して、日本地図を出させて、ロシア側に渡す。


「北蝦夷だげでねえ。

この地図にある日ノ本の領土が全で日ノ本の物であるごどを認めるごどを条件どし、その上で、どの島で交易するがは、これがらの交渉どなっておる」


通訳しながら、寅次郎は象山の深謀遠慮に感動していた。

もし、ロシアだけとの間で交渉をしているのならば、ロシアとの力関係に負け、日本側が譲歩しなければならなかったろう。

だが、アメリカやイギリスも巻き込んでいることから、ロシア側が躊躇しているのが手に取るように解る。

ロシアと戦争中のイギリスが、日本の樺太領有を認めるのは、ロシアへの嫌がらせ程度の意味しか持たないのだろう。

だが、嫌がらせのつもりだろうと、イギリスが認めたという事実はロシアの強硬手段を抑制する力となっているではないか。


******************


日本との交渉が終わり、日本側が大聖堂を出た後で、軍服の男がアレクサンドル2世に尋ねる。


「本当によろしいのですか?

日本側の領土要求を全て認めた上で、通商を始めるなど、譲歩のし過ぎではありませんか?」


「仕方あるまい。

そもそも、父上が既に署名をしてしまっている以上、その情報も英仏に伝えられてしまうだろう。

それならば、我らがいくら譲歩の結果だと主張しようとも、イギリス辺りは、それを認めないに違いない。

クリミアに続いて、今度は連中の本拠地アジアで戦って勝てるつもりか」


アレクサンドル2世が皮肉気に言うと、軍服の男が頭を垂れる。


「それに、水戸公爵の言う通り、我らの東方開拓は遅れているのだ。

イギリスに清国を喰わせる代わりに、我らが日本を攻略することを認めさせるにしても、兵や装備の移動に手間が掛かり過ぎる。

モンゴルが撃退された様に、日本に撃退されかねんぞ」


「いえ、その様なことは」


軍の強さを否定され反論しようとするのをアレクサンドル2世は手で制し手続ける。


「今回の戦争で、我がロシア帝国が大英帝国に遅れを取っていることがハッキリした。

まず、改革を進めるのだ。

農奴を開放し、ロシア帝国で産業革命を進めねばならぬ。

我が国の工業化を進め、東方を開拓し、シベリアまで鉄道を引くのだ。

まずは、そこからだ」


そう言うと、アレクサンドル2世は斉昭から受け取った刀を静かに抜き、その美しさを愛でる。


「それが終わるまでは、日本とは友好関係を築き、通商で儲けさせて貰おうではないか」


アレクサンドル2世の言葉の裏に気付き、軍人は頭を上げる。


「では、それが終われば」


アレクサンドル2世は刀を眺めながら、薄く笑い呟く。


「鋭利な贈り物は、家に失敗、失意を齎すと言うが、この刀は実に美しいではないか。

少々の危険があろうとも、是が非でも、手に入れたいものだ」


「しかし、日本人は名誉を貴ぶ人々。無理に攻めれば、本当に全滅させるしかなくなる恐れがございます」


プチャーチンが諫言するとアレクサンドル2世は頷く。


「そうかもしれんな。

だが、彼らは、その弱点も伝えてくれたではないか。

彼らは忠誠心の厚い人々。

日本の皇帝の地位を認めてやり、それを守る為なら、全滅するまで抵抗などしないのではないか」


そう言われて、プチャーチンも頭を下げる。


「我がロシア帝国は、ローマ帝国の後継者である。

アメリカ人の様に、原住民を全滅させる様な野蛮なことはせん。

現地の政体、支配者は認めた上で、日本の皇帝も貴族として、この宮殿に迎えてやるのだ。

多少、戦うことになるかもしれんが、放っておけば、日本はイギリスに侵略されるだろう。

ならば、イギリスの侵略から彼らを守る代わりに、我らが日本を支配し、守ってやるべきだとは思わぬかね。

そうすれば、規律正しい騎士道精神を持つサムライが私にも忠誠を向けてくれる。

ああ、何と素晴らしいのだろう」


刀に魅入られたように、見つめながらアレクサンドル2世が呟く。


ロシア帝国は専制国家であり、ロシア皇帝の意思は絶対である。


この日、ロシア帝国は、日本侵略を計画し始めたと言われている。


******************


同じ頃、日本のロシア視察団も迎賓館に戻ると、今後のことを協議していた。


「まずは、予定通りの条約締結おめでとうございます」


寅次郎が頭を下げると斉昭が鷹揚に頷く。


今回の交渉で、ロシア側は日本側の要求を全面的に受け入れ、樺太、蝦夷、小笠原諸島、対馬、琉球など、

日本の領土と国境を全面的に認め、ロシアが日本に接触するのは樺太のみで、その際には、日本の法に従い、武装解除することを条件とすることを認めさせたのだ。

通商交渉としては、大成功と言っても良いだろう。


「うむ、これで予定通り、時間稼ぎが出来だどいうごどじゃな」


ロシア側が日本の領土を認めたおかげで、とりあえず、ロシア側が日本を侵略する口実は潰すことに成功した。


「あどは、この稼いだ時間で、一刻も早ぐ、産業を発展させ、蒸気船を作り、武器を作り、連中の侵略に備えなぐぢゃならん」


斉昭がそう言うと一同は深く頷く。


斉昭たち、水戸学学徒から攘夷の思想、異国への嫌悪感が全くなくなった訳ではない。

だが、長いロシア視察が、彼らを変えていた。

異国を単純に、野蛮で、劣って、穢れた物と切り捨てることが出来なくなっていたのだ。

ロシア視察で、ロシアが産業革命という物に乗り遅れ、イギリスとフランスに打撃を受けたことは聞いている。

ならば、ロシアよりも早く、産業革命を成し遂げ、日本を守らなければならない。

その為には、異国の技術を積極的に取り入れなければ。


ロシア視察団の心は一つになっていた。


******************


平八の夢において、日本は西の大日本帝国と東の正統日本皇国に分裂し、日本皇国はロシアの属国となっている。


その運命を変える戦いは、次の段階へと移行していく。

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