第七章(3)以洋、今回の件の結末を悟る

 もう一度以洋イーヤンの頭を撫でた後、君遠ヂュンユエン仲瑋ヂョンウェイと一緒に帰っていった。

 病室に一人残された以洋イーヤンは、ベッドの上で携帯電話に手を伸ばす。

 幾度も手に取り、それでもその度に結局掛ける勇気が出せないまま、また手から離してしまった。

 懷天フアイティエンは怒っているのだろうか。それとも、単に見舞いに来る時間がまだ取れないだけか。

 そのどちらなのかがわからないまま、悶々とベッドに横たわる。何遍寝返りを打っても眠ることができない以洋イーヤンが、他にできることもないまま自分の愚かさに思いを馳せていた時、病室のドアを誰かがノックした。

「どうぞ」

 懷天フアイティエンかな?

 そう期待しながらベッドの上に起き上がる。

 ドアを開けて入ってきたのは、なんと東晴ドンチンの母親だった。

東晴ドンチンのお母さん? なんでここに?」

 思わずベッドから下りようとしてしまい、慌てて彼女に止められる。

「起きちゃダメよ、起きちゃ」

 にこやかな笑みを浮かべてそう言いながら果物の籠をサイドテーブルに乗せた東晴ドンチンの母親は、傍の椅子に座った後、真剣な眼差しで以洋イーヤンを見つめた。

「お礼を言いに来たの。ありがとう、東晴ドンチンのためにあんなにも動いてくれて。あなたが無事だったからよかったものの、そうでなかったらあなたのご両親に私いったい何て伝えたら……」

 言いながら泣き出してしまった彼女に、急いで以洋イーヤンは慰めの言葉を掛ける。

「泣かないでください。僕はほんとは何もできちゃいないんです。東晴ドンチンの助けになるようなことは何も」

 溜め息を漏らさずにいられない。槐愔フアイインがあんな風に言ったことの意味は、今はもう以洋イーヤンにもわかっている。東晴ドンチンは選ばなかったのだろう。輪廻の輪に戻ることを。

 涙を拭った東晴ドンチンの母親が、笑みを浮かべて言葉を続けた。

「警察が今日、賀昱霖ホー・ユイリンを逮捕したの。彼の研究室で経理を担当していたもう一人の助手さんが、公金横領の犯人は彼だって証言したんですって。賀昱霖ホー・ユイリン自身ももう警察に自白して、東晴ドンチンの容疑は晴れたの。他にもたくさんの学生さんが、賀昱霖ホー・ユイリンがあなたを建物から突き落としたって証言しているし。もう一人の助手さんが今日の昼間、東晴ドンチンにお線香を上げに来てくれたの。それで彼女と話して、ようやくわかったのよ、あなたが東晴ドンチンのためにこんなにも色々してくれていたんだって」

 東晴ドンチンの母親が以洋イーヤンの手を握る。

「ありがとう。本当にありがとう」

 そう繰り返す彼女の顔にはまた堰を切ったように涙が流れていた。

東晴ドンチンのお母さん……、お礼なんていいんです。東晴ドンチンの潔白が証明できたなら、もうそれで……」

 以洋イーヤンの目も真っ赤になっている。どう話したらいいのかわからなかった。東晴ドンチンの容疑を晴らしたのは東晴ドンチン自身だと、自分のしたことはせいぜい東晴ドンチンにこの身体を貸してやったくらいだと、いったいどう彼女に伝えればいい?

「こんなことになったのは全部私のせいだったのね。私が東晴ドンチン賀昱霖ホー・ユイリンに近付けさせさえしなければ。私があの子を、ケダモノの口に向かって突き飛ばしたのよ」

東晴ドンチンはそんな風に思ってないと思います。お母さんにも、そんな風に感じてほしくないって思っているはずです」

 悲しみのあまり自分で自分を許せなくなっている東晴ドンチンの母親を前に、以洋イーヤンも涙をこらえきれなかった。

「お母さんは、ご存知だったんですか……? 東晴ドンチンが、賀昱霖ホー・ユイリンを愛してたってこと」

 悲痛な面持ちで東晴ドンチンの母親が頷く。

 涙を流し続けている彼女の手を、強く以洋イーヤンは握り締めた。

「僕は……東晴ドンチンは単に、恋人を選び間違えただけだと思うんです。今回のことが起きる前は、東晴ドンチンは楽しく生きていたし、賀昱霖ホー・ユイリンだって確かに、東晴ドンチンが勉強していい学校に進学するのをサポートしていた。東晴ドンチンには友達だってたくさんいた。東晴ドンチンは家族も友達も恋人のこともみんな愛していたし、勉強だって好きだった。間違っていたのは、賀昱霖ホー・ユイリンみたいな人間を恋人に選んでしまったことと、人生の終わらせ方だけです。そしてそれはどちらも東晴ドンチンが犯した間違いであって、お母さんの間違いじゃない。だから、お願いだからその間違いだけで、これまで東晴ドンチンが過ごしてきた楽しかった人生を否定しないであげてください。東晴ドンチンが苦痛だけの人生を歩んだんだって、そう思うのはやめてあげてください」

 以洋イーヤンの童顔を見ながら、東晴ドンチンの母親が不思議な気持ちになっていることに以洋イーヤンは気付いていなかった。その子供っぽい顔立ちよりもこの子はずっと大人なのだと、彼女が感じている事にも。

「ありがとう……、本当にありがとう……」

 また感謝の言葉を繰り返し始めた彼女に、以洋イーヤンは力を込めて首を横に振ってみせる。そして、ふと顔を上げると、病室の入口にいつの間にか立っていた懷天フアイティエンの姿が目に飛び込んできた。

 以洋イーヤンを見つめている懷天フアイティエンの顔は、少し怒っているように見える。

 それを見た瞬間にまた胸が痛くなり、張り詰めた糸が切れたかのように以洋イーヤンの目からは涙が溢れ始めた。

「あ、泣かないで」

 慌てた声を出しながら東晴ドンチンの母が涙をティッシュで拭ってくれる。

 そんな以洋イーヤンに溜め息を吐いて、懷天フアイティエンが病室に入ってきた。そっと東晴ドンチンの母親の肩を叩く。

リーさん」

「あら、どうも」

 驚いたように彼女が立ち上がる。

リーさんも少し休まれた方がいいと思いますよ」

 遠回しに帰宅を促す懷天フアイティエンの言葉に従った東晴ドンチンの母親は、それでも繰り返し以洋イーヤンに感謝を告げた後、ようやく病室を後にした。

 ドアを閉めた懷天フアイティエンが、ベッドの傍に近付いてきて椅子に腰を下ろす。

 懷天フアイティエンの顔を見る勇気が出せず、以洋イーヤンは顔を伏せた。下を向いていても懷天フアイティエンの視線が感じられる。やがて手が伸びてきて顔を上げさせられてしまった。正面から懷天フアイティエンを見つめさせられ、涙が止まらない。

「君が言ってた危険なことってのは、賀昱霖ホー・ユイリンに直談判しに行くってこと? それとも、賀昱霖ホー・ユイリンが君を突き落とすはずだとわかってた?」

 溜め息混じりにそう訊ねる懷天フアイティエンの声は穏やかで、もうあまり怒ってはいないようだった。それに、やはり懷天フアイティエンに嘘をつくのも嫌で、以洋イーヤンは正直に答えることにする。

「違う。僕が自分で飛び下りるってこと」

 懷天フアイティエンの眉が顰められる。その口が開かれる前に、以洋イーヤンは急いで言葉を続けた。

「あの時、賀昱霖ホー・ユイリンに会いに行ったのは僕じゃなくて東晴ドンチンなんだ。東晴ドンチンと約束したんだよ。もし僕が先輩の家のベランダから飛び下りたら、東晴ドンチンも僕から離れるって。けど、東晴ドンチンが僕の身体を使って賀昱霖ホー・ユイリンに会いに行くつもりだって言うのはわからなかった。僕は単に東晴ドンチン聚魂盒じゅこんばこから出て転生してほしかっただけで……」

 言いながらまた嗚咽が込み上げてくる。

「僕は馬鹿だよ。僕は東晴ドンチンを助けたりなんてできてない。僕のせいで東晴ドンチンを悪霊紛いの存在にしちゃった」

 以洋イーヤンを見ている懷天フアイティエンの顔に浮かんでいるのは、怒りたいが何を怒ったらいいのかわからない、そんな表情だ。以洋イーヤンを怒るべき理由は幾つもあるが、結果的には以洋イーヤンがかすり傷しか負っていないからだろう。

 じっと以洋イーヤンを見つめていた懷天フアイティエンが、やがて諦めたように腕を伸ばし、以洋イーヤンを抱き寄せた。

「泣くんじゃないよ……。少なくとも君は李東晴リー・ドンチンの母親のことは助けたんだから」

 懷天フアイティエンの胸に以洋イーヤンは顔を埋める。

 思い切り泣きじゃくる以洋イーヤンの背を、懷天フアイティエン以洋イーヤンが泣き止むまで無言でそっと叩いてくれていた。

 随分時間が経ってからやっと、泣き疲れた以洋イーヤンの涙が止まる。おずおずと以洋イーヤンは腕を動かし、自分から懷天フアイティエンを抱き締めた。

「ごめんなさい。僕、馬鹿なことをした……」

 懷天フアイティエンが長い溜め息を吐く。以洋イーヤンを胸元から引き剥がし、真剣な眼差しで見つめてきた。

「君は本当に、自分は大丈夫だっていう自信があって、ビルから飛び下りたの?」

 力強く以洋イーヤンは頷き、顔を上げて正面から懷天フアイティエンを見た。

「うん。もっと考慮すべき点はあったかもしれないけど、無事に済むっていうのは本当に信じていたから飛んだんだ。実際に僕は無事だったし、怪我もほとんどないよ」

 まだ涙に濡れている以洋イーヤンの頬に懷天フアイティエンが触れてくる。

「君の生きている世界がますます理解できなくなってくるな」

 やるせなげにそう口にした懷天フアイティエンの手を以洋イーヤンは捉えた。

「たとえ銃で撃たれても僕は大丈夫だよ」

 真剣に告げた以洋イーヤン懷天フアイティエンが苦笑する。

「神懸かってるね」

「うん。だからもしいつか、僕達がデートしてる時にあなたが狙撃されても、僕が楯になれるからね」

 言いながらまた涙を零し始めた以洋イーヤンを、いったいこの子をどうすればいいんだろうねという顔で頭を振りながら、それでも懷天フアイティエンは抱き締めてくれた。

「うちに帰りたい」

 以洋イーヤン懷天フアイティエンの身体に腕を回す。

「あのDVD、ラストまで見たいよ……」

 まだ鼻をぐすぐす言わせながら以洋イーヤンが訴えると、こらえきれなくなったように懷天フアイティエンが笑い始めた。

「わかった。退院手続きをしてくるから、その間に泣き止んでおいて」

「うん」

 大きく頷いた以洋イーヤンは、病室から出ていく懷天フアイティエンの背を見送りながら、今の自分を本当に幸せだと感じた。

 生きていることをこんなにも幸運だと思ったことも、生きていることが今この瞬間ほど幸せに感じられたことも、これまでない。

 だからこそ、涙がまた流れる。

 どれだけ固く目蓋を閉じても、後から後から涙は溢れた。この幸せを味わう機会を永遠に失った東晴ドンチンのために、以洋イーヤンが今できることはもうそれしかなかった。

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