#罪愛シリーズ

混彩カオス

第1話 Loss of confidence:志藤 広成の世界

世界は煩い。


いつだって雑音まみれの空間に、やり場のない憤りが満ちてくる。

憤りにはやり場がなくても、雑音にはやり場も溜まり場も存在している。

そう、雑音の溜まり場はいつだって自分のすぐ傍にあるのだ。



夜も随分更けた頃に自宅の鍵穴に金属を突っ込み、ガチャガチャと不快な雑音を立てる。

家族が寝静まったこの家で、煩い音を立てているのは俺だけだった。

荷物を置いて一息つけば、この空間には静寂が訪れる。


呼吸する音さえ煩いと思う程静かな空間は、日常生活に溢れる雑音を忘れさせ、まるでこの世界は本来静かなものなのではないかと錯覚させる。


そんな錯覚を打ち破るかのように、俺はCDプレイヤーの再生ボタンを押した。



遅勤務の俺は、いつも13時に出勤し22時に勤務を終え、帰宅するのはだいたい23時半頃だった。


その頃には大抵寝ている娘と妻がテーブルに置いてくれている書き置き付きの味噌汁とご飯と簡単なおかずを咀嚼しながら、静かな音楽をつけるのがお決まりのパターンだった。書き置きはたまに「ちんしてたべてね」といった文面が娘が書いたであろう下手くそな文字でラップが掛けられた夕食の上に添えられていた。


妻の料理は不味いわけではないが、正直旨くもない。いつか「料理の腕は中の下」だと彼女自身が申告していたが、その自己分析に寸分の狂いもなかったようだ。


俺はそんな妻をある意味尊敬している。

俺にはできないことを、確実に、さらには当たり前のようにやり遂げているのだから。



翌日、仕事は休みだった。


いつものように遅い時間帯まで睡眠に費やし、10時過ぎにのろのろとリビングへ向かうと、そこには娘も妻もいなかった。


ーー買い物にでも行っているのだろう。


そう思いながら、またのろのろと朝食の食パンの袋を破り、トースターの上にのせるよりも先にお気に入りのバラードばかりが収録されたCDをプレイヤーにセットする。


俺は音楽を聴くのが好きだ。


その中でもバラードが特に好きだ。


さらに言えば、イヤホンやヘッドホン等の耳から直接音を入れるのではなく、CDプレイヤーから空間に広がる音楽を聴くのが好きだ。


極力ならば、それ以外の音を鼓膜に通したくない。


誰もいない家で、静かな空間で、自分の好きなバラード調の曲を流しながら読書をする時間が好きだった。


トーストを頬張りながら本を捲り、静かに、ゆっくりと流れ落ちていく音に酔いしれる。まるで、自分の中に溜まっていた雑音をも綺麗な音ともに流れ落ちて、洗われていくようだ。今、ここには本を読みながら物を食べるなんて行儀悪いじゃない、子どもが真似したらどうすんのと煩く喚く妻はいない。

俺は今、自由だ。


しかし、そんな空間はすぐに打ち破られた。


ガチャガチャと鍵が擦れる音。

娘と妻の「ただいまぁ」という明るい声。

カサカサとなるビニールの買い物袋。

……だから、買い物袋を持参しろと言っているんだ。煩い。


「ただいまぁ、あ、起きてたんだ。おはよう!」

「ひろなりおはよー!」

「……ん、おはよ」


妻と、そして何故か俺達の事を名前で呼ぶ娘の甲高くて大きな声が、鼓膜を振るわせ、頭のテッペンまで突き抜けた。煩い。


「きやぁぁおおあああうううあぁ」


娘が何語かすら分からない奇声を上げる。声を出すなら、せめて理解が追いつく言葉を叫んでほしい。


煩い音の鳴る方へ顔を向けると、娘が先程買ったのであろうケチャップを持ち出して、リビングの外へ飛び出していた。さらにはリビングのドアを出てすぐ左に曲がった。おい、そっちはトイレじゃねぇか。


「こら、歩夢(あゆむ)! どこ行くの! ケチャップ戻しなさーい!」


妻が娘を怒鳴る。

甲高くて尖った声が、小さな家に響き、充満する。煩い。


娘がいたずらをした時に上げるはしゃいだ叫び声。

妻の娘を叱咤する声。

買い物袋が擦れてなる音。


雑音の多さにイライラしつつCDの音量をやや下げた。

娘の前で大音量で音楽を聴いていると、妻の叱咤の雑音がこちらにまで向けられる羽目になるのだ。


この家は、今日も雑音だらけで煩い。


この雑音が、静かな音楽を楽しく感じさせる事を俺は知っていた。

非常に不本意な話だが。




たまに考える事がある。

これは、全部夢なのではないか、と。


独りよがりで、他人と関わらない俺なんかが、どうして妻と娘に恵まれている。そんな生活を営むに相応しい男なんて、音の数ほど他にいるというのに。


だから、きっと、これは夢で。

目を開けると、俺はこの家に独りぼっちなのだろう。


俺の望んだ雑音のない、静かで、快適な空間にお気に入りのバラード調の音楽だけが漂い、俺はそんな空間でただ独り、この音楽と同じように徐々に薄くなって、フェードアウトしていくのだ。


そうして俺が消えた世界には、雑音と綺麗な音楽だけが残される。


あぁ、なんて美しく、虚しい人生だろう。


でも、俺の人生には、本来そんな程度のものが相応しい。

本当は、こんな世界が正しいのだろう。


人には誰しも長所と短所がある。

俺は昔からその言葉を信用することができない。


何故なら自分の長所なんて何一つ浮かばないからだ。

自分に自信を持ったことなど、今まで一度もない。


妻が自分のどんな所を気に入ってくれたのかなんて、検討もつかない。

それを訊ねる勇気のない弱い俺は、今日もお気に入りの静かなバラードだけを聴いて美しく虚しい空間に逃げるのだ。


そして今日も考え込む。


あの雑音達は、全部、全部、ただの夢なのだから。

こんなのは、知らない。知っちゃダメだ。

だって嘘だ、嘘だ、嘘だって……。



ハッと気付いて目を開けると、俺の横に座った娘がにっこりと笑っていた。


……どうやら俺は、いつのまにかソファーで眠っていたらしい。


娘の反対側からひょこっと顔を出し、俺を覗きこむようにソファーの後ろから屈んできた妻もにっこり笑いながら、


「今日はオムライスだよ」


と言った。


幸せそうな妻の笑顔が、眩しくて、煩い。


「……卵、焦がすなよ」

「この前と同じ失敗はしませんーっ!」

「つかさのたまご、まっくろけー!」

「違うから! この前たまたま失敗しただけだから!」


前回妻の手によって作られたオムライスは、はじめに中のチキンライスを作る……所までは良かったのだが、卵を割り、少し目を離した隙に鮮やかな黄色になるはずの卵は無惨にも真っ黒になっていたのだった。

……そもそも、オムライスのような薄い卵を焼く時は、目を離してはいけないことを妻は知っているのだろうか。


「だぁーって、しょうがないじゃん! 広成と歩夢がすっごいいい顔で寝てたんだもん」


「…………」









……は?





寝てた? いい顔? ……って何だ? いつの話だ? つーか、束沙に寝顔がっつり見られた? いつ、え、さっきも、さっきもか、そういえば。あ、オムライス、それがいつだよ、さっきの話、てなんだ、歩夢も寝てたのか? つか、そんなことより、卵みとけよえ? え?


理解が追い付かない言葉が、頭の中を蹂躙する。散乱している。

一向に整理のつかない言葉と感情は、まるで雑音のようだ。


あぁ煩い、煩い、煩い、煩い。煩い。煩い。



何でだよ、教えてくれよ。



なんでそんなにもお前は幸せそうに笑うんだ。

何故そんな顔で俺と歩夢が寝てた事を語るんだ。


お前がこんな俺の横にいて、そんな顔する理由を、俺は未だに知らないというのに。


言いたい事はいっぱいあるはずなのに、俺の口は一向に開く気配がない。

疑問も憤りも喜びも感謝も何一つ口にせず、ただそこにある無機物のように、何の音も立てなかった。


そう、結局俺はいつもこの煩い笑顔達にほだされて、動けなくなるんだ。



そんな中ふと、ある考えが頭に浮かんだ。


たまには、オーケストラでも聴いてみようか。

大きな音を立て、煩く反響し合うその音楽は、まるで、この家の中のようじゃないか。

雑音をもかき消してしまうような、騒音めいた音楽に耳を傾けるのも、まぁ、悪くない気がする。


ふと我に返り、娘を見ると、彼女は妻と同じ顔で笑っていた。


あぁ、歩夢は妻に似たのだな。


そんなことを思いながら、俺は静かに目を閉じた。







「ひろなりまたねたー!」


大きな声で言う歩夢に、しーっと言って人差し指を立ててから、そうだね、と小声で返事をした。


ソファーで目を閉じたまま規則正しい寝息を立てる広成を見て、何だか広成、今日はよく寝ているなぁとふっと笑った。


……私は広成の寝顔が、結構好きだ。


普段はほとんど何も喋らず、コミュニケーションを取ろうとしてくれない寡黙な彼が、唯一素直に自分を表現し、さらけ出してくれるのが他ならぬ寝ている時なのだ。


さっきも寝言で「俺なんかが……俺なんかで、いいのか、つかさ……あゆむ……」とか言っていたのだ。

うわーはずい! 私があの人なら絶対絶望してるわ! この事は広成にはバレないよう、墓場まで持ち込まないとね。


それにしても、未だに不安がられていたとは。


自分に自信のない広成の事だ。きっと、私達がどんなにいいと言っても納得しないのだろう。

それでも、ほんの少しでも、ほんの一瞬でもいい。安心させてあげたい。


私も歩夢もあなたの傍にずっといる。


あなたの広すぎる世界を束ねて一緒に歩こう。

夢なんかじゃない、紛れもない現実世界で。


「さ、今日も頑張って料理作らないとね!」


ほんの少しでもマシなものを。

いや、昨日よりも美味しいものを。

愛する家族が果てる、その日まで。

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