第七章(1)『以洋』、台湾大学に向かう
アスファルトの地面の上に起き上がった時、予想していたような痛みは一切感じられなかった。手足に目を走らせてみても、どこももげたりはしていないし折れてもいない。
なのにこのガキ、指の一本も折れてないってのかよ。
軽い疼痛を感じている頭に手を這わせてみると、指先に鮮血がつく。じわじわと溢れ出ている血はまだ止まっていなかったが、それだって薄皮一枚破れた程度だろうと
脳震盪を起こした様子もなく、頭がくらくらしたりもしない。足にちょっと擦り傷があるのと、地面に横たわったせいで服が汚れているだけだ。
苦笑しながら立ち上がり、前に歩き始める。急がないとあの『先輩』が下りてくるはずだ。そうなったら逃げ出せそうにない。
このガキ、ほんとに馬鹿だよ……。道理であんなに大勢が、こいつが何か馬鹿をやらかして自分で自分の身を傷つけるんじゃないかって、戦々恐々で見守ってるわけだ。
自分がビルの屋上から飛び下りたあの時のことを、
その後は、意識が戻った時にはもうこのガキの身体の中にいたんだよな。
最初は、
俺はこんなに苦しい思いをしたのに、なんでこのガキはこんなに幸せそうなんだよ!
自分がしているのが単なる八つ当たりに過ぎないのは、
自分は既に死んでしまっている。何もかも失ってしまっている。それなのにいまさら何を遠慮する必要がある? いい人ぶる必要がどこにある?
頭部の傷から滴ってくる血を、
自嘲の笑みが
だって自分はもう死んでいるのだ。
完全に死んでしまっていて、もう取り返しがつかない。
このガキの彼氏が言ってた通りだよ。
そう、これは全部、
だからもうこれ以上は何も言えない。
無意識のうちに涙が流れ出しているのに気付き、
生きている。そのことがこんなに素晴らしいなどと、
止め処なく涙が溢れてくる。悲しくてたまらない。
死んだ後でもこんな悲しみがあると知っていたら、絶対に死ななかった。生きていればもしかしたらやり直す機会があったかもしれない。でも、もうそんな機会も一つも残されていない。
校門前でタクシーを降り、キャンパスに足を踏み入れる。向かう先は研究室だ。まだ明かりが点いていたので、
三階までの階段をゆっくりと
軽くノックをすると、その音で
「君かい? なんでまた……そんなにぼろぼろになっているんだね?」
にっこりと『
「この間はごめんね」
「ああ……、いや、かまわないよ。しかし、君、どうして私がここにいるとわかったんだ?」
そう言って立ち上がった
それはそうだろう。この身体は
逃げ帰った後もしばらくは戦々恐々として過ごす
よもや『
「台湾大学の人だってあの時聞いたからさ。しかも教授でしょ? ちょっと調べたらすぐに出てきたよ。実はボク今、少しトラブルを抱えてて、それであなたなら助けてくれるんじゃないかと思ってさ」
甘い笑みを『
「もちろんだとも」
ドアを潜り、外廊下まで出て、手すり際で
「それで私に何をしてほしいのかな?」
研究室から出てきた
「認めてほしいんだよね。俺の論文をあんたが盗んだってことと、研究費を横領した件を俺に押し付けたってこと」
「君はいったい何を言ってるんだ?」
「あんたって昔からそんなだよな」
「スケベなくせして臆病でさ、責任を取る勇気もないタマなし野郎。俺が毎回毎回あんたに俺の論文を好きにさせてやってたのは、俺があんたに惚れてたからだよ。別に俺が馬鹿だったからってわけじゃない」
「君はいったい誰なんだ! 変な冗談はやめたまえ。私は他人の論文を盗んだことなどない。でたらめを言うな!」
「俺は
こちらを睨みつけている
「俺が十五の時、あんたは俺を騙くらかしてベッドに引っ張り込んだよな。俺が十七の時には、俺の傍から離れないよとかなんとか言ったっけ。十八歳の時には俺に指輪を送ってくれた。夜市で買ったみたいな安物だったけど、俺は馬鹿みたいに喜んだっけ。あんたのプレゼントが高価なものになったのは、俺の論文をあんたが盗作するようになってからだった。八千七百元のセイコーの腕時計、六千八百元のジーンズ。あんた俺がジーンズ穿こうとするといつも、貧乏くさいって嫌がってたのにさ……」
「やめろ!」
「俺が怖いの?」
今や
「
「そうだよ、俺は死んだんだ。それもあんたに殺されてね」
追い詰めるように
「近寄るな! そんな話、
ぎらついた目で
「俺が
「私を脅せると思うなと言っただろう!」
「そうか? 俺が十五歳の時、年越しに行った陽明山でカーセックスしたのはもう忘れたか? 十六歳の時のバレンタインに、宜蘭の温泉で俺に無理矢理何をやらせたかは? 十七歳の時に俺たちが……」
「それ以上言うな!」
飛び掛かってきた
「お前の言うことなど一言たりとも信じない!
「俺がこんなにあんたのことを愛してるのに、あんたはこれまで俺のことなんか一度としてそんな風に意識しなかったんだろ」
「ビルから飛び下りる感覚がどんなものだか、あんた知ってるか? 十数階から地面に叩き付けられるのがどんな感覚かは? 俺みたいな死に方する度胸があんたにあるか? 無理だよな! あんたにそもそもそんな度胸ないもんな! 俺なしじゃ論文なんて一文字も書けやしなかったくせに!」
「黙れ!」
怒りに任せて
驚愕と混乱の中、
慌てて『
階下の芝生でキャンプ中だった学生たちの喉から驚愕の叫びが迸った。彼等は目撃してしまったのだ。
落とされた誰かは茂みに叩き付けられ、その中に落ちていった。パニック状態の学生たちが口々に叫びながら電話を掛ける。救急車を呼ぶ者、警察に通報する者。そして何人かは落ちてきた人物のところへ慌てて駆けつけた。
頭からは出血し、身に着けている服もぼろぼろに破けている。急いでその被害者を助け起こし、茂みの中から連れ出そうとした時、
「これは、私のせいじゃない……、彼が……、彼が悪いんだ。私じゃない。私は悪くない!」
そう叫ぶや否や
朦朧とした意識の中、
……
そして、何も言わないまま後ろを向くと立ち去っていく。
……どうか君の新しい人生に向かっていって……。そして……、もう二度とあんなろくでなしとは出会わないで……。
これ以上ないような疲労を感じて
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