第五章(2)以洋、幽霊に同情する

 充分にその場を遠ざかるまで走り続けた後、ようやく以洋イーヤンは足を停めて荒い息を吐いた。

 走ったからというだけでなく、李東晴リー・ドンチンの悲しみのせいで、息が詰まりそうになっている。その場に佇んでいるうちに呼吸は平常に戻ったが、胸元にわだかまったような李東晴リー・ドンチンの感じている欝々とした気持ちはまだ消えていなかった。

 少し考え、以洋イーヤンは一枚のメモを取り出す。昨日、懷天フアイティエンが渡してくれたものだ。書いてあるのは、警察学校で講習中の懷天フアイティエンと連絡が取れる空き時間。

 時計を確認すると、今はちょうど電話を掛けてもいい時間に当たっている……――――。

『もしもし……』

 携帯電話の向こうから懷天フアイティエンの声が聞こえてきた瞬間、以洋イーヤンはまた我慢できずに泣き出してしまった。

『どうしたの? 今、どこだい?』

 懷天フアイティエンの穏やかな声に心を鎮められながら辺りの景色を見回して、気付く。どうやら……よく知らない道に入ってしまったらしい。李東晴リー・ドンチンの家から遠ざかるのに必死で、道を意識していなかった。

「ええと、どこだろ……、よくわからない……」

 電話の向こうで懷天フアイティエンが笑っている気配がする。

『ちゃんと見張っててくれる相手のところに行くようにって、言っただろ? なのに李東晴リー・ドンチンに知らない場所に連れ出されたわけ?』

 それでも口調はお説教だ。また心配を掛けてしまったことにしょげながら、以洋イーヤンは口を開いた。

「違うよ……李東晴リー・ドンチンが出てきたわけじゃなくて、単にちょっと今、自分がどこにいるかわからなくなってるだけ……」

「まずは落ち着いて。傍の家に番地プレートが付いてるだろ? そこに書いてある通り名を確認してみて」

「ええっと……」

 建物の壁に目を走らせて番地プレートを探す。

 結局、通り名を伝えた後は懷天フアイティエンの命令通りに大人しくその場で待機して、懷天フアイティエンが迎えに来てくれるのを待つことになった。

 懷天フアイティエンが着くまでは、賀昱霖ホー・ユイリンとどう向き合うべきなのかを考えて過ごすことにする。

「なんであんな悪い人が存在するのかな……」

 少年時代から愛していた相手が自分を裏切った、それが李東晴リー・ドンチンにどれほどの衝撃を与えたのか、以洋イーヤンには到底想像できなかった。

 ……しかし、李東晴リー・ドンチン賀昱霖ホー・ユイリンに対する気持ちは、本当に愛だったのだろうか? 東晴ドンチンの少年時代に欠落していただろう父親からの愛と、本来は父に向かうはずだった東晴ドンチン自身の愛と。

 単に東晴ドンチンはその空隙を賀昱霖ホー・ユイリンに付け込まれ、それを愛だと錯覚しただけなのではないかという気がする。

 溜め息を吐いて以洋イーヤンは道端に座り込み、膝に額を押し当てた。

 その状態で何分過ぎたのか。車の音が聞こえて顔を上げると、やはりそれは懷天フアイティエンの車だった。




「こんなとこまで何しに来てたわけ?」

 ジーンズの尻についた砂を払って車に乗り込んできた以洋イーヤンの頭を、そう訊ねながら懷天フアイティエンは軽く小突いてやった。

「その、李東晴リー・ドンチンのお母さんに会いに……」

 俯きながらの以洋イーヤンの答えに、苦笑せずにいられない。大方そんなことだろうと想像はしていた。とにかく、陸以洋ルー・イーヤンというのはそういう人間なのだと、懷天フアイティエンも理解している。

 しかし……、以洋イーヤンの憂鬱そうな顔を見るに、あまり収穫は得られなかったようだ。

「彼のお母さんは、少しは立ち直ったようだった?」

「ううん……」

 そう答えた以洋イーヤンが、怒りをこらえかねたように顔を上げて懷天フアイティエンを振り向く。

「けど、あいつは、あの賀昱霖ホー・ユイリンて奴は、……率直に言ってケダモノだよ!」

 怒りに声を詰まらせながら以洋イーヤンが口にしたその罵倒に、危うく懷天フアイティエンは噴き出しそうになった。それでも必死に笑いを堪え、静かに以洋イーヤンの説明に耳を傾けることにする。

李東晴リー・ドンチンが十五歳で父親を失った時、あいつはその寂しさに付け込んで父親ぶってみせることで、東晴ドンチンを手に入れたんだ。その後、東晴ドンチンが大人になってくると、また他の男の子に手を出すようになって。東晴ドンチンだって、あいつの助手になんてならなかったら、前途は洋々だったんだよ? なのに、論文は全部あいつがパクって発表しちゃうし。おまけに、あいつ、研究費まで使い込んで、それがばれたらなんと東晴ドンチンに罪を押し付けたんだ。しかも、あいつ、面の皮が厚いにも程があるよ。東晴ドンチンのお母さんに、東晴ドンチンを正しい道に導けなかったのは自分の責任だみたいなことを、しゃあしゃあと。そして今度は、東晴ドンチンの弟にまで手を出そうとしてる……! なんで……、なんであんな人間がいるわけ?」

 真っ赤になって声を震わせている以洋イーヤンの頬を、懷天フアイティエンはそっと撫でてやった。

「そういう事情を聞くと、李東晴リー・ドンチンが気の毒にはなってくるよ。でも、李東晴リー・ドンチンの人生は、やっぱり李東晴リー・ドンチン自身が選んだものなんだ。違うかい?」

「違わないけど、でも……」

 泣き出しそうな顔で以洋イーヤン懷天フアイティエンを見る。

「でもそれは、東晴ドンチンがあいつに、あの悪党に出会っちゃったからで」

 やるせない思いで懷天フアイティエンは微笑んだ。

賀昱霖ホー・ユイリンは確かに悪人だ。それでも、それだって李東晴リー・ドンチンの選択なんだよ。たとえ幼い頃から傍にいたとしたって、李東晴リー・ドンチンはもう二十八歳になっていたんだ。人の善悪は充分に判断できる年齢だろう? 悪人だとはっきり理解していた上で、それでも離れようとしなかったなら、そして裏切られた結果、家族のことを考えずに死を選んだなら、それはやっぱり李東晴リー・ドンチン自身の選択なんだ。誰に強制されたわけでもなく」

「それでも……もし賀昱霖ホー・ユイリンなんかと会ってなければ……そんな道を行くことだってなかったはずなのに……」

 やりきれなさそうに以洋イーヤンが項垂れる。

「そうとも限らないよ。賀昱霖ホー・ユイリン李東晴リー・ドンチンを誑し込むのに使ったのは、彼が求めても得られなかった父性愛だ。だったらたとえ賀昱霖ホー・ユイリン李東晴リー・ドンチンに近付かなかったとしても、今度は父親がいない淋しさで道を踏み外したかもしれない。きつい言い方になるけど、李東晴リー・ドンチン自身の性格が原因だったとしたら、どんな道を進もうと行きつくところは同じだよ」

 溜め息交じりの懷天フアイティエンの言葉にも、以洋イーヤンは諦めようとしなかった。

「……賀昱霖ホー・ユイリンを逮捕することはできないの?」

「可能性はあるけれど、その場合も容疑は横領であって殺人じゃないよ。だから俺の担当じゃない。……けど、そんなに気になるなら、そっちの課の知り合いに訊いてみることはできるよ。ただし、俺が出ていって逮捕することはできない」

 手を伸ばし、懷天フアイティエンはそっと以洋イーヤンを抱き寄せる。

「なんで……、なんで東晴ドンチンはあんな奴に出会っちゃったのかな……。かわいそうだよ、東晴ドンチンのお母さんが……」

「君って子は……」

 また涙声になった以洋イーヤンを抱く腕に、懷天フアイティエンは力を込めた。

「なんで君はいつも他の人のために泣いてるんだろうね?」




「わかんないよ……、けど、なんか悲しくて……」

 今感じているこれはきっと東晴ドンチンの悲しみだと以洋イーヤンは思った。自分が悲しいわけじゃない。

 懷天フアイティエンの手が伸びてきて頬の涙を拭ってくれる。続けて懷天フアイティエンの顔が近付いてきた。

 キスされる。

 唇が重なってきて以洋イーヤンは目を閉じた。

 ここ数日、しょっちゅうキスをしたり抱き合ったりしている自分達は、もうまるで恋人同士みたいだ。好きだという言葉も懷天フアイティエンから告げられているし。ただ、まだ懷天フアイティエンに対して自分から好きだと言ったことはない……。

 たとえば昨日だって自分が口にしたのは、懷天フアイティエンが自分を好きになってくれたことへの感謝だ。懷天フアイティエンはそれでも喜んでくれたが……。

 なんで僕は懷天フアイティエンに、好きだって言えずにいるんだろう?

 以洋イーヤンは頭が混乱してくるのを感じた。懷天フアイティエンから離れたくない、そう思っているのは確かなのに、どうして自分は懷天フアイティエンに、自分も好きだと言えないのだろう?

『お前が幸せになんかなれるもんか!』

「っ……」

 殴られたような痛みが急に襲い掛かってきて、以洋イーヤンは思わず声を上げながら頭を押さえた。

「どうした?」

 驚いて飛び上がった懷天フアイティエンが、昨日の朝に自分が殴ったところを確認するように以洋イーヤンの顔を覗き込んでくる。

「だ、大丈夫……、急にちょっと頭痛が……」

 顔を顰めて以洋イーヤンは頭を摩った。李東晴リー・ドンチンが怒った時に感じるこの頭痛は、昨日の方がもっとひどかった気がする。それが弱まったということは……東晴ドンチンがもう聚魂盒じゅこんばこに吸収されつつあるということだろうか……。

「本当に大丈夫なの?」

「うん、平気」

 心配そうに頬に触れてくる懷天フアイティエンの手を握り返し、以洋イーヤンはまた懷天フアイティエンの胸に顔を埋めた。

『俺は出ていかないからな! 追いだせるなんて思うなよ!』

 僕は幸せになるさ! ……君のことなんて気にしない!

 かんしゃくを起こしたように暴れている李東晴リー・ドンチンに心の中でそう言い返し、懷天フアイティエンの鼓動を聞きながら頭痛に耐える。

『お前を幸せになんてさせるもんか! お前の身体も人生も俺が奪い取ってやる。お前が持ってるもの全部、俺のものにしてやるんだ!』

「それで、李東晴リー・ドンチンはいったいいつ君の中からいなくなるの?」

 以洋イーヤンを抱き締めながら、懷天フアイティエン以洋イーヤンの耳元に口を近付け、そう訊ねてきた。

「……たぶん、……もうじき」

 東晴ドンチンが吐き散らしている呪詛のような言葉は無視し、吐息のような声で以洋イーヤンもそうささやき返す。

『見てろよ! 俺はお前から離れてなんかやらない! 俺が地獄に落ちるなら、その時はお前も道連れだ!』

「まずはここから移動した方がいいんじゃない?」

 大きく息を吸ってから、以洋イーヤン懷天フアイティエンに笑顔を向けた。頷いた懷天フアイティエンが車をスタートさせる。

「食事に行こうか? 午後はまた講習に戻らないとならないんだ」

「うん、それでいいよ」

 車を走らせながらそう訊ねてきた懷天フアイティエンに笑い返した以洋イーヤンは、胸元の聚魂盒じゅこんばこにそっと指を添えた。

 もういいだろ……、落ち着けよ……、落ち着こう。

 幾度か深呼吸し、東晴ドンチンの感情につられるように昂りかけていた自分の感情と鼓動を平常に戻そうとする。これ以上、東晴に引きずり回されてやるつもりはない。

 東晴ドンチンのいるのが聚魂盒じゅこんばこの中な以上、主導権を握っているのは僕だ。

 以洋イーヤンは目を閉じた。東晴ドンチンが落ちつくまで、一回一回ゆっくりと深く息を吸い込んでは吐きだしてを続ける。

 頭痛が止んで以洋イーヤンの呼吸が普通のペースに戻るまで、懷天フアイティエンも何も言わずにいてくれた。以洋イーヤン東晴ドンチンをなだめようとしているのだということを理解しているかのように。

 あ、ほんとに効いたみたいだ。

 目を開けながら以洋イーヤンは確かめてみた。気分はだいぶ良くなっているし、頭ももう痛くはない。そして東晴ドンチンも静かになっている。

「もう大丈夫なの?」

 ハンドルを握っていない方の手で懷天フアイティエン以洋イーヤンの頭を撫でた。

「うん、もう治った」

 笑ってそう答え、以洋イーヤン懷天フアイティエンの手を握る。

 東晴ドンチンを自発的に聚魂盒じゅこんばこから出ていかせるために、これから何をするべきだろう。そして、どうするべきだろう。

 やり直す機会があるはずの誰かを、こんな風にして聚魂盒じゅこんばこに吸収させてしまうのは以洋イーヤンは真っ平だった。

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