第47話 去年の話1
全身を包むうだるような熱気に、今すぐにこの通学路を引き返してしまいたい衝動に襲われる。
七月の頭くらいまで続いた梅雨の季節も期末試験と共に去り、俺の手元に残ったのは、惨憺たる結果の記された回答用紙と行き場を失った感情たちだけ。
『ごめん。ちょっと、お前といるのしんどい』
あんなこと、絶対に言うべきじゃなかった。俺の言葉を聞いた時のあの、呆然と、ただ呆然と立ち尽くし、はらりと涙を流した律の顔を、俺はもう一生忘れないんじゃないかと思う。
律は何も間違ったことを言っていなかった。彼女はただ、俺の今回のテストへの姿勢を正そうとしただけ。俺に前を向いて欲しかっただけなのだ。それを分かっていたのに俺は——
それでも結局、彼女の傍を離れてから一週間以上経った今でも、俺は謝ることができていない。
それは、あの言葉が、俺の偽らざる本心でもあったから。
目的を見失った現状、どちらが前かも後ろかも分からない真っ暗闇の中で、立ち止まる以外のことが俺にはできない。もし謝れば、もし今律との仲を修復するに至れば、またあの苦しい日々が始まる。
やっぱり、謝れない。
それでも習慣というのは怖いもので、今も足は学校を向いていた。最近なんとか学校に顔を出し始めた律の姿を、どうあがいても目に入れることになるというのにも関わらず。
でも、今日くらいは休んでしまってもいいかもしれない。
ほうっと息を吐き出すと、両足は止まってくれた。
ちら、と天井に広がる青空へと視線を移す。もこもこと柔らかそうな雲がゆっくりと漂っていて、気付けばミンミンと、蝉の鳴き声が耳に届いていた。
ふと背後からの、コツコツと何かがぶつかる音がBGMの中に混ざり始める。その音は段々とこちらに近づいてくるようで、俺は何の気なしに振り向いてみた。
なんとなく見覚えのある一人の少女と目が合う。その子はすかさず急停止して、
「あ、あれ? あーっと確かクラスメイトの……」
そう、声をかけてきた。
クラスメイト。なるほど確かにこんな顔の女生徒を、教室で見たことがある。
「……なんか用か?」
「え? いや、用っていうか、遅刻するよ?」
「んー、そうね」
「そうねって……。んああー! もうっ、ほら行くよ!」
少し焦ったような様子で、学校のある方向と俺とに視線を行ったり来たりさせた彼女は、何を思い至ったか奇声を上げて俺の腕を掴むと、そのまま走り出そうとする。
「は? ちょ、おいっ」
俺は彼女に引きずられるようにして、学校へと駆けていく。腕を振り払うことも、逆らって足を止めることもせずに。
そして数分の後、俺は律の隣の席に腰を下ろしていた。とんでもなく気まずい。生き地獄とは、まさにこのことである。やっぱ休めばよかった。
そんな出会いがあってから、美月は度々俺に構ってくるようになった、
教室内で初めて俺に話しかけてきた時なんかは、隣席の律の雰囲気に気圧されたのか引け目を感じたのかは分からないが、すぐに立ち去っていって、もう話しかけてくることもないかなと思っていた。
だが、律の視線がない廊下や下駄箱のあたりでは俺に声をかけて、どうでもいいような話をいくらか振ってきては、少し話をして別れるということを繰り返しているうちに、気付けば暇な時間をファミレスやらで駄弁って過ごすような仲になっていたのだ。
カラッとした、人の事情に一切踏み込もうとしない、それでいて俺の事を度々振り回す彼女の姿勢は、俺にとってとても有難いもので。
、馬鹿みたいにシフトを入れて、仕事に忙殺される瞬間だけが逃げ場所だった当時の生活の中で、美月と過ごす時間だけが、俺の唯一の楽しみだった。
美月には美月の付き合いがあり、俺は俺でバイトの時間を減らすことはしなかったから、そんなに長い時間一緒にいたわけじゃない。
それでも、美月がいなければ、美月との出会いがなければ、もしかしたら俺は——
「まあそんな感じで、律と喧嘩して以降、美月とだらだら過ごして今に至るわけなんだけどさ。あいつのことは俺もよく分からないっていうのが正直なところかなぁ。そもそも、どうして俺に話しかけ続けてくれたのか未だに謎というか、当時の俺、めちゃくちゃ話しかけ辛かったはずなんだけど……」
確認の意も込めて、俺は右隣へ視線を送る。
「……」
去年のことを思い出しているのか、ソファに座ったまま苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている律。
ちょっと重い、いや、律にとっては重すぎる話だったな。でも、ここでぼかして伝えるなんてことはしたくなかった。
誤解し合って離れてしまうのが、一番怖い。
今の俺たちと美月の状態がまさにそれで、去年の俺と律もまたそうだった。
「なあ律」
俺の呼びかけに、強張ったままの顔がこちらを向く。
「あの、さ。しんどいって言ったこと、ごめん。俺が弱かったばっかりに、律のこと理不尽に傷つけた」
「それはっ……それは別に、理不尽なんかじゃない。私が自分の気持ちを押し付け過ぎたの。……ごめん。その、あの、こ、告白のことも。私、自分勝手で、三澄のこと何も考えてなかった」
「……」
急に顔を赤らめてそんなことを言い出されると、俺もなんて返したらいいか分からなくなる。でも、人が人へ好きだと伝えることくらいは、自分勝手なんて卑下しなくてもいいんじゃなかろうか。
そもそも、今の今まで頭から抜け落ちていたことだった。俺の方こそ、マジでごめん。
「いや、うん、まあでも、俺に対しては勝手なくらいでちょうどいいよ」
現に一回潰れておいて、何を言ってんだって突っ込まれそうな言葉だった。でも、これから俺がちゃんと許容できるようになればいいだけの事なんだ。それに、自分の事情で振り回したのは、なにも律側だけの話じゃない。
「ダメ。私もちゃんとしたいの」
「ん……そう、か」
真剣な眼差しで告げられた言葉だ。否定する必要はないだろう。彼女も、きっと自身の成長を望んでいる。
「あ、あの、そろそろ……今度は律さん、お願いできますか……?」
左隣に座っていた若菜が、おずおずと、俺たちの方へ上体を乗り上げるようにして寄ってくる。
「そ、そうね。じゃあ今度は私の話——」
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