夏の日差しと、“雨のにおい”の彼女

あさのころも

“夢”

思い出すのは、日差しを受けて、まぶしいほどに輝く水面。

反射した光がキラキラと駆けてゆく。

あれは、いつの記憶だろうか―――――





「どうかしましたか?」

窓の外に視線を向けた俺に、取引先の相手は不思議そうに尋ねた。


「いえ、雨があがったなと思いまして」

「11時には止むでしたからね」


いつしか雨は規則的になった。

降る時間も、一粒一粒の大きさも、方向も。


「……雨がなにか?」

「あ、失礼いたしました―――」





2020年夏―――

世界的に拡大した感染病の副産物として、ワクチンをはじめとする様々な研究が進んだ。

そのなかで最も人間の生活を大きく変えることとなったのは、“夢”の研究だった。


当時、感染病の影響で家の中にこもって人に会わずに過ごす生活が続き、運動不足やストレスによる健康の悪化が懸念された。

そこで、当時既に発表されていた[夢のなかの行動によって神経や筋力を向上することができる]という研究結果を応用し、脳波に働きかけ、見たい夢がみれる機器が開発されたのだ。



その開発を起点に10年経って、人間の生活は様変わりした。


その機器の発展により、教育や仕事も“夢”のなかで行えるようになった。

人間の生活圏は、その“夢”のなかとなった。一日2回、昼と夜にログアウトする時間が決められており、そこで食事や体を休めるための睡眠等の生きていくうえで必要な行動をする。


生活圏となった“夢”は、“夢”というよりはもはや“仮想空間”といったほうがいいかもしれない。




“夢”にログインする場所は決まっていて、ログアウトはどこにいても時間になったら強制的に行われる。



仕事が終わって時計をみると、昼のログアウトまで少し時間があった。

俺は近くの大きな木のある公園のベンチに腰掛けて、読みかけの本を開いた。いつもの習慣だ。


「もちもの」と唱えると、持ち物の一覧が開く。表示された持ち物のなかから読みたい本を選ぶ。どんなに長編の本を何冊持ち歩いても重たくないというのは、この世界のいいところかもしれない。



でも、この世界では、風が緑を揺らすざわめきも、春の花の香りも、どこか偽物くさい。

本の活字だけが生々しい気がした。



『雨が降り始める。太陽と人に熱しられたアスファルトから雨のにおいが立ち込める―――』


雨のにおい……って、どんな感じだっけ―――なんとなくもわっとしたような、ぬるくて甘いような……そうこんな……


―――え?


思い出しているとぽつっと雨粒が落ちてきた。

この世界では雨が降る時間も管理されている。でも、この時間に雨が降るはない。


―――バグかな……?

俺は驚きながらも、本を閉じ、ベンチから大きな木の下へ移動した。雨宿りはちゃんとできそうだ。


いつしか大粒になった雨は降りやむ気配がない。

ここでログアウトを迎えることになりそうだ。


ため息をついたとき、走ってくる女性の姿が見えた。

その女性はこの公園に気づくと、走る速度をあげて俺のいる木の下まで来た。

はぁはぁと息を切らして、服についた雨粒をはらっている。


ひとしきり払い終わったところで、俺の存在に気付いたようだった。

「……先客がいらっしゃったんですね」

小さい声だが俺をみて言っている。

「はい。でも、気にしないでください」


パンツスーツを身にまとった小柄な女性だった。

きれいに切り揃えられたボブの髪が、ぺったりと濡れている。


「まさか降ってくると思わなくて」

「予定にはなかったですからね」

「そうですよ」

その女性はくりっとした目を細くして、微笑んだ。予定外の事態を誰かと共有できたことで安堵したのだろう。


「私、就活中で……。面接もうまくいかんかったし、なぜか雨も降ってくるしで……」

「それは、災難でしたね」

「でも、良かったです。雨宿りできて」


そういって彼女は上を向いた。


俺も上をみた。重なり合う葉に落ちる雨の音がする。

なんだかいつもより妙にリアルに感じる。


「私の家の近くにある神社に、すごくすごく大きな木があるんです。小さい頃にそこで雨宿りしたのを思い出すなぁ」

「この世界では突然の雨がないから、雨宿りもしなくなりましたよね」

「ええ、でも……なんかこの雨は、すごく自然に感じて」


俺はびっくりして彼女の方を見た。

彼女は相変わらず上を見ていて、その横顔だけが見える。


「……おなじことを思っていました」


「え!そうなんですか!」


「はい…………降り始めたとき、雨のにおいがしたんです」


彼女の反応につられて、思ったことを言葉にしてみたら、なんだか電波系っぽくて恥ずかしくなった。


彼女は返答もせず、僕の横顔を見ている。


「いや、なんとなくってだけで……多分、びっくりしとったというか……」


「いえ」

彼女はそのまま俺の横顔を見ていた。

俺も彼女に視線を合わせた。


「……私も、雨のにおい、感じました」


恥ずかしげもなく、まっすぐと俺の目をみて言った彼女の瞳は、とても澄んでいて生々しかった。



――――――ぷつり



そして、ログアウトされた。

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