第三章(1)以洋、幽霊との対話を試みる

 第四日目。

 あの幽霊と話し合ってみることに以洋イーヤンは決めた。

 朝、懷天フアイティエンを送り出した後で、もう一度懷天フアイティエンの部屋に行き、そのままそこで二度寝する。意外なことに、今度は幽霊のせいで目覚めることはなかった。

 ぐっすり眠れたし、昼には紅焼五花肉ホンシァオウーフアロウを作ろうと考える。あれなら、下ごしらえさえ済ませれば鍋を仕掛けておくだけでいいし、その後は掃除をして……。

 時々以洋イーヤンは、自分でも自分を生まれついての主婦だと思う。女子として生まれていたらきっと最高の専業主婦向け人材としてどこかに嫁いでいたのではないだろうか。

 なぜか男に生まれてるけどね……。

 その点がどうにも不可解だが、そんなことは考えても一文にもなりはしない。さっさと頭を切り替えて料理を始める。

 角切りにした豚のバラ肉を、旨味が中に閉じ込められるようさっと炒めて焦げ目をつける。肉を電鍋に移して調理時間を設定し、家の中も綺麗になったところで、以洋イーヤンはリビングに場所を移すとソファに腰掛けて深呼吸した。

 いよいよあの幽霊と話をしてみようとする。

「この間は怒鳴ってごめん。……もしいるなら、出てきて僕と話してみない?」

 そう口にした後、以洋イーヤンはしばらく待ってみた。

 返事はない。

「出てきて話さない?」

「君、なんで自殺したわけ?」

「それとも誰かにそう仕向けられた?」

「何かの濡れ衣を着せられたなら、僕が手を貸せるよ?」

「家族はいるの?」

「君、そもそも僕と話す気あるわけ?」

 独り言を言い続けている自分が馬鹿みたいで、以洋イーヤンはまた腹が立ってきた。自分がキレやすい方だなんてこれまで意識したことはないが、この幽霊にはずっとイライラさせられっぱなしだ。

 いったいどうしたいんだよ……?

 溜め息を吐いた以洋イーヤンは、もうこれ以上この幽霊にはかまわないことにしてソファの上に横になった。なんでだかわからないが、この数日、ひどく疲れやすくなっている。

 關帝様が見える方を向いて寝れば、比較的安全なはずだ……。

 そんなことを考えながら、以洋イーヤンはすぐに眠り込んでしまった。




 夜、玄関のドアを開けた懷天フアイティエンは、漂ってきた煮込み肉の匂いに無意識に口元をほころばせた。部屋に入ると、以洋イーヤンがソファで眠っているのが見える。

 笑いながらソファに近付き、懷天フアイティエン以洋イーヤンを軽く揺さぶった。

小陸シァオ・ルー

 うっすらと以洋イーヤンが目を開く。

「なんでこんなとこで寝てるの? 風邪引くよ?」

 以洋イーヤンの頬を撫でながら懷天フアイティエンがそう言った時だった。

 不意に以洋イーヤン懷天フアイティエンに微笑みかけた。

「……」

 思わず懷天フアイティエンが呆然としたのは、以洋イーヤンがそんな笑みを浮かべるところを見たことがなかったからだ。大抵いつもにこにこしている以洋イーヤンだが、その笑顔はもっと単純で明るい、太陽のような眩しさを持った笑みだ。こんな……誘いかけるような微笑ではない。

 その場で凍りついた懷天フアイティエンに向かって、以洋イーヤンの手が伸びる。懷天フアイティエンの首筋に腕を回し自分の方に引き寄せた以洋イーヤンが、そのまま唇を重ね、深々と口吻けてきた。

 棒立ちになりながら懷天フアイティエンは一瞬、判断に迷う。以洋イーヤンを押し退けるべきだろうか? それとも、このまま続けるべきなのか?

 だが、以洋イーヤンのキスはそれだけで止まらなかった。舌先を懷天フアイティエンの口に忍び込ませ、絡めてくる。

 懷天フアイティエン以洋イーヤンとキスしたのは、これまでに四回。

 付き合うようになってから、同居するようになってから、全ての期間を合わせても、まだたったの四回だ。

 一度目は、二人が知り合ったあの日。誘拐されていた女の子のおかげでのキスだった。

 二度目は、以洋イーヤンを食事の後、大学まで送っていった夜だ。別れた後で車内に以洋イーヤンの忘れ物があるのに気付き、実験室まで届けにいったら、死者の記憶に引きずられた以洋イーヤンが悲鳴を上げた後、号泣し始めたのに出くわした。そんな以洋イーヤンイエ家のビルまで送って帰った時に、我慢できずにキスをした。

 三度目は三日前の晩、四度目は一昨日の晩。

 以洋イーヤンにキスするのは、降り積もったばかりの新雪の中を探検するような新鮮な感覚があった。以洋イーヤンが、まだ何も知らない子供だからだ。恥ずかしがり屋で、潔癖で。

 キスされた時の以洋イーヤンは、いつだってかすかに震えている。どうしたらいいのかと戸惑っているのが、こちらまで伝わってくる。

 今、この初めての以洋イーヤンからのキスは甘美で、だからこそひどい違和感があった。

 以洋イーヤンがこんなに大胆で挑発的な真似をしたことはない。キスだって、自分とのあれがこの子のファーストキスだったんじゃないかと懷天フアイティエンは思っている。

 なのに、今のこのキスは非常に手慣れたもののように感じられた。それどころか、どんな風にすれば相手をその気にさせられるか熟知しているような気配がある。

 以洋イーヤンの手が懷天フアイティエンの胸に這わされ、そこから段々に腰の方へと降りてくる。ズボンの前立てにその指が触れそうになった時、懷天フアイティエンは眉間に皺を寄せ、思い切り以洋イーヤンを押し退けた。

 以洋イーヤンが目を瞬かせ、再び笑みを浮かべる。男心を蕩かすようなその笑顔に、懷天フアイティエンはむしろ確信した。今、目の前にいるのは絶対に、自分が知っている以洋イーヤンじゃない。

 お前は誰だ? そう訊ねるのも妙だろう。だが、誰なのかもわからないこの幽霊に、これ以上以洋イーヤンの顔を使ってそんな笑みを浮かべさせているのは真っ平だ。

 険しい顔になった懷天フアイティエンは、以洋イーヤンを覚醒させようと力いっぱい揺さぶった。

陸以洋ルー・イーヤン! 起きてくれ!」

「……」

 しばらくして、以洋イーヤンが不意に驚いたような表情になり、懷天フアイティエンを見つめ返してくる。

「ど、どうしたの?」




小陸シァオ・ルー?」

 懷天フアイティエンが厳しい表情で以洋イーヤンの顔を覗き込んでいる。

 きょとんとして以洋イーヤン懷天フアイティエンを見上げた。

「うん。……どうしたの? なんで今日はこんなに早く帰ってきたわけ?」

 状況がよくわからない。ソファでちょっと居眠りしていたら、懷天フアイティエンがもう帰ってきたなんて。

 首を傾げつつ、傍の時計に目をやった以洋イーヤンは、驚きのあまり大声を上げた。

「嘘でしょ? なんでもう七時になってんの? なんで僕、寝ちゃったわけ? ええええ、まだご飯全然できてな……」

 言葉の途中で急に懷天フアイティエンに抱き締められ、以洋イーヤンは目を白黒させる。大人しく抱き締めさせた後、手を伸ばして懷天フアイティエンのがっしりとした背をそっと叩いた。

「いったいどうしたの?」




 びっくりさせないでくれ……。

 ほっとして一息吐いた懷天フアイティエンは、以洋イーヤンを抱き締めていた腕を少し緩めた。訝しそうに以洋イーヤンがこちらを見ているが、状況を説明することで以洋イーヤンにショックを与えたくはない。

 だが、もしこの幽霊がこんなにも……影響力を持っているのなら、以洋イーヤン冬海ドンハイのところに送っていくべきなのではないだろうか。

小陸シァオ・ルー、俺の言うことをよく聞いて」

 以洋イーヤンの隣に懷天フアイティエンは腰を下ろした。

「君はしばらく、夏春秋シァ・チュンチウのところへ戻るべきかもしれない」

 懷天フアイティエンの重苦しい表情に、以洋イーヤンが呆気に取られた顔になる。だが、自分が何かしたのかとたちどころに不安になったらしい。

「僕、何かしたの?」

 おずおずと訊ねてきた以洋イーヤンの頭を、懷天フアイティエンは苦笑しつつ撫でてやった。

「別に何もないよ。最近抱えてる事件のせいで夜中でも出動しないといけないから、君を一人にしていくのが心配なだけ。だから、先に春秋チュンチウのところへ移っておくのが一番かなと」

 懷天フアイティエンをじっと見つめた後、以洋イーヤンが素直に頷く。

「うん、わかった」

 いい子過ぎる返答だ。かえって心配になった懷天フアイティエンは、以洋イーヤンの手を握った。

小陸シァオ・ルー。俺は絶対に君を面倒に思ったりしないから」

「うん、わかってる」

 そう言いながら、それでも以洋イーヤンの頭は項垂れていく。懷天フアイティエンが口にしただけではない事情があるとたぶんわかっているのだろう。

 そしてもしその事情のせいで懷天フアイティエンがこんなことを言い出したのなら、これ以上迷惑は掛けたくない、以洋イーヤンはそう思っているはずだった。

「君たちの関わってる世界には、俺は手が出せないからなあ。俺の存在が助けになるなら、絶対に君の傍を離れたりしないんだけど」

 丸い頬に手を滑らしてやると、それに反応して顔を上げた以洋イーヤンが、真剣な表情になって口を開いた。

「僕のことでそんな風に悩むのはやめてほしいんだ。春秋チュンチウのところに戻るよ。それで、今度の件が解決したら、また戻ってくるから」

 やっぱり自分のせいだと、そんな風に以洋イーヤンに思わせたのは自分が難しい顔をしていたからだろう。そう思って懷天フアイティエンは小さく笑みを浮かべた。

 以洋イーヤンの丸い頬は触り心地がよくて、いつまででも撫でていたくなる。

そのまま顔を近づけ、軽く唇に口吻けた。

 ほんのささやかなキスにさえ、息もできなくなったような反応を以洋イーヤンが見せる。

 そんな以洋イーヤンに笑みを深めた懷天フアイティエンは、それでもそれ以上キスをディープなものにはせずに以洋イーヤンの唇を解放してやった。しかし、真っ赤になった以洋イーヤンの顔を見ると我慢できず、頬にもさっと唇を押し付ける。

 その後、耳元にささやいた。

「送っていくよ」

「うん」

 まだ頬の血の気が退かないままの以洋イーヤンが小刻みに頷く。

「先にご飯食べないと……、あ、でも、煮込みしかないんだけど」

「なんでも食べるよ」

 台所に駆け込んでいく以洋イーヤンを笑いながら見送った懷天フアイティエンは、以洋イーヤンに気取られないよう電話を手にし、冬海ドンハイ相手に掛けた。

 ざっと事情を説明して電話を切った後も、確信は持てない。春秋チュンチウは果たして以洋イーヤンのこの問題をどうにかしてくれることができるのだろうか。

 しかしどうあってももう二度と、あの幽霊が以洋イーヤンの身体を好き勝手に使っている光景など見たくはなかった。

 溜め息を漏らし、懷天フアイティエンは台所の以洋イーヤンを手伝いに行くことにする。少しでも早く、以洋イーヤンイエ家に送っていった方がいい。

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