第三話 天才とシューテル
俺が目を覚ますとそこは石材づくりの家が立ち並ぶ都会の真ん中だった。
いわゆる古いヨーロッパ都市の風景。同じ高さの階層住宅が道に沿っていくつも建てられており、非常に整っている。
道の端には露店が立ち並び、各店様々な生活必需品を売買している。
主婦と店主が商品の価格の値切りバトルをしているのを見ると、非常に古風な小売りの姿が残っているのだと経済学者としてはほっこりしてしまう。この心理バトルの積み重ねが、経済の循環機能を担っているのである。
市場の商談をさりげなく聞いていたが、どうやら俺の耳には日本語に聞こえるように調整されているようだ。違う国、ましてや異世界なのだから全く異なる言語を話していてもおかしくはないが、そこは天使の小さな親切心といったところか。記号の形は違えど文字も読めるようになっている。
原理は極めて非科学的で、個人的には非常に気持ち悪い。だが使えるものは素直に使っていくしか無かろう。
ふと、とある商店の看板を読んでみる。
『シュテール町で薬草が一番安い商店』
……ふむ、中々インパクトがあって面白いではないか。
とりあえずこの町の名前がシュテールであるということがわかった。
しかし、さすが異世界である。
人間以外の種族が普通に町の中で歩いているのだ。二足歩行のトカゲであったり、人間とウサギの足して二で割ったような人だったり、はたまた人間よりも色白で耳のとがった人だったり。同じ言語をしゃべり、平等に露店の前に立ち、商談していた。
「助手くん、ほら言っただろう……。経済学は英知の塊だと」
リザードマンも、人間も、獣人も、エルフも、同じ通貨を使い一つの経済共同体を作り上げている。
金さえ持っていれば平等にいつでも同じものを買うことが出来る。
民族や種族などを跨いで共存できるという意味では、生前の世界もこの異世界に学ぶものがある。
実際の腹の内は知らないが、市場では通貨という統一された尺度の元に自由に商売が出来れば最善だ。そこに私情を挟みこむ必要性も、余地もいらない。欲しい人が欲しい分だけ欲しいものを買う。ただ、それだけでいいのだ。
「さて、と」
周辺観察よろし、異世界に来たのだ。
自分の装備を確認しなければならない。俺は学問が遊びのようなものだったので、対してゲームについて詳しくはないが、さすがに自分の初期装備を確認しなければならないことぐらいはわかっている。
自分の服装とポケットを入念に確認する。どうやら俺が死ぬときの服装とポケットの中身が転生と一緒にそのまま持ってきていたようだ。あの天使は極めてサービス精神に乏しく、転生にあたってのアドバンテージを極限まで与えない主義のようだ。
「財布とスマホか。財布の中は日本円とクレジットカード。……スマホも電源が切れているな、使い物にならない」
即座に使い物になりそうな道具が手元にない。当たり前だが、この異世界のこの都市で利用されている通貨は日本円ではない。日本円はこの瞬間に単なる紙切れと化したのだ。
野宿を避けるためには少しでも手元に現地通貨をもっておく必要があるし、この服装も流石に違和感極まりない。
服装によって階級が分かれているということもあるし、異世界に来た以上異世界らしい装備を整えることが先決である。
さて金を得る最も簡単な方法はものを売ることだ。適切なものを適切なターゲットに売ることが出来れば、物は適切に金になるはずである。それがガラクタであろうと関係ない、そのガラクタに価値を見出す人がいればその人物に売ればよい。
商売なんざ、人間と人間のやり取りなのだ。双方で合意できる商談であればその中身が他の人から見てどれだけ珍妙であったとしても忌避されるものではない。
俺は丁度目の前を通り過ぎようとしていた丸々と太った小人、恐らくドワーフと呼ばれる種族の親子に声をかけることにした。
「すまない、美術商は近くにあるだろうか」
***
俺は片手に拳二つ分ぐらいの布袋を握りしめ、ドワーフから教えられた美術商を出た。
布袋を縛っている糸をほどくと、金貨がびっしり詰まっているのがうかがえる。
「さすが現代社会の印刷技術だな……」
俺が売ったのは日本円。その中でも硬貨ではなく、紙幣。
硬貨はこの世界でも存在しているし、溶かして、形を作って、固める、という工程においては特段面白いものではない。確かに模様柄などは目新しいものではあるが、この異世界でも革新的とまでは言い難い。売ってもいいが、それほど高値では売れない。
一方で紙幣だと状況が異なってくる。こちらでも紙幣は存在しているが、すべてが判子によってスタンプされる作りになっており、現代の紙幣とは質が圧倒的に異なる。そのような活版印刷方式では現代の日本円のような色のグラデーションや透かしなどを表現することはできない。美術商に聞いたところ、そもそも紙幣自体があまりポピュラーではないようだ。
現代日本にとって単なる千円札であったとしても、この異世界にとっては芸術品に等しいのだ。
俺は千円札と一万円札を一枚ずつしか売っていない。財布の中には複数枚あるものの、全て売ってしまったらそれが量産的に作成されたものだと感づかれてしまう。
このような美術品は一点ものだからこそ価値がある。
唯一無二の芸術品だから人々は価値を認め、高い値段で買おうとする。もし同じようなものを作ってほしいと頼まれたときに再度売りに出せばよい。あえて価値を下げるような商売は合理的ではない。
「いらっしゃいませ」
単に紙幣を売りに出しただけなのだが、これほどまでの疲労感を覚えるとは思ってはいなかった。
死んで、天使と話して、今に至るまでが一連の流れに感じるからだとは思うが、それにしても疲労の蓄積度合いが尋常ではない。横になったらそのまま意識を失ってしまいそうだ。
「ごきげんよう。この宿で最上級の部屋を用意してもらえるかな」
その前にやらなければならないことがある。
宿の確保だ。これから生活していくうえで寝床は欠かせない。
「承知いたしました、いつどなたがご宿泊予定でしょうか」
「今、俺が止まる予定だ」
「ええっ!?」
二足歩行の狼のホテルマンは驚いた様子で俺に話しかける。
「えっと……。最上級といわれましても、その……お客様、お金はお持ちでしょうか?」
本来、最上級クラスの部屋を借りるレベルの貴族であれば執事なりが事前に宿へ出向き、下準備をしてくれるのだろう。実際の宿泊者が飛び込みで部屋を借りに来るなど、想定されていないはずだ。受付のリアクションがそれを物語っている
ルナという天使とやらがそこまで気が回る存在だとは思えない。全て自分の足で手続きをしなければならない。
助手……はもういらないが、流石に秘書ぐらいは欲しいものだ。
「ああ、持っている。これで足りると思うが、どうか?」
俺は布袋から金貨を一枚取り出し、カウンターテーブルの上に置く。
「だ、だだだ、大金貨!!! しょ、少々お待ちください」
獣人のホテルマンは血の気が引いた様子で叫ぶと、そのまま従業員専用の部屋へ入ってしまった。
しばらく待つと、獣人のホテルマンが落ちついた様子で戻ってきた。
「お、お客様、大変失礼いたしました。……大金貨であれば最上級のスイートルームをご用意させて頂きます。何泊いたしますか?」
「そうだな、俺はしばらくこの町を散策しようと考えているので、数日間泊まれればよいと考えている。この大金貨一枚で何泊できるのかな?」
「そうですね……。スイートルームは一泊あたり中金貨2枚となっておりますので、大金貨であれば5泊は可能でございます。しかし、お客様は連泊されるとのことですので、多少のサービスはさせて頂こうかと思いますが……、いかがでしょうか?」
「そうか」
美術商に聞いたところこの宿はこの町で最も高い宿らしく、そのスイートルームを数泊出来る価値を持つというのは中々である。
日本の五つ星ホテルのスイートルームの一泊の相場を200万だとすると、大金貨の価値はおおよそ1000万円といったところだろうか。まさか千円札が数千万円の価値に変化するとは、野口英世もびっくりだ。
それ以前に俺が最もびっくりしている。
数千万単位の金、教授職で稼ぐにはほぼ不可能に等しい。
「では4泊させてくれ。特段のサービスはいらないが、お釣りの中金貨を銀貨や銅貨に程よくばらしてほしい。大金貨を使ってこの町で買い物をするのはいささか大げさすぎるのでな」
「し、承知いたしました! ……お釣りは用意し次第、後程お部屋へお持ちいたします。こちらお部屋の鍵でございます」
「助かる。では、部屋に案内してくれ」
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