狂人の椅子

狛咲らき

非現実を求めた先で

 ピピピピッ、ピピピピッ。


 一日の始まりを告げるアラーム音。

 少年はこの音が嫌いだった。


 しばらく布団に潜って決して起きまいとしたものの、結局は音の命令には抗えず、いつもと変わらず無駄な抵抗に終わった。

 嫌々ながらにベッドから起き上がった少年は小さく溜息を吐いた。


 少年は憂鬱な気持ちのままリビングへ向かった。

 テレビを点け、冷蔵庫から昨日の晩飯の残りを取り出して電子レンジに入れる。テレビから聞こえるアナウンサーの朗らかな声に耳を傾ける。そのうち再び意識が夢の中へ行きそうになったタイミングでチン、と電子レンジが鳴る。そしてテーブルに朝食を置いて座り、3日前からある「今日からまた出張、1週間は帰らない」と書かれた父親の置手紙には目もくれず黙々と食べ続ける。


 同じ朝の繰り返し。単調でつまらない毎日。僅かでも変化があれば良いのにと少年は常々思う。


 ―—学校に行きたくないな。


 少年は最近毎日のように夜遅くまでゲームをしていた。横スクロールアクション、バトルロイヤル系のシューティング、自由度の高いシミュレーション。ゲーム特有の非現実が少年にとって魅力的だった。

 毎朝学校に行って、授業を受けて、家に帰るだけのつまらない現実と比べると余計に非現実へ憧れを抱いてしまう。

 せめてこの現実がもう少し華々しいものであれば。あるいは楽しめるものであれば。


 朝食を食べ終え、少年は時間を確認してみた。

 7時50分。そろそろ家を出ないと遅刻してしまうだろうが、いまいち気乗りしない。


 ―—二限目までサボろう。


 それで特に何かが変わる訳ではないだろうとは思うものの、いつもと違う行動をすればひょっとしたら、と思ってしまう自分がいる。非現実とまでは行かなくとも、もっと変化のある日々を過ごせる、そのきっかけになるのではと。


 ―—昨日の続きをやろうかな。


 少年はゲーム機を起動して、昨日寝落ちしかけるまでプレイしていたゲームソフトを始めた。

 今大人気のロールプレイングゲームで、最後まで展開が読めないストーリー性と超美麗なグラフィックによって高い評価を受けているそうだが、少年はただゲームショップで目に付いたから買っただけだ。

 非現実を味わえればどんなゲームでも良いのだ。


『大変だ! 魔王軍が攻めてきたぞー!』


『キャーッ! 助けてー!』


『大丈夫です、私達が何とかします!』


 舞台となる王国に攻め入る魔王軍。それを主人公率いる勇者パーティが迎え撃つ。

 何とか事態を収束させると、今度は王国に魔王のスパイがいるという話になった。誰だ誰だと城内の騒ぎが大きくなり、そんな時に兵士のひとりが勇者パーティのメンバーである槍使いに疑いの目を向けた。


『違うっ! 俺じゃない!』


『そうだぞ。彼らは魔王軍を打ち滅ぼす任務を請け負っている。そんなはずがないであろう』


『ですが、国王様! そ、その、この方が魔王軍の幹部と何度も接触しているという情報がありまして……』


『あ、それ私も耳にしたことがあります』


『私も!』


『い、いやっ! あの、それは……』


 ―—やっぱり楽しいな。この世界は。


 現実では絶対に少年が経験することのないような出来事が次から次へと頭に流れ込んでいく。非現実はこれだから面白いのだ。


 憂鬱な気分はどこへやら、少年は笑みを浮かべつつゲームに没頭し続けた。


 結局少年が家を出たのは昼休みのチャイムが鳴り始めた頃だった。













「起立、礼、さようなら」


「さようなら」


 野球部らしき男子生徒が勢いよく扉を開けて教室を飛び出していった。


 それに続くように生徒達がワイワイと話を交えながら教室から出ていく。


「またね、ユミ。明日のこと、ラインで話そうね」


「うん。ナオも部活頑張ってよね。試合近いんでしょ?」


「あー受験勉強マジだりぃ。誰か代わりにやってくんねーかなぁ」


「高3は嫌だねぇ。うちの親も勉強しろってしつこくってさぁ」


「ねぇ、次の日曜映画行かない?」


「お、いいね。何観る?」


 喧噪の中を少年はひとり歩く。


 廊下には学年問わず生徒でごった返しになっていた。少年は慣れた動作で人混みをするりするりと抜けて下駄箱へ。

 自分の靴の前でぺちゃくちゃと話し合っている女子達に苛立ちを覚えながらも、何とか履き替えることが出来た。


 小学校を卒業してから、この6年間少年には友人と呼べる人がいなかった。

 もちろん少年とて友人が欲しくなかった訳ではない。新学期になる度に人に話しかけようとする努力はしてきた。それでも今校門から出ようとする少年を呼び止める者がいないのは、努力だけで実行に移すことが出来なかったからに他ならない。


 ―—別に良いさ。僕にはゲームがある。


 夕焼けとは言い難いが真昼とは程遠い曖昧な空の下、学校から解放された生徒達が集団となって駅へと歩いている。その中で孤立している少年の意識は今朝のゲームに向いていた。


 ―—もうすぐ魔王との決戦かな。でもまだ回収出来てない伏線沢山あるよなぁ。そもそも魔王の目的も見えてないし。そういや槍使いのスパイ疑惑も払拭しきれてないよな。もしかして本当にスパイなのか? あー、楽しみだなぁ!


「じゃあな、また明日!」


「また明日―!」


 改札口で別れるふたりの男子生徒達の声に少年の思考が止まった。下校中の楽しい会話を終えてお互いに別々のホームへ向かう姿が妙に少年の気を引いた。


 ―—何度も思っただろう。僕には関係ないことだ。


 自分に言い聞かせるようにして心のもやもやを抑え込みつつ、ホームまでの階段を上っていく。しかし上り終えた先では電車を待つ生徒達で溢れかえっていて、皆々が今日の事、昨日の事、明日の事を思い思いに駄弁っていた。


 通学路よりも狭いスペースだからか少年の孤立がより際立っている。

 そんなことを誰も気にしていないが、これが少年にとって最も苦痛な時間であった。


 ―—さっさと妄想に浸ろう。僕には非現実しかないんだ。


 そうは思っても周囲から聞こえる笑い声が耳に障って、集中が途切れてしまう。


 電車の到着を告げるアナウンスは今日も遅かった。





 ―—やっと家に帰れた。


 帰宅するなり少年は溜息混じりにそう呟いた。

 やはりというべきか、今日も何も変わらない学校生活だった。


 ―—分かってるよ、そんなこと。


 誰にも話しかけられず、誰からも話しかけられない。今朝ほんの少しでも望みをかけた少年を嘲笑う声が聞こえたような気がして、少年は舌打ちをした。


 自室に行って制服から私服に着替えた少年はそのままベッドへダイブ。即座にゲーム機を起動した。


 心躍るBGMと共に表示されるゲームタイトル。薄暗い部屋に燦然と輝くテレビに少年は一瞬にして目を奪われた。


 ―—あぁ、やっぱり此処が好きだ。


 それからというもの、少年は時間も、食事も、洗濯も、宿題も、風呂も、明日の準備も、現実の何もかもを忘れてゲームにのめり込んだ。


 誰とも関わることの無い現実と違って、ゲームではキャラクターを介して世界そのものに干渉出来る。

 今少年のプレイしているロールプレイングなんてまさにそうだ。勇者を操って物語を進めていく。プレイヤーによって勇者は仲間を作れて、国を揺るがす魔王軍と戦えるのだ。逆にプレイヤーが勇者を操らなければ、つまりゲームをプレイしなければ、世界は停滞し続ける。少年がいてもいなくても回り続ける現実とは大違いである。


 非現実から求められている、そんな感覚に酔いしれることも少年はこの時間の楽しみとしていた。


 ―—そっちに行けたらもっと楽しいのにな。


 主人公をもっと自在に動かせたなら、主人公の体験を五感すべてで知ることが出来たなら、そう思わない日はない。

 しかしそれこそ非現実であることは少年も理解していた。


 それでも少年は目を背き続けていた。

 此処は少年にとって楽園なのだ。学校では誰とも話せず、変わりたいと思っても変えられなかった、現実の中での唯一の自分の居場所。


 これのお陰で少年は楽しさを感じられていた。

 これのお陰で少年は毎日を生きていけた。

 これのお陰で少年は自分を肯定出来ていた。


 ただ、現実が退屈である事には変わりなかった。













 ピピピピッ、ピピピピッ。


 一日の始まりを告げるアラーム音。

 少年はこの音が嫌いだった。


 いつものようにしばらく布団に潜って決して起きまいとして、ふと自分がやけに目覚めが良いことに気が付いた。朝が苦手で毎日寝不足な少年にとっては珍しい現象である。


 ―—いつ寝落ちしたんだろう。


 首を傾げてベッドから起き上がった少年は、深夜の記憶に思考を巡らせてみたが結局思い出せなかった。


 少年は謎の高揚感を抱きながらリビングへ向かった。

 テレビを点け、冷蔵庫から昨日の晩飯……はないから何も取り出さずにそのままパタンと閉じる。テレビから聞こえるアナウンサーの声はいつもと変わらないのに、今朝は妙な不快感があって思わずすぐにテレビを消してしまう。テーブルを見ると4日前の父親の置手紙がまだあって、なんだかそれが無性に腹立たしく思えて、無我夢中で手紙を破いてゴミ箱へ投げ捨てる。


 昨日までとは違う朝。何かが変わりそうな始まりに少年は心を躍らせた。


 ―—今日は早めに学校に行こうかな。


 いつまでも家に籠って好機を見逃す訳にはいかない。少年は学校に行かず、何処か他の場所に行くことも考えたが、こういうものはむしろいつも行く場所にこそ何かあるのではないだろうか。それに学校は出会いの場だ。どんなものであれ、新たな出会いを求めるならば学校が適当なはずだ。


 善は急げ。少年はすぐさま身支度を整えて玄関を開けた。





 ―—これは。


 駅までに通る河原沿いの道で、少年はソレを見つけた。

 鼻歌交じりで自転車を漕いでいた時に視界の隅に一瞬映った違和感。少年は半ば放り捨てる形で自転車を止めてその場所へと走った。


 河原沿いの道は植えられた木々が一定の間隔で続いていた。その青々とした葉が柔らかな日の光を反射し、爽やかな朝の風にさらさらと音を立てて揺れている。これには誰もが初夏の訪れを感じずにはいられない。

 少年はそんな並木の中から一本、違和感に気付いたところにあった木に近づくと、ゆっくりとその下を確認した。


 逞しい根が地面に張り、その周辺を雑草が取り囲んでいる。

 よく見れば雑草の中を掻き分けて歩く虫が数十匹いて、朝なのに活発だなと少年は思わず感心してしまった。

 他にも毎日通る道なのに、ちゃんと見ていないから知らなかったことがたくさんあった。

 たとえば、ここの地面の色は少し暗いということや、雑草が想像以上に密集して生えていること。それから―—。


 ―—いや、これは流石に今日だけだろ。


 何故此処にコレがあるのか。

 何故少年が通るまで誰も気付かなかったのか。

 何故、何故、何故……。浮かび上がる疑問の数々に脳の処理が追い付かず立ち竦む。

 ただ、出会いは学校ではなかったにせよ、コレこそが少年の求めていた非現実へのきっかけであることは明らかだった。


 ―—い、いやいやいや! 流石にコレはない。コレを使うくらいなら今までの生活の方がよっぽど……。



 僕には非現実しかないんだ。



 ――。



 非現実しか、ないんだ。



 ―—。





















 少年は木に寄りかかっているソレを手に取った。

 それから鞄を開けて中に詰めようとするも、中身が邪魔で入らない。


 そこで少年は鞄の口を下に向けた。

 バラバラと音を立てて教科書や筆箱が落ちていく。その様子を見届けて中身が全部落ちたことを確かめると、今度は空になった鞄の中を軽く覗いてみた。ギリギリだがソレ全体を入れることは出来そうだ。

 この鞄は少年が高校入学の時に買ったものだ。大は小を兼ねる、とわざわざ大きめのものを買ったのが役に立った。


 少年はソレと、都合の良いことにソレの傍にあった数個の小さな黒い物体も一緒に詰めて、鞄を背負って自転車の元へと歩いた。


 自転車は数十メートル離れてる道の真ん中に倒れてあった。通行人の邪魔になるかもしれないが、今この道にいるのは少年だけだ。

 少年は自転車を立ち上げて、背の鞄をその籠へ。そしてそのまま駅へ、ではなく自宅へ向かって漕ぎだした。


 ソレの使い方を調べるために。













「――ここでこの公式を使うことで、答えが出ると」


 カッ、カッ、とチョークの音が教室に響く。

 今は三限目。数学の授業だ。

 黒板を見ながら淡々と話す先生の背後に座る生徒達は、真面目に授業を受ける者、友人とこそこそと話し合う者、黒板を書き写すふりをしてノートに落書きする者、居眠りする者と様々だ。


 何気ない日常の一場面。穏やかな時間が教室に流れる。


「えーと、じゃあこの問題を……」


 教師が黒板に書いた問題を誰に解かせようかと振り返ってクラス名簿に目を向けた。

 その時だった。


「ん? あ、遅刻か。えーと……」


 ガララ、と扉が開いて教師は顔を上げた。そして相手が遅刻した生徒だと思って再度名簿から名前を探し始める。

 教室に入った少年はその様子に目もくれず扉を閉め、カチャリと鍵をかけた。


「あったあった。君は……って、何をしてる。早く席に着きなさい」


 スタスタと早足で歩く少年は自分の席に座るどころか、もうひとつの扉の方へ向かっている。

 教師と生徒達の視線を一身に浴びながら、扉に着いた少年は先程と同様に鍵をかけた。

 それから少年は窓を見回してみた。夏が近いとはいえまだ暑いという訳ではなく、どの窓もすべて閉じていた。


「おい、聞いてるのか。早く席に着きなさい」


 少年は教師の言葉を無視して扉の前で鞄を下した。





 それから鞄を開けて、













 ソレを取り出して、





















 近づいてくる教師にソレを構えて、















































 バン。


 教師の頭が真っ赤に弾け飛んだ。


 カラン、という小気味良い音。

 バタ、と斃れて首から勢いよく血を噴き出す体。


 それを見届けてしーん、と静まる教室。しかしすぐに阿鼻叫喚の渦が巻き起こった。


「キャーッ!」


 バン。


「うわぁー!」


 バン。


「おい、何すんだ……」


 バン。




 バン、バン、バン。




 悲鳴や少年に向く言葉をひとつひとつ潰していく。


「助けて! 助けて!」


 数名の生徒が扉を開けようとしているが、手が震えてなかなか鍵を外せずにいたので狙いを定めて3発。

 教室は3階だが、万一助かるかもしれないと窓を開けようとする生徒達もいて、彼らに4発。


 生徒がひとり、またひとりと斃れていく度に騒ぎはどんどん大きくなっていく。


 劈く悲鳴が飛び交う中で、少年は無言でソレにある小さなレバーを倒した。




 ドドドドドドドドドドッ。




 ドドドドドドドッ。




 途中で音が出なくなったので、ソレに付いている黒い物体を外して鞄にあるものと付け替えて再開。


 今度はドアの前から離れて教室中を歩き回りながら少年は声を、人を、命を消してゆく。


 頭が潰える、肉が吹き飛ぶ、内臓が飛び出る。


 無慈悲な死の音に、逃げ惑う生徒達は次々と爆ぜていった。




 ドドドドドドドドドドッ。






 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ。










 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ。

















































 ―—何だよこれ。


 いつもの教室がいつもじゃなくなった。

 赤いペンキを何度も何度もぶちまけたような、あまりにも汚らしい光景。床も、壁も、机も、黒板も、何もかもが鮮色に彩られ、教室全体が吐き気を催すような異臭を放っている。

 それに加えてこの死体の山だ。

 ついさっきまで人だったモノが至る所に転がり落ちており、そのすべてに穴が開いている。中には臓器や脳の一部が出血と共に零れて外界に晒されているものもあって、それが汚らしさの主な要因となっていた。


 たった数分でこの有様である。まるで地獄を思わせるこの光景を果たして数分前には想像出来ただろうか。


「……ふざけるな」


 喉の奥から酸っぱいものを感じながら、少年は小さく呟いた。


「僕はこんなことしたくなかったのに」


 惨たらしい教室を見て絶望の淵に佇む少年。この世の終わりかのようなあまりにも異様な光景に悲しみを越えて涙すら出ず、代わりに頬を伝う返り血が悲壮感を増大させていた。


「なんでこんなことをさせたんだよ」


 少年の近くに斃れているのは、このクラスの級長だろうか。成績優秀で、明るい性格だったはずだが、どうにも顔は思い出せない。確認したいがうつ伏せで全身血でびっしょりの彼に触れるのは気が引ける。


 とはいえ彼の顔を思い出したところで、今更どうだというのか。

 話したことすらなく、本当の意味でこれから会うことのない人を改めて知る必要などない。何らかのきっかけで会話を交わし、いつかは無二の親友と呼べる日が来たのかもしれなくとも、そのいつかはもう来ない。

 

 少年にはもう関係のないことだ。




「良い加減にしろよ。お前が殺したんだろうが」


























「お前が僕をこうさせたんじゃないか!」


 冷たい教室に怒鳴り声が反響する。少年の足は酷く震えていて——。




「良い加減にしろって言ってるだろ!」



























「お前だよ、お前。今これを見てるそこのお前だよ! こんなことをさせといて傍観者気取りか? 随分楽しそうだな」














「なぁ、なんで僕に殺させたんだよ。僕が何したっていうんだよ。僕はこんなこと望んでないっていうのに」














「お前が僕を知らなければ、こいつらは死なずにすんだのに。途中で止める機会は何度もあったのに。なんでここまで居続けてんだよ」















「……答えてもくれないんだな。もういいよ。満足だろ? 僕で遊んで楽しかったろ?」














「僕をもう見ないでくれ。ここからお前が離れてくれたら、このまま終わるんだ。もう手遅れだけどさ」




















「僕を見ないでくれ。これで終わりなんだから」













































「見ないでくれ」



















































「見ないで」



























































































「見るなって言ってるのが分からないのか、この人殺しめ!」






















「……あんた何言ってんだよ」




 聞こえるはずない声がした。


 はっと少年はその方向を見てみると、死体が覆いかぶさった机の下から立ち上がろうとしている少女がこちらを睨んでいた。


 どうやらあの状況で逃げずに隠れ切っていたらしい。教室内を歩き回る少年の目から逃れることは容易ではなかっただろう。


「誰に言ってんだよ」


 少女の声は震えていた。


 当然だ。友人やクラスメイトが目の前の男に次々と殺されていく様を間近で見ていたのだから。


 少女は制服も顔も髪も血塗れだった。生まれて初めて嗅ぐ臭いで吐き気に襲われており、さらには断末魔の数々や人の体に穴が空いた瞬間が脳に焼き付いて離れず、立っているのがやっとという状態。精神的にボロボロで、心が壊れる寸前である。


 それでも少女は少年の前に立った。否、立たずにはいられなかった。


「何が僕に殺させただよ。何がこいつらは死なずにすんだだよ。全部あんたがやったんだろうが。自分の意思で!」


「――」


「お前って誰だよ。ここにあんたと私以外に誰かいるとでも思ってんの? んな訳ないじゃん!」


「――違う」


「違う? どこが? あんたがこれをやったんでしょ。居もしない奴に擦り付けんじゃねーよ」


 一言話す度に心臓の鼓動が速くなる。いつその手にあるモノをこちらに向けてきてもおかしくはない。狂人が次に何をするのか、少女は無意識にその動きのひとつひとつを決して見逃すまいとしていた。

 たとえ相手の動きを察知出来たとしてもどうしようもないのだが。


「あんたが……ユミ達を殺したんだ。私の親友を!」


「――ッ! ち、違う! 僕じゃない! 僕がやったんじゃない!」


 命の危機に瀕しているというのに、少女の心は落ち着いていた。それは立ち上がった時から既に死を覚悟していたからかもしれないし、少年の雰囲気ががらっと変わったからかもしれない。

 それでもこれ以上余計な事を言ってしまえばどうなるかは分からない。覚悟はしていても、死にたくはない。


「いいや、あんたがやった。あんたのせいだ。見りゃ分かるだろ。なんで違うって言い張れるんだよ」


 ただ、最後にこれだけは言っておきたかった。


「……逃げんじゃねーよ、イカレ野郎」




「――は?」


 ―—僕が、逃げてる? 何から?


「ぼ、僕は」


 ―—僕がこれをやったって、本気で思ってるのか? あんなに人を殺せると? そんなの出来る訳ないじゃないか!


「あっ、あっ」


 ―—言葉が出ない。上手く話せない。どうして? さっきまで普通に話せたのに。ちゃんと理解してもらえるまで説明しないといけないのに。僕がやったんじゃないって!




 逃げんじゃねーよ。


 ―—違う。僕は逃げてなんか……。


 逃げんじゃねーよ。


 ―—だから違うって……。


 逃げんじゃねーよ。


 ―—僕じゃ……


 逃げんじゃねーよ。


 逃げんじゃねーよ。


 逃げんじゃねーよ。


 逃げんじゃねーよ。

























































 突然少年はソレを自身の体に向けた。


 ―—え?




 震える手でソレを自分に近づけていき——。


 ―—体が勝手に動く。またお前が……! い、嫌だ。死にたくない!




 そしてぴったりと体にくっつけて——。


 ―—やめろやめろやめろ! 僕はそんなこと望んでなんかない! 僕はただ憧れてただけ……。















































































































 ——あぁ、そうか。僕の居場所なんて何処にもなかったんだ。



 バン。


 大きな音と共に少年の体に穴が開いて、真っ赤な液体が教室の一角を汚した。


 崩れゆく少年の目には自身の過去が映し出されたが、それも一瞬の事。その瞳から段々と光が失われていった。


「……泣きたいのはこっちなんだよ」


 死体だらけの真っ赤な教室の中でたったひとりになった少女は、斃れた少年の顔を見て上擦った声でそう吐き捨てると、糸が切れたように血溜まりの中に倒れ伏した。

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