第三話 建白書の行方

「これは、佐久間だな」

江川先生は、建白書を読み終えると、顔を上げて呟く。

聞いているというよりは、確認しているような雰囲気だ。


「どうして、そう思う?」


「筆跡は変えているようだが、こんな偉そうな建白書を書く奴が他にいるか」


「なるほど、それは気が付かなかった。で、内容の方はどうだ?」


「わしが佐久間のことを嫌いなのは知っとるだろ」


「だが、お前なら、誰が言っているかに関係なく、内容の良し悪しを判断出来るはずだろ」

齋藤さんがそう言うと、江川さんはその信頼に困ったように苦笑する。


「佐久間の提言は底が浅いんだ。これが一番正しいから、従えと言うだけ。

ダメだった場合のことを一切、考えとらん。

だから、わしは佐久間なんぞお調子者に過ぎん。聞くに値せんと言うとるんだ」


「それで、佐久間君が弟子入りをした時に、その性根を叩き直そうとした訳か」


「そうだ。佐久間は、砲術を学ぶためにどうしても、わしに弟子入りする必要があると、

松代藩主を通してまで半年も活動しおってな」


「何だ、弟子にする前から嫌っておったのか」


「あんな傲慢な奴はいないぞ。

尚歯会に来た時も、蘭学の知識で負けそうになると、

漢学の知識をひけらかし、漢学を分からない蘭学者を馬鹿にして、顰蹙を買っておったわ。

常に自分が一番でないと気が済まない大きなガキだぞ、あいつは」

この言いぶりだと、高野長英も比較にならないような傲慢さだったみたいだな。


「それで、弟子になぞしたくなかったのに、どうしても、というから仕方なく弟子にしてやったら、

40日間、家にある蔵書を勝手に読んで、もう砲術は会得したからと勝手に弟子を辞めていったんだぞ。

まあ、才はそれなりにある。それは、認めてやる。

だが、あんな奴の言うこと、誰が聞くか!」

言われて齋藤さんは苦笑しながら、尋ねる。


「だが、その建白書はどうだ?

書きぶりはともかく、内容は良く出来ていると私は思ったのだが」


「……確認したい点は幾つかあるが、奴が書いたものにしては、それなりに練れておる」


「そうだろう。平八君の話を聞いた後、その原案を作ったのだが、中々のものだったぞ」


「だから、海舟会という名義で建白書を書いた訳か。

筆跡も変えているし、わしを避ける為に名前を隠しだだけと思ったが」


「まあ、そういう要素もあるがな。

その建白書がいつもと異なるのは、皆で話しながら原案を作ったからだろうな」


「それが海舟会という訳か。だが、あの佐久間が、誰かの意見など聞くのか?」


「それは平八君だよ。うまく、佐久間君を手の平に乗せて転がしていたぞ」


「斎藤先生、手の平で転がすなど、人聞きが悪うございます。

アッシは、ただ判らないことをお聞きしていただけで」


「わからないことを聞くという形で、うまく誘導しているように私には見えたがな。

平八君がいれば、あの佐久間君の才を御せるかもしれないぞ、但庵」


「そうか、君が黒幕か」

黒幕とか、人聞きが悪すぎますよ。


「この建白書、幾つか、確認したいことがある。答えて貰えるか?」


「アッシに分かることでしたら」


「まず、北蝦夷(樺太)と小笠原諸島の国境に兵を送り、砦を作るという案は悪くないと思う。

君の夢の通りになるか、どうかはともかくとしてな。

それならば、老中の阿部様の判断で人を送ること位なら出来るだろう。

それなのに、どうして、幕閣や水戸藩に話を通すべきとしているのだ。

それで、反対されて兵を派遣出来なければどうする?」


「派遣はされなくても良いとのことです。

それで、もし本当に、樺太や小笠原諸島を異国から要求されることがあれば、その後、派遣に反対された方は、他の意見に反対しにくくなるだろうとのことで」


「佐久間だな?こういう嫌らしいことを考えるのは、本当にあ奴らしいわ」


「だが、阿部様も何かと反対する幕閣や水戸藩に苦労されていると聞いたぞ。

それなら、この案を使って、連中の口を塞いでやれば良いだろ」


「確かに出来るかもしれぬが、わしは気に入らん」


「ただ、アッシの夢の通りですと、北蝦夷(樺太)への派遣の方は戦になるやもしれませんが、派遣しておいた方がよろしいかと」


「小笠原諸島の方は林子平の三国通覧図説の洋書版を見つけておけばどうにかなるが、北蝦夷(樺太)はそうは行かぬということか」


「アッシの夢が真実であるならば、ということですが」


「……うむ、わしは好かぬが、阿部様にお伝えして考えて頂くべきことであろうな」

江川先生は頷くと続ける。


「次に、長崎に人を派遣し、オランダから情報収集するべきであり、逆にアメリカの情報をオランダに流すべきという意見も問題なかろう。

だが、最後の黒船警備の指揮権を一つにまとめ、水戸藩に預けるなど、認められる訳がない。

戦を起こさせる気か!勝てるはずもないだろう!」


「まず、これは採用されずとも構わない提案でございます。

仮に、このような提案をしても、他の幕閣の方が、必ず止めることでしょう。

ですが、阿部様がそのような提案されたという事実があれば、水戸藩は阿部様に強い恩を感じるはずです。

そうすれば、その後の阿部様の提案に反対しにくくなる」


「だが、万が一、その提案が通ってしまえば、どうする?」


「指揮権を預けてしまえば、戦を始めた場合の責任は、指揮権を持つ者のものです。

惨敗すれば、水戸藩や攘夷派の威信も、発言権も凋落し、誰もが開国するしかないと理解することになるでしょう」


「また、佐久間だな。あの男は、どこまでも偉そうに人を人とも思わず利用する。

戦になれば、多くの者が死ぬのだぞ。

小さな紛争程度で終われば良いが、アメリカとの本格的な戦になればどうするのだ!」


「その為の情報収集でございます。

象山先生の見積もりでは、あの程度の黒船では日ノ本を占領するなど不可能とのことですが、更に情報を収集して、アメリカの真意を確認すればよろしいかと。

ペリーの黒船がアメリカの意思で、戦争を仕掛けに来たのでなければ、全面的な戦争になる心配などないのではないでしょうか」


「そうだ。国の意思に従わないで来た海賊船なら、沈めても母国との戦争になる訳がないだろ」

齋藤先生がそう言うと、江川先生が渋い顔をする。

確か、この言葉、江川先生がイギリス船を追い返す時に使った言葉だったよな。

そりゃあ、渋い顔にもなるか。


「その後の中期と長期の提案については、わしも不本意ながら賛成だ。

だが、この提案も、出し方を誤ると大問題となる恐れがある。

であるから、……この建白書は、今夜にでも阿部様にお伝えして、判断して頂くこととする。

阿部様なら、これだけの材量を与えれば、うまく調整して下さるだろう。

それで、いいな。

どうせ、そうすることを期待して来たのだろう」

不機嫌そうに江川先生が言うと、斎藤さんが楽しそうに頷く。


「それから、君の見た夢の話も伝えるぞ。良いな、平八君」


「は、ご随意に。

ですが、夢の話は、全てはあっしの見た夢に過ぎないことをお伝えすることもお忘れなく。

外れたとしても、責任なんぞ、取れやしませんので。

それから、間違えても、アッシを幕臣に取り立てようなどと進言なさらぬようにも、伏してお願い申し上げます」


この時代って、相手の意思とか関係なく、相手の意思も確認もせずに、親切のつもりで、

幕臣にしてくれたり、侍にしてくれたりするから、先に釘を刺しておかないとな。

実際、ジョン万次郎は本人の意思に関係なく土佐で武士にされて、

それを江川先生の進言で幕臣にしたりしているから。

おまけに、阿部様も勝さんを始め使えると思う人間をどんどん採用していたから、万が一、幕臣にしようと決められると逃げ道がないので、予め断っておかないと。


「何故だ。平八君は、幕臣になりたくはないのか?

状況次第で討幕派に移ることを考えているのか?」


「あ、いえいえ、アッシは老い先短い身。今更、家を建てようという気力もございません。

それに、幕臣にして頂いたところで、アッシは卜占で日ノ本の未来を占うような怪しげな存在。

反対派の方に存在を知られれば、命を狙われかねませんでしょう。

そんな恐ろしい目に遭うのは、ゴメンこうむりたいのでございます」


「平八君が幕臣となれば、わしと阿部様が責任を持って守る」

あれ?本当に幕臣に推挙する気だったのか?

図々しいかもと思いつつも、言っておいて良かったよ。


「ですが、江川先生は1年半後、阿部様は4年後には……」


「……死ぬから責任を取れないと言うのか」

仏頂面で江川先生が呟く。


「だから、二人とも養生して、長生きしてくれということか」

齋藤さんが楽しそうに笑い続ける。


「そういうことなら、但庵、無理をするな、身体をいとえ。

それに、平八君の夢では、確か、お前が呼び寄せたというアメリカ帰りの土佐漁師、中浜君も幕臣になっても、間諜の疑いを受け、ロクに働けず、幕府で白眼視されて活動の場も与えられぬまま終わったのだろう。

平八君がそうなる位なら、佐久間君の制御役をしている方がマシだと私も思うよ」


「わかった。わしが死ななければ、幕臣の話、もう一度、考えてもらうぞ。

それに、中浜万次郎のことも、君の夢通りにならないよう何とかする。

それでいいか」


「いや、大変恐れ多いことで。

まあ、アッシの方もお迎えが近い身なので、それまで生きているかわかりませんが」


「わしに死ぬなと言うのだ。そっちが先に死んでどうする。

わしに生きろと言うなら、お前も勝手に死ぬでない。

他に、何かあるか?」


「そうですなぁ。中浜様に通訳をお願いするのでしたら、江川先生が黒船との交渉役を行い、幕閣には中浜様がアメリカ帰りであることを伝えずに、江川先生のお伴として連れていくことは出来ませんでしょうか?」


「今まで、交渉していたものの面子もあるから、そう簡単には行かぬと思うが。

一つの案ではあるか。

うーん、やはり、佐久間のところに置いておくのは惜しいな。

せめて、わしが呼んだ時は、すぐに来るように。いいな」


「まあ、その位でしたら」


「ならばよし。すぐに阿部様に先ぶれを出して、平八君の夢と、この建白書を阿部様にお伝えすることとする。

わしは正直な評価を阿部様に伝え、判断を仰ぐ。どうするかは阿部様次第だ。

それでいいな」


アッシが平伏すると、斎藤さんは満足そうに頷く。


果たして、この建白書が新たな世界線へと繋がるのか、確信を持つものは、誰もいなかった。

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