第3話 Victim mentality 1:飯田 果葉子の絶望

忘れたい。

そう願っては思い出す。

彼の姿、におい、言葉、体温、声。

何もかも全部、全部、全部、

私の記憶にこびり付いて剥がれやしない。



もうたくさんだ、いらないんだ。

そう思っているのに、記憶はお構いなしに何度も何度もリフレインし蘇るのだ。



恋情というものは、本当に厄介極まりない。



この想いの全てが目の前の人に向けば、どんなに楽になれるだろう。


ちっとも愛せない。ちっとも愛してくれない。


私は自分自身の恋情を上手く操れないまま、今日も叶いもしない忘却に夢を見る。






私は恋愛経験が豊富な方だと思う。

……いや、これは決して自慢ではない。

むしろ恥ずかしい話だ。


親友の束沙が羨ましい。

付き合った恋人の数も、彼氏がいた期間も、トータルすれば私の方がはるかに多いだろうと推測されるが、先に結婚を決めたのは彼女で、私は未だ独身だ。


今も彼氏はいるが……正直あいつと結婚なんて考えていない。

むしろ、愛してもいない。


その彼氏ーー瀬尾明春(せおあきはる)は、街のとある安価なイタリアンレストランで、注文したパスタを頬張りながら、能天気そうな顔をして首を傾げている。


「何、どうしたの?」

「……別に、何もないよ」


明春の疑問に素っ気なく返す。

これが、私と明春の最近の関係だ。

もう正直なところ、明春との繋がりは惰性だけだと思う。


「いや、何か考え事でもしてそうな顔してたからさ」

「……そう? なんか暗い顔してた?」

「うん。大丈夫かよ?」


明春は変なところで勘が鋭い。

私の機嫌の良し悪しや、考え事をしていたり、悩んでいたりする時、彼はすぐにその様子に気がつく。

考えまで読まれていそうで、時々ゾッとする。



だから私はこういう時、敢えて挑発するのだ。



「心配なら、慰めてよ。全部忘れさせて」


テーブルに肘をつき、手を顎に乗せて口角をやや上げる。

そうすると明春は、呆れたように溜め息をつきながらも、私の挑発に乗ってくれるのだ。


「……それ食ったらな」


明春は期待通り、私の前に残っているクリームパスタを指差してから、吐き捨てるようにそう言った。


頷いてからパスタを口に運び、目を逸らした。


だって怖いじゃないか。



そもそも恋なんていらない。

愛なんていらない。

思い出なんていらない。


私が欲しいものは、忘却のみ。

私の知らない、忘却後の世界。



こんな考え方を、明春には絶対に知られたくない。



それでも願う。

どうか、忘れさせてよ……と。

今この時だけでもいい。


一瞬で終わる快楽でも、惰性だけの繋がりでも、この際手段は何だって構わないのだ。


だからお願い、明春。


いつまでも過去に縛られたままの可哀想な私を、いい加減に岬生(みさき)から解放してよ。





私が岬生と知り合ったのは、中学3年生の頃だ。


その頃に入学してきたばかりの岬生の髪は金髪で、耳には大きいピアスを複数ぶら下げ、ズボンは腰まで下ろして緩く履き、学ランのボタンは一つも閉めず、中には毎日発色の強いパーカーやTシャツを着ていた。

今にして思えばただの「ヤンキー」だった。

当然ながら、全て校則違反だ。


けれど、今よりも髪が色の暗いセミロングで、どこにでも居そうなやや地味な生徒だった私にとって岬生は、ルールや人にも縛られず、自分の人生を生きている憧れの存在で、いつも眩しくてカッコ良い姿を追いかけずにはいられなかった。


岬生と一瞬目が合っただの合ってないだので一喜一憂し、彼が好む女性のタイプの噂を探っては自分に取り入れたりして、岬生に気に入られようと躍起になっていたのを覚えている。


髪を明るく染めて、ピアスも開けて、スカートを短くし出したのもこの頃からだ。


随分と初心でバカらしい恋愛をしていたものだ。


だが、そんな稚拙な努力が実を結び、私と岬生は交際を始める事になった。


そうは言ってもやる事といえば、休み時間に会ったりだとか、学校から一緒に帰るだとか、晩ご飯を一緒に食べるだとか、本当それぐらいのもので、本当に付き合っているのかどうかも時たま疑わしくなる事があった。

それでも私はあの岬生の隣に居られる事の優越感と充足感に満たされ、毎日が幸せで仕方なかった。



ところがそんなある日……。

昼休み、クラスで弁当を食べ終えた後、私は今日も岬生と……ではなく、束沙と2人きりで人気の少ない多目的教室の近くで待ち合わせた。


束沙とは中1の時にクラスが一緒になった事がきっかけで仲良くなった。その後はクラスが一度も合わなかったが、変わらず仲良いままで、頻繁に遊びにも出掛ける言わば親友とも言える存在だった。


「急に呼び出して、どうしたの?」


そんな束沙が私を今日呼び出したのだ。


「う、うん……あ、あのさぁ……」


束沙は、いつも通りの明るい声色ではなく、やや弱々しく、遠慮がちに話し始めた。

深刻な悩みでも抱えているのかもしれない。

私は心配になりつつ束沙の次の言葉を待った。



「あのさ、果葉子。もしかして岬生と付き合ってるの?」


思いもよらなかったワードが束沙から飛び出し、一瞬で思考回路が停止した。



は?



何で束沙が岬生を知ってるの?

何で呼び捨てなの?


「う、うん。そうだよ。それが何?」


出来るだけ平静を装ってそう返すのが精一杯だった。

真面目な束沙とチャラい岬生……どう考えても結びつかないように思えるのに、なんで束沙から岬生の話題が出てくるのだろう。

ぐるぐるぐるぐる考え続けている頭の中は混乱を極めていた。


「あの……凄い……言いにくいんだけど、やめといた方がいいと思うよ」

「は?」



今度は考える間も無くそう言っていた。

混乱して渦を巻いていた言葉がダムのように決壊し、どんどん放流されていった。


「何言ってんの? なんで束沙にそんな事言われなきゃいけない訳? 関係ないじゃん」


しまった。


「関係な……! くは、ないよ。多分。私は、果葉子が心配で」

「何の心配? 私がライバルになる事?」

「え? 違っ……!」


そうは思ったのに止まらなかった。


「何? つーか何で岬生の事呼び捨てなの? 岬生の何を知ってんの?」

「それは果葉子もっ……!」

「私は岬生の彼女よ! 呼び捨てなんて別に普通だし、何でも知ってるわ」


助けて。


「ははっ、もしかして、束沙も岬生の事が好きなの? 残念だったね」

「違う!! 果葉子、聞いて」

「嫌だね」



お願い、助けて。


何で言う事聞いてくんないのよ。




誰か、止めてよ。




「知らなかったなぁ」



やめて……





「束沙がそんな奴だなんて、知らなかった」





やめて!!

もう嫌だ!!何も、言わないでよ!!





誰か……誰か、止めて!






「応援してくれると思ってたのに」


















私のこの口を。






「最低」



















そう吐き捨てて立ち去った私は、束沙の顔を見る事が出来なかった。





初めて出来た親友と絶縁した。







あの日から、私は束沙に一切口を聞かなかった。

何度も声を掛けられたが全部無視して、廊下で会っても目も合わせなかった。

合わせられなかった。


どうしても許せなかった。

束沙が岬生と何か関係があるなんて。

恋を応援してくれない親友なんて。

関係や理由は聞いていなかった。聞きたくないとも思っていた。


束沙の事を考える度、罪悪感と岬生の事への憤りで自分がぐちゃぐちゃになった。


だから今束沙の顔を見てしまったら、あの時の勢いのままもっと酷い事を言ってしまいそうだったのだ。


そんな想いに苛まれても。

優しくて人が良くて明るい親友を捨ててでも。

それでも、それでも、それでも。



ごめん、束沙。岬生だけは譲れないの。




好きな人の為に親友すら切り捨てられてしまうなんて、女って怖い生き物ね。


しかし、女の本当の怖さというものを、この時の私はまだ何も知らなかったのだ。




束沙と喧嘩した翌日、私は幸せだった。

翌々日、私は幸せだった。

3日後、私は今日も幸せだった。

4、5日後、学校が休みだった。


6日後、私は幸せだった。






















そして、幸せな7日後。













の、 放課後。

























嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ





嘘だうそだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだソウだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだウソだ嘘だ。





何で、何で、何で、何で? え?





あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない!












岬生が、知らない女と歩いている。














こんなのは嘘だ。

今日岬生は熱が出たから休むと言っていたのに。


元気そうに私服で街に繰り出している岬生は、同じく私服の女を連れて仲睦まじそうに談笑しながら歩いていた。

私がいる事には全く気付いていないようだ。






何よ、病院に行くとか話が長引きそうだとかメールしてくるから、人がせっかく学校も早退して病院に行こうとしているというのにこの仕打ちって訳?



今までの幸せや思い出が全て怒りに変わり、それに身を任せてずんずんと歩いた。



目的地は当然、岬生と女の目の前だ。








「……は? 果葉子……お前、何で」


思わずそう口に出してしまったような、驚きを隠せないと言った様子で岬生は私の事を見た。

そのまま私だけを見ていれば、こんな事しなかったのに。




「ねぇ、岬生。その女、誰?」



そう言って岬生を睨みつける。

すると、私の岬生に腕を回し、擦り寄っている女が私を見てにっこりと微笑んだ。

何なんだよ、何余裕ぶってんだよ。



私の問いかけに、岬生ではなく女が笑顔を崩さずに答えた。








「話には聞いてるよ。岬生が遊んでる子だよね?」

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