第六章(1)以洋、幽霊の実家を再訪する

 以洋イーヤン李東晴リー・ドンチンの家の前に立ち、しばらく様子を窺った。今朝来た時からはもう数時間経っているので、賀昱霖ホー・ユイリンももういなくなっているはずだ。

 開かれたままの玄関に、用心深く近付く。棺が安置されている部屋の外には、招魂用の簡素な祭壇がまだそのまま置かれていた。ずっと呼び掛け続けているのに東晴ドンチンの魂が戻ってこないままなことも、東晴ドンチンの母親の悲しみを更に深くしているはずだ。

 鍵の掛かっていない金属の格子ドアを、軽くノックしてから以洋イーヤンは押し開けた。祭壇の傍に座って何かの書類に記入中だった東晴ドンチンの母親が顔を上げる。以洋イーヤンを見て笑顔になった彼女が、立ち上がって以洋イーヤンを手招きした。

「どうぞ入って。東晴ドンチンにお線香を上げに来てくれたの?」

「ええ、はい」

 頷いて以洋イーヤンは祭壇の前に進んだ。焼香しながらなんとも奇妙な気分になる。……東晴ドンチンの魂は今も以洋イーヤンに取り憑いているのだ。その状態の以洋イーヤン東晴ドンチンの棺に向かって焼香しているというのは……。

「お母さんは、お身体の方は大丈夫ですか?」

 蒼白な顔で目を泣き腫らしている東晴ドンチンの母親を見ていると、気の毒でいても立ってもいられないような気分になってくる。

「おかげさまで。大丈夫よ、心配しないで」

 そう答えた彼女が、躊躇うそぶりを見せた後にまた口を開いた。

「あのう、あなたは東晴ドンチンのお友達?」

「後輩なんです。東晴ドンチン先輩にはお世話になっていて」

 答えながら、以洋イーヤンはまた泣き出しそうになる。東晴ドンチンの母親の前にいるだけで、とてつもない悲しみが込み上げてくるのが感じられた。

東晴ドンチンの後輩さんだったのね」

 以洋イーヤンを見る彼女の眼の中に、嬉しそうな色が仄かに浮かぶ。

「じゃあ、あなたが今朝言った、ホー教授に気をつけろって言うのは?」

「それは……」

 しばらくして今度はそう訊ねられ、どう説明しようかと目を彷徨わせた時に、以洋イーヤンはそれに気付いた。机の上に置かれている書類。東晴ドンチンの母親が必要事項を記入中だったその紙は、個人向け融資の申込書だ。

 しかも、上に書かれた金額は、賀昱霖ホー・ユイリンが使い込んだのと同額だ。

東晴ドンチンのお母さん、この借金って、あのなくなった研究費を返済しようとしてるんじゃないですよね?」

 信じられない気持ちで以洋イーヤンは彼女を見つめた。

 呆気に取られた表情になった東晴ドンチンの母親が、慌てたようにその書類を片付け、どこか気まずげな笑みを浮かべる。

「そうよ。そのお金を持ち出したのが東晴ドンチンだと判定が出た以上、あの子の代わりにどうあっても私がそのお金は返さないと。私もホー教授に借りを作りたくはないし」

東晴ドンチンはそんなお金を持ち出してなんていません!」

 怒りのあまり、思わず以洋イーヤンは叫んだ。

 その言葉を耳にした東晴ドンチンの母親の眼から、また涙が溢れ出す。ぎょっとして以洋イーヤンは声をひそめながら彼女に謝った。

「あの、東晴ドンチンのお母さん。すみません、大きな声を出すつもりはなくて」

「ありがとう……、ありがとう、東晴ドンチンのことを信じてくれて……」

 東晴ドンチンの母親が咽び泣きながら以洋イーヤンの肩に取り縋る。

「私も信じているの。あの子がお金を盗ったりなんてするわけないって……」

 涙を拭い、彼女が言葉を続けた。

「でもこのお金のせいでホー教授に私たちが借りを作ったと、誰かに思われるのも嫌なのよ。私がこのお金を返すのは、あの子がお金を盗ったって信じているからじゃない。私はホー教授に借りを作りたくないの」

「その考えは理解できます。でも……お願いだからそんなことしないでください。僕が方法を考えます。東晴ドンチンはお金を盗ったりしていないんだから、そのお金を返す必要だってないんです。東晴ドンチンが、あんな道を選んだのだって、あなたや弟さんにそんな借金を残したりするためじゃないはずだ。だからお願いです。そんなことしないでください」

 真剣に言い募る以洋イーヤンに、涙ぐみながら東晴ドンチンの母親が頷く。どうにか納得してくれたらしく、賀昱霖ホー・ユイリンへの返金についてそれ以上は口にしようとしなくなった彼女に別れを告げ、以洋イーヤンは急いで大学へ向かった。

 こんなことは到底認められないし、自分のした悪事を人に押し付けるような奴の存在も認めたくはない。おまけに自分の行動を悔いるどころか、のこのこ出てきて人から感謝されようとするなんて。

 東晴ドンチンがお金を盗ったのでないと私も信じたいと思っている、だなんて、いったいどの面を下げて口にしたのか。東晴ドンチンを正しい道に導いてあげられなかった、だって?

 大学へ向かって移動しながら、ますます腹が立ってくる。

 キャンパスに入った以洋イーヤンは、前回来た時に調べた記憶に照らし合わせて、賀昱霖ホー・ユイリンの研究室に辿り着いた。しかし、そのタイミングで賀昱霖ホー・ユイリンが研究室に入っていく姿を見掛けてしまう。

 こうなると以洋イーヤンにできるのは、賀昱霖ホー・ユイリンが出ていくまで待つことだけだ。研究室への出入りが見張れる向かいの教室で以洋イーヤンはひたすらに待ち続けた。

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