第8話 Enervation2:栗村 夢月の思考

自分の事が嫌いだ。

世の中生きづらくてしょうがない。


嫌いな奴ってのは自分にとって面倒くさい存在だ。

だから嫌いな奴は死んでしまえば良いと思う。


……けれど、世の中ってそう簡単にはいかないよね。

何でだろうね。


あーあ本当、死にたい。








自分にとって不都合な出来事が起こった時に必要になってくるものが「妥協」だ。


不都合な事に対して行うべき行動を、いくつかある選択肢の中からその都度適宜選ぶ必要がある。

この時の選択肢の中身というものが大体「妥協」しなければならないような内容なのだ。



さて、確か13、4年ぐらい前の事だ。

何故急にそんな前の事を思い出したのかは分からない。


分かるのは、その時からどうやら私は妥協点の選び方が下手くそらしいという事だ。




幼馴染とでも言うべきなのか、近所の家に瀬尾という男がいた。

……いや、正確には今もだ。

あいつとだけは、未だに関わりがある。



まぁ、そんな瀬尾に確か朝も早い時間に叩き起こされた私がのろのろ階段を下りると、ジジジジっと、トースターがパンを焼く為に唸っていた。

あー、また1日が始まったなぁと憂鬱になりつつ、徐ろに近くのシリアルが入っていた瓶を手に取った。

この当時から死にたいなぁとは思っていたが、それでも腹は減るものだ。


やる気なく、だがある程度力を込めて蓋を捻るも、瓶の蓋はビクともしなかった。


タオルを蓋に巻いて捻ってみたり、持ち方を変えてみたりと私にしては珍しく色々と工夫凝らし、蓋を捻ってみたのだが中のシリアルがむなしく揺れるだけだった。

シリアルの挙動と、何度やっても上手くいかない不都合な現状に苛々した。



何これ、何でそもそも瓶なんかに入ってんの?



そう思った瞬間には瓶を床に叩きつけていた。

ガシャアーン!! と大きな音を立てて割れた瓶が憎らしかった。

大袈裟だなぁ、そんな音立てたら奴が来るだろが。


案の定、キッチンから慌てた様子でリビングに入ってきた瀬尾が、キョロキョロと辺りを見渡していた。なんだか間抜けなツラだなと思った。


「大丈夫かよ?」

「何が」


ほとんど何も考えずに瀬尾の問いかけに答えた(つもりだ)。

だが、当の瀬尾は眉間にシワを寄せて、呆れたといったような顔でこっちを見てきた。うぜぇ。


「いや、何したわけ?」


冷静を装って瀬尾が聞き方を変えてきた。

鬱陶しいことこの上ない。

うるせぇよ。

ほっとけよ。

私がどう中身を取り出そうが勝手だろうが。

お前の考えてることなんて全部分かってんだよ、バーカ。


でも反論するのは面倒だったので、仕方なく瀬尾の三文芝居に付き合ってやることにした。


「シリアルの」

「ん」

「蓋が開かなかったから」



間。



「……は?」



瀬尾は口をあんぐりと開けて唖然とした顔でこっちを見てきた。

おいおい、てめぇの演技はもう終いか?


「お前バカじゃねぇの!?」


瀬尾が急に怒鳴ってきた。

耳を塞ぎたくなったが、そんなことをすればさらに怒鳴られるのは流石の私にも分かっていた。


うるせぇ。

そんな怒鳴らなくても良くない?

熱くなっちゃってカッコ悪いよ。

まぁコイツの事をかっこいいなんて思った事ないけど。


「蓋が開かねぇなら呼びに来ればいいだろ? 何で人に頼ろうとしないんだよ」



間。



「……は?」



今度は私が唖然とした。




当たり前の様に言った瀬尾の言葉の所為で、世界が停止したような気がした。



心が乾いていった。

さっきまであった苛立ちとか瀬尾に対する怒りとかそういった感情が徐々に消えていくのを感じた。

何かの拍子で空いてしまった穴から空気が漏れ出して、どんどん萎んでいく風船のようだ。

それでもちっとも楽じゃない。楽ってそもそも何だろう。



知らねぇよ、バーカ。







誰かに頼るなんてそんなこと、思い付くわけないじゃん、普通。









そういえばこの日、何で瀬尾は朝早くに来たんだっけか。


……あぁ、でも。




13、4年前と言えば、私はまだ中学生だった。はずだ。

という事は学校だ。

あの頃はまだ学校に行っていたのだ。

だから朝早くから起きてたのか。

長らくニートだから、朝早くから起きている事実にちょっとした違和感を感じていたのだが、学校があったのならば納得できる。



今は殆ど外に出ない私でも、一応学校には真面目に行っていた。

でも、楽しいと思った日は1日たりともない。


……せっかくだから、中学生の頃のとある1日でも思い出してみようか。

どうせ暇だしね。






教室では当然のように授業というものが毎日行われた。

先生はよく分からない日本語を毎日のように生徒に聞かせていた。

みんなは何故か教科書という面白くも何ともない本と、缶ジュースが買える金額で買わされたノートを広げて理解不能な無駄話をメモしていた。

先生は時たまそんな生産性のないノートを提出するよう命じていた。

……思い返すだけでも虫唾が走る毎日だ。



さらには授業が終わるなり、背後から髪の毛を掴まれ、教室の外に連れ出された。

まぁそんな扱いをされていたのは私だけだったけれど。



3人の男に教室の外からずるずると引き摺り回され、連れて来られた先は、トイレだった。

ちなみに男子トイレである。


まぁ、要するにいじめだ。


私の髪の毛を掴んでいた男とは別のーーいじめの主犯格である男が背中を蹴って私を男子トイレの個室に押し込んだ。


和式便所の奥になんとか手をつくも個室が狭い所為で奥の壁にそのまま衝突してしまった。

頭を打ったが、打ち所は悪くなかった様で、意識は途切れずに済んだ。

……いや正直なところ、そのまま気絶したかった。


「教室のゴミが。さっさと消えろ」


そう言いながらまだ起き上がれない私の脹脛辺りを勢いよく蹴られ、うぐっと汚い呻き声を上げた。

掃除が行き届いていない廊下に溜まった埃と靴裏の汚れで真っ黒な脹脛を摩りながら声の主を睨んだ。


「松野……っで!!」


いじめの主犯格である男の名前を口にしたと同時に足癖の悪い松野の踵が、私の脹脛の次は鳩尾に入った。

くぐもった声が漏れ、腹を抱えてうずくまった。

あまりの腹の痛みに、本能的に頭を腹へ近付けると、汚い便器が眼前に迫り、鼻がもげそうになった。

だが痛みに抗えない私は、そんな状況でも構わずとにかく鳩尾を抑えて縮こまり、悶えるしかなかった。


やがて痛みが分散され始め、やや狭まっていた視界が徐々に広がった時、ようやく松野が私を見下ろし、睨み付けていた事を知った。

その表情は憎しみに満ちていた。憎しんでいるのはこっちだ。


「苗字で呼ぶんじゃねえっつってんだろ。ほら下の名前で呼べよ」

「…………」

「言わねぇのかよ。素直じゃねぇな」


松野は何故か自分の苗字が嫌いらしい。

だから下の名前で呼ぶように強要されていたが、何が楽しくて下の名前で呼んでこんな奴と距離を縮めなければならないのか。

そう思っていた私はこの言い付けを一度も守らなかった。

……今となってはもう、コイツの下の名前を覚えていない。早く忘れたかったのだ。


松野が後ろにいた男の肩を叩き、何かを合図した。

ニヤッと笑った男二人は、隣の個室に姿を消した。

そのまま消えてくれれば万々歳だったが、すぐ戻ってきた男達のうち一人は複数のトイレットペーパー、もう一人は掃除用のほうきを手にして笑っていた。

これから何をされるのかは、想像に難くなかった。


案の定、トイレットペーパーが物凄いスピードで私の全身を次々と襲い掛かり、頭から鼻辺りにかけてをほうきで蹂躙された。ほうきの枝が顔を傷付け、僅かに血が滲んだ。


そんな無様な私を、松野は一歩下がった所から高みの見物していた。


コイツの態度が一番腹立つ。いや、存在が腹立つ。嫌いだ。


その時、授業開始のチャイムが鳴った。


ひたすらトイレットペーパーとほうきで私を弄んでいた男が慌てた様子で動きを止めた。


やっと終わった。

……いや、正確には一時休戦、と言ったところか。




「それ、片付けとけよ」

トイレットペーパーを人に向かって投げ続けるしか能のない男がトイレットペーパーとほうきの枝で散らかった個室を指差して言った。

お前が散らかしたんだろうが。

ほうきを持っていた男はクスクスと笑いながら、カランカランと音を立てて床にそれを捨て置いて、トイレから立ち去ろうとした。


男を引き連れ教室へ戻るかに見えた松野が振り返り、私を見て嘲笑った。


「次の授業、教室に来んなよ。お前は教室のゴミだからな。ここからもさっさと消え失せて、ゴミらしくゴミ倉庫の中にでも隠れとけ。


俺達が次来た時に、ゴミ倉庫に居なかったら死ねよ」


そんな100パーセント無駄で錬成された忠告を残し、松野達はトイレを後にした。


急に静かになったトイレの個室で一人、うずくまった。身体中のあちこちが痛かった。


あそこで「殺す」ではなく「死ね」と言う辺りに、松野の性格の悪さが滲み出ていると思う。

自ら手を下すこともなく、いらない奴に死んでもらおうなんて、身勝手で無責任だ。





あーーーーーーー、













クソがッッッ!!

死ねばいいのに! 死ねばいいのに! 死ねばいいのに!!


何が死ねだ。

お前が死ね。


松野が死ねば世界は変わる。

絶対に。絶対に! 絶対に!!


お前が死ねば済む話だ。何もかも、全てが上手く回る。



もしも、お前が死ぬとしたら。

もしも、ちゃんとお前が死んだとしたら。



そしたら、私も死んでやる。



けれど、お前の言う通りだ。

私は教室の、いや、この世界のゴミだ。

こんな命、最初から無駄だと思っていた。

お前に言われなくても、そんな事分かっていたさ。


だから、だからっ、だから……

わざわざ口に出して言うなよ無能が! 死ね! 本当に死ね。 死ねばいいのに! 何もかも、



松野も。

男共も。

クラスメイトも。

先生も。

親も。

周りの奴らも。


そして、私も。



こんな世界、さっさと消えちまえ。










どんなに願っても、世界は消えなかった。

松野は死ななかった。

だから私も死んでやらなかった。

死にたかった。



男子トイレの個室を掃除し、大人しくゴミ倉庫に行った。

とにかく、誰にも知られたくなかった。

極力、騒ぎにはしたくなかった。

いじめられているなんて、誰かにばれた所でどうせ何も変わらない。

だったらもういっその事、放っておいて欲しかったのだ。


生活排水のような臭いの立ち込めるゴミ倉庫内はじめっとしていて、不快感が募っていった。


それでもゴミ倉庫のドアを閉めて、端っこでうずくまった。




長い時間が経ったような気がするが、多分まだ授業中だ。チャイムは鳴っていない。授業は50分もあるのだ。ほんっとうに無駄な時間。




ねぇもう早く、はやく、早く、これから、されること全部、わかってるから早く、ねぇ。


何もする事がなく、暗くてじめじめした部屋で待機し続けるというのは、何かされているよりも苦痛だった。刑の執行を待つのみの死刑囚のようだった。










キーンコーンカーンコーン……




ようやくチャイムが鳴り、徐々に外が騒がしくなってきた。


じっと動かずに自分の膝を見つめていると、視界が急に明るくなり、眩しさに思わず目を瞑った。


ボンッ


顔を上げる間もなく頭に衝撃があった。

頭にぶち当たった後、鈍い音を立てて自分の目の前に落ちてきた物を確認した。


それは鞄だった。

クマのキーホルダーが付いていたそれは、見覚えがあり心当たりも充分にあった、が、目を疑った。


間違いなく、まがいなく、寸分の狂いもなくそれは自分の物だった。

だが、誰の目にも明らかな程ボロボロだった。


今朝持ってくるまでは綺麗だったスクールバッグは、取っ手付近から底にかけて大きく破れており、昨日の宿題をやったノートは今にも外へ飛び出しそうになっている上に角が切れていてあまりにも無惨だった。



変わり果てた姿とは、まさにこの事だと思った。



訳が分からなかった。


さっきと同じ男どもが、三人一斉に私の荷物を全部投げつけてきた。

体に物が当たって痛い事とか松野達が私の物を汚いだのゴミだのと喚いていた気がするけど、自分の中で生まれ、渦巻き始めた思考達の所為で、幸か不幸かその声は殆ど耳を素通りして消えていった。


それよりも、胸ぐらを締め付けながら頭の中で巡る思考がひたすらに痛くて堪らなかった。



『きっとこの荷物達はゴミなんだ。私と一緒だ。

だってゴミが持っている物だから』



そう思った瞬間、私は物に対する愛着を諦めた。



ゴミ倉庫に投げつけなきゃいけない程、きっと私が持っている物は汚いのだろう。

そんな物に愛着を持つだけ無駄なんだ。

執着する程良い物じゃない。

愛着する程思い入れもない。

そういう事なんだろう。


松野達がやっている事に、素直に納得できた自分が不思議だった。



納得した途端に、泣きそうになった。


理解できたはずなのに、諦めたはずなのに。


でも、こいつらの前で泣くのだけはどうしても許せず、痛みで涙を誤魔化した。



多分、本当は諦めたくなんかなかったんだ。

松野達が言ってた事を認めたくなかった。


でも、もう、否定するのは疲れた。



ひたすら荷物を投げつけられた後、渇いた笑い声を上げてゴミ倉庫を後にする松野達の姿を目の端で認識しつつ、地面に転がったボロボロの鞄を見続けていた。


驚く程、何も感じなかった。


今日された事であちこちに出来た新しい傷さえも痛くなかった。

こんな重たい心では、もう何も感じる事ができないんだろうな、多分。




その時、ガサッと靴と砂が擦れた音がした。



誰かが入ってきたのだろうか。

思わずビクついて、身を縮こめて顔をうずめた。

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