ブラック・イズ・ビューティフル

足立区女子のすゝめ

Exchanging utopias

私にはシドニーという、出逢って10年になるアフリカン・アメリカンの親友がいる。彼女とは同じ歳で、大学在学中に出逢った。アメリカのフィラデルフィアからの留学生であった。


アフリカン・アメリカンとは、所謂、「黒人」または「ブラック」のことである。決して、それらは差別用語ではない。でも、色で表現している時点で、そこには違和感しか残り得ない気がする。もちろん、"N"ワードは差別用語であり、絶対に口に出してはいけない。私は、それの下位互換になり得るくらいに「黒人」という呼び方をしてはいけないのでは、と感じている。それ故、アフリカン・アメリカンと呼んでいるのだ。


シドニーは大学卒業以降も日本に滞在し、就職した。それ故、とても流暢な日本語を話す。でも、彼女と私はちょっと変わっている。私が日本語で話しかけ、彼女が英語で返答する。それに対して、また私が日本語で返答する。


それは、シドニーが日本にいる時でも、私がアメリカにいる時でも変わらない。端から見ると、とても歪な雰囲気かもしれない。特に、シドニーと私はアメリカ情勢について話す時に、ヒートアップすることがある。日本語と英語で交互に世論を語り合っていると、「こいつら、何者なんだ?」と思われても仕方ないだろう。「本当に、こいつら理解し合ってるのかな?」とか思われてそう。でも、私たちにとってはそれがとても心地良い。いつからか分からないけど、気付いたらそうなっていたのだ。良い意味で、お互いが自己中過ぎるのかもしれない。自己中と自己中が調和したら、もはや自己中じゃなくなるような気もする。


一方で、普段のシドニーはとても大人しい。洋画から連想されるような、大柄で常時テンションぶち上げなアフリカン・アメリカンではない。長身の細身で、繊細なハートと笑顔の持ち主だ。ハートフルだけど、考え方や魅せ方は日本人そのものである。むしろ、私の方がアメリカナイズされ過ぎている程だ。そんな彼女は、これまでにたくさんの素敵な経験と価値観を享受してくれた。


彼女と話していると、自身のルーツにとても誇りを持っていることが伝わってくる。それと同時に、どこか儚さも感じられるのだ。彼女は時々、そのルーツであるが故にどんな悲しいことがあったか、どんな弊害が起こり得るかを教えてくれる。ある時、「黒人がフードを深く被っていると、色々と良くないんだ」と言っていた、彼女の刹那的な表情が忘れられない。いつもより、ワントーン声が高く、だけど小さかったような気がする。私はそんな時、肯定も否定も慰めもしない。彼女のルーツはどんな時も誇らしいものであり、他の誰かがレピュテーションすることではないからだ。


シドニーはシドニー自身であり、そのルーツがあってこそのシドニーなのである。私も日本で生まれ育っていなければ、私ではなかったのだ。彼女は、ユートピアを求めて日本に来たのかもしれない。そんな私も『ビバリーヒルズ高校白書』のようなユートピアに憧れて、海外留学した。金銭的な理由で留学先はカナダになったが、私はティーンの頃からとてもアメリカナイズされていた。


ジャパナイズなシドニーとアメリカナイズな私。全く違うルーツを持って、同じ年に生まれた。歪な形で言語を交わす私たちだけど、無意識にユートピアの交換をしていたのかもしれない。根本に各々のルーツがあってこそ、初めて別のユートピアを求めるのである。そして、そのユートピアから新しい価値観や考えを生み出し、自分たちのルーツに改めて誇りを持つのだ。

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