第三章(2)以洋、葉家から行方不明になる

 春秋チュンチウはじっと以洋イーヤンを睨みつけたきり、約三十分が経過してもまだぴくりとも視線を逸らそうとしない。遂に以洋イーヤンが我慢しきれなくなって口を開いた。

「春、春秋チュンチウ……? 何か見えるの?」

「黙ってろ。何か見えたんなら、俺がお前をずっと睨んでる必要がどこにあるんだよ」

 不機嫌そうな答えが返ってくる。

 冬海ドンハイ以洋イーヤンの周りを三、四回歩き回ってみるが、どう見てもどこか問題があるようには見えない。春秋チュンチウとちらりと視線を交わし合う。この問題がどこから生じたものなのか、二人ともわからなかった。

「お前、本当に覚えてないんだな? 今日の午後に何をしてたのか」

 もう一度、冬海ドンハイ以洋イーヤンに訊ねてみる。

 この質問は実のところ、もう五回目だった。

 さすがに以洋イーヤンも口を尖らせ不満そうな顔になる。

「ほんとに覚えてないんだってば。その幽霊と話をしてみようと思ったんだけど、返事もしようとしないんだよ。それで独り言言ってるのもつまんなくなってきて、ソファの上で寝ちゃったんだ。それっきり七時まで寝ちゃうなんてわかるわけないだろ? で、懷天フアイティエンに揺り起こされてやっと目が覚めたんだ」

 辛抱強く五回目の説明を繰り返した以洋イーヤンが、しばらくして冬海ドンハイの顔を見た。

「あのさ……懷天フアイティエンは何か言ってた? 僕が何かしたとか」

「いいや」

 苦笑して冬海ドンハイはそう答える。あの先輩が、珍しくも延々と躊躇った挙句に結局何も言わず、以洋イーヤンが何かに取り憑かれたようだとだけ言ったのだ。

「ああめんどくさい」

 不意に春秋チュンチウが立ち上がる。

「この件が解決するまで、お前この家から一歩も出るな。そうすりゃ何か起きるのは避けられる」

「うん。……ごめんね。……また迷惑掛けちゃった」

 申し訳なさそうな声を出す以洋イーヤン春秋チュンチウは睨みつけた。

「迷惑だなんて誰が言った? 勝手な解釈すんじゃねえよ。そのDVDってのは持って帰ってきたんだろ? 出してみせろ」

「う、うんわかった。面白い映画なんだよ?」

 自分の部屋へ飛んでいった以洋イーヤンが、懷天フアイティエンが荷物に入れてくれたというそのDVDを持ってくる。

「ただ、なんでかわからないけど居眠りしちゃったんだよね、三回も……」

「三回も居眠りするような映画のどこが面白いんだ!」

 目を剝いた春秋チュンチウに乾いた笑い声を立てながら、DVDを以洋イーヤンがプレーヤーにセットした。

「映画のせいじゃないんだってば! たぶん僕が疲れすぎてたんだよ」

 そのままリビングのソファに三人並んで座っての映画鑑賞会が始まる。

 結果、三十分経たずに以洋イーヤンがまたもや眠り込んだ。

「こんなサスペンスな展開だってのに寝るのかよ? こいつ、アクション映画は大好きだとばかり思ってたんだがな」

 不可解な気分でそう言いながら、以洋イーヤンの頭を冬海ドンハイは撫でてやる。

「そんなに疲れてるのか?」

「やっぱり何か問題があるな。……こいつを守ってるあれのせいかも」

 近付いてきた春秋チュンチウ以洋イーヤンの手を握ってみて、眉間に皺を寄せた。

「駄目だ。やっぱり槐愔フアイインを呼ぼう」

 上掛けを持ってきて冬海ドンハイ以洋イーヤンの上に掛けてやる。

槐愔フアイインのところまで送っていくのか?」

「いや、槐愔フアイインを来させる。今、こいつにここを離れさせない方がいい」

 上掛けを整えてやりながら春秋チュンチウ冬海ドンハイに指示した。

「あいつに電話してくれ。あいつが来たがらなくても、とにかく来させるんだ。でなかったら小洋シァオ・ヤンは二度とあいつのとこに返さないぞ」

「わかったよ。もう遅いし、明日の朝に電話してみる」

 笑いながら春秋チュンチウの傍に腰を下ろして、DVDの一時停止ボタンを押す。

「先にこの映画、最後まで見るか?」

「うん、すげえ面白い」

 手を伸ばしてクッションを抱え込み、春秋チュンチウ冬海ドンハイと一緒にソファに埋もれて映画の続きを見始めた……――――。




 ――――……以洋イーヤンは一晩中眠り続け、翌朝になっても目を覚ます様子がない。

 だが、何らかの病気を発症したという風にも見えなかった。

「お前、もう電話したか?」

「掛けた。けど出ないんで、留守電に吹き込んどいた。槐愔フアイインの奴、まだ寝てるんじゃないか? 目が覚めたら折り返しで掛けてくるだろ」

 春秋チュンチウの問いにそう答えた冬海ドンハイが、春秋チュンチウ以洋イーヤンの部屋から連れ出す。

以洋イーヤンのことはこのまま寝かせておいて、お前は観雲してきたらどうだ? 俺も朝飯買いに行くし。何かあったら言いに行ってやるから」

「うん」

 頷いて、春秋チュンチウは観雲のため屋上に上がった。

 だが、その大体三十分後、冬海ドンハイが焦った顔で屋上に駆け上がってくる。

春秋チュンチウ小洋シァオ・ヤンは?」

「寝てるんじゃないのか?」

 呆気に取られて訊ね返した春秋チュンチウに、冬海ドンハイが苦い顔で首を横に振った。

「いなくなったんだ」

「ここから出るなって、昨日あれだけ言ったのに! いったい何やってんだ、あいつは!」

 まなじりを吊り上げ、春秋チュンチウは階段を駆け下りる。

 冬海ドンハイの顔にも訝しげな色が浮かんでいた。

 予想外の行動を以洋イーヤンがするのはいつものことだ。それでも自分達の言うことになら基本的にできる限り従おうとする、それが以洋イーヤンなのに。

「本当に……取り憑かれてるってことか。で、しかも、以洋イーヤンはその死者をコントロールできてない?」

「もしそいつが家から出ようとしたんなら、俺は察知したはずだ」

 春秋チュンチウは慌ただしく家中を探し回った。以洋イーヤンが本当にこの家にはいないのだと確認した後、今度は電話を引っ掴む。

 だが、呼び出し音が幾度か鳴った後、留守番電話に転送されてしまった。

「あのガキ、俺の電話に出ないだと!」

 通話を叩き切った春秋チュンチウは、もう一つ別な電話に掛けてみる。しかし状況はこちらも変わらない。

「あの馬鹿ども、いつまでヤってんだ!」

 怒り狂いながら、更にもう一つの番号を春秋チュンチウは打ち込んだ。今度は呼び出し音が三度鳴ったところで相手が出る。

「もしもし、春秋チュンチウだけど。あの馬鹿、今、そこにいる?」 

 電話を手にしたまま、春秋チュンチウはリビング内を行ったり来たりする。いっそ地団駄踏みたいような気分だ。

「まだ寝てる? かまわないから! 今すぐ俺の電話に出なかったら、今後一生あいつの電話に俺は出ないって言って起こして!」




 回線の向こう側、韓耀廷ハン・ヤオティンとしても、こんなに激怒した状態の春秋チュンチウの声を聞くのは初めてだった。幾分驚きながら春秋チュンチウをなだめようとする。

「わかったから、少し待って。すぐに起こすよ」

 左手に携帯電話を持ったまま、耀廷ヤオティンは胸に抱き寄せている槐愔フアイインの耳元に口を近づけた。

槐愔フアイイン、起きろよ」

「うう……なんだよ」

 耀廷ヤオティンの胸元により深く頭を押し付けた槐愔フアイインが、腰に腕を回して縋りついてくる。

春秋チュンチウから電話。やけに怒ってるぞ」

 そう言いながら耀廷ヤオティンも、槐愔フアイインの耳朶を甘噛みしてやった。

「ああ? ……春秋チュンチウ?」

 びくりと身じろいだ槐愔フアイインがようやく目をしっかりと開け、顔を上げて耀廷ヤオティンに正面から目を向ける。

「ほら」

 通話中の電話を耀廷ヤオティン槐愔フアイインの耳に押し当てた。




「もしもし?」

 そう言いながら槐愔フアイインは自分の手で携帯電話を掴み、すぐに顔を顰めた。「お前、ちょっと落ち着けよ」

 ベッドの上に座り直し、目を擦りながら電話を少し耳から遠ざける。そこから漏れてくる春秋チュンチウの怒鳴り声は耀廷ヤオティンの耳にも届いたらしく、こっそりと耀廷ヤオティンが笑い始めた。

春秋チュンチウがこんなに口が悪いとは知らなかったよ」

「……あいつに何も起こるわけないだろ……」

 寝乱れた髪を手櫛で整えながら応対していた槐愔フアイインは、春秋チュンチウの告げた内容に思わず息を飲む。

「今なんつった? 取り憑いてる? そんなわけが……」

 そのまましばらく話し続けた後、槐愔フアイインは頷いた。

「わかった。あいつを探させる」

 春秋チュンチウの返事を待たずに通話を切り、携帯電話を耀廷ヤオティンに押し付ける。

 怠い腰を伸ばしながら床に落ちていた服を拾い上げ、出掛ける準備をしようとしていると、まだ裸のままの背筋を耀廷ヤオティンの指が撫で上げてきた。

「緊急事態かい?」

 思わず背筋をしならせた後、槐愔フアイインは振り返って耀廷ヤオティンを睨んだ。

「急ぐんだよ」

 指を引っ込めた耀廷ヤオティンが、可笑しそうに笑いながらベッドの上に起き上がる。

春秋チュンチウのところに行くのか? 送るよ」

 その言葉には首を左右に振り、シャツのボタンを槐愔フアイインは留めた。

「あいつのとこには行かない。今はまず、あのバカチビを探す」

 服を着終えた槐愔フアイインはリビングに走って、ベランダに続く掃き出し窓を開け放つ。夜明けの風が強く吹き込んできて槐愔フアイインの髪を揺らした。

 そのまま目を閉じて少しの間待ってから、宙に手を差し伸べる。その腕には既に槐愔フアイインのよき相棒であるあの鷹が止まっていた。

「いい子だ。あのバカを探してきてくれ」

 羽毛をそっと撫でてやった後、再び腕を伸ばして鷹を放つ。鋭い声を上げて槐愔フアイインの腕から飛び立った鷹が、一直線に空へと舞い上がっていった。

「急いでくれ……、あのバカが何かしでかす前に見つけ出さないと……」

 眉間に皺を寄せた槐愔フアイインはかすかな後悔を覚えている。一昨日会った時に、もう少し気を付けて以洋イーヤンを見てやっていれば……。

 既に明るくなりつつある空を見つめながら、槐愔フアイインは溜め息を吐いた。まずは事務所に向かうことにする。

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