第二章(3)以洋、(暇なので)床を掃除する

 ――――……翌朝、懷天フアイティエンに朝食を作った後、いつも通りに以洋イーヤン杜槐愔ドゥ・フアイインの事務所まで車で送ってもらった。

 礼を言って懷天フアイティエンの車を降りた後、とぼとぼと新しい事務所に入っていく。

 槐愔フアイインの「新しい事務所」は、実際には住所はほとんど変わっていない。爆破された元の事務所が入っていたあのアパートの土地を韓耀廷ハン・ヤオティン槐愔フアイインのために買い取り、半壊状態の建物を撤去した後、槐愔フアイインの指示に従って小型のマンションに建て直したのだ。

 分譲なしの賃貸のみという物件だったが、結果的にはすぐに満室になった。

 槐愔フアイインが求めたのは、その中の一室を新しい事務所にするということだけ。決して広くはないが、二人で使う事務所としては充分だし、以洋イーヤンとしては部屋数が少なくてもキッチンがあればそれで満足だ。

 易仲瑋イー・ヂョンウェイがいつも言っている。以洋イーヤンは性別を間違えて生まれてきたに違いない。女の子だったら、顔も可愛いし利発だし、とっくに誰かにお嫁にもらわれているよと。

 ただ、以洋イーヤン自身としては料理は単なる自分の趣味だと思っている。誰かが美味しそうに食べてくれているのを見れば達成感はあるが、だからと言って時々訊かれるようにコックになろうとは思わない。家族や友達や好きな相手のために作りたいだけだ。

「何、不景気な顔してんのよ?」

 小宛シァオ・ワンの頭を手に以洋イーヤンの前を通り過ぎようとした高曉甜ガオ・シァオティエンが、怪訝そうに以洋イーヤンの顔を覗き込んでくる。

「あれ? 小宛シァオ・ワンの頭、また落ちちゃったの?」

 慌てて以洋イーヤンは辺りに目を走らせた。案の定、小宛シァオ・ワンの身体だけが事務所内を行ったり来たりしている。

「そうなのよ。昨日くっつけてあげたんだけど、なんでだかどうやっても巧くくっつかなくって」

 眉間に皺を寄せた曉甜シァオティエン小宛シァオ・ワンの首から接着剤を拭き取り始めたので、以洋イーヤン小宛シァオ・ワンのところへ走っていき、手を引いてソファまでエスコートした。

「ここに座ってて。どこにも行っちゃ駄目だよ」

 曉甜シァオティエンはまだ拭き取り作業中だ。しばらく見ていた後、我慢できなくなって以洋イーヤンは声を掛けてみた。

「綺麗に取れそう? 僕がやろうか?」

「あんたの方があたしより手先が器用だっての?」

 キッと以洋イーヤンを睨みつけた曉甜シァオティエンが、しばらくしていらだたしげに口を開く。

槐愔フアイインはいったいいつになったら帰ってくんのよ? あの人が帰ってきたら一発で解決するのに。なんで糸の切れた凧みたいによその家に行ったっきり帰ってこないわけ?」

「あ~……槐愔フアイインは……い、忙しいんじゃないかな~、なんて……あはは…………」

 乾いた笑い声を以洋イーヤンは立てた。槐愔フアイインはたぶん帰ってこないんじゃなくハンボスさんに放してもらえないんじゃないのかなと、心の中で思う。、

 曉甜シァオティエン小宛シァオ・ワンとおしゃべりしながら首を貼りつけてやっている光景を見て、以洋イーヤンは胸が温かくなるような感慨を覚える。

 やっぱりこの二人はいい幽霊だよなあ。僕をいじめたりしないし……。

 しかし槐愔フアイインは今日も帰ってくるのか来ないのかわからない。小さく溜め息を吐いた以洋イーヤンは、せめて部屋を掃除することにした。小宛シァオ・ワンの頭を曉甜シァオティエンが固定してやっているのを手伝ったりしているうちに、もうじき夜になるという頃、ようやく槐愔フアイインが事務所に入ってくる。

「あれ、来てたのか」

 以洋イーヤンがいるのを見てそう言った槐愔フアイインが、ついでのように訊いてくる。

「なんか食うものあるか?」

「お腹減ってるの? すぐ作るよ」

 立ち上がった以洋イーヤンはそのままキッチンに駆け込んだ。

「減ってる。飢え死に寸前だ」

 腰を下ろした槐愔フアイインは、曉甜シァオティエンが瞬間接着剤を使用してみた成果に目を走らせる。

「悪くない感じだな」

「でしょ」

 小宛シァオ・ワンの固定された頭を得意満面に眺める曉甜シァオティエンの前で、小宛シァオ・ワンも嬉しそうに立ち上がり、くるくるっと二度回ってみせる。と、ゴトンと音がしてまた頭が転がり落ち、ゴロゴロと槐愔フアイインの足元まで転がっていってしまった。

 なんとも言えない沈黙の中、小宛シァオ・ワンが悲し気に泣き声を上げ始める。

「ああああ――、ごめんってば、泣かないでよ。瞬間接着剤ならいけるって思ったのよ。あなただってステープラー使うよりはいいだろうし……」

 大慌てで首を拾い上げた曉甜シァオティエンが、小宛シァオ・ワンの髪を整えてやった。

「床は小陸シァオ・ルーがさっき掃除したばかりで綺麗だし、もう泣かないでって」

「貸してみろ」

 溜め息を吐いた槐愔フアイインが手を伸ばす。

「昨日には帰ってきてって、前から言ってたじゃない。くっつけてもくっつけても二週間持たないのよ……」

 口を尖らせて文句を言いつつ、曉甜シァオティエン小宛シァオ・ワンの頭を槐愔フアイインに手渡した。

「わかったわかった。次はちゃんと帰ってくるから」

 全く誠意の籠もっていない口調で答えながら、槐愔フアイインは注意深く小宛シァオ・ワンの頭を首の上にセットしていく。繋ぎ合わせた後、筆を手にして小宛シァオ・ワンの首に呪文を書き記し始めた。

「どうしたの? 瞬間接着剤でも駄目だったわけ?」

 オムライスの載った皿を手にキッチンから出てきた以洋イーヤンは、三人の顔を順繰りに眺める。

「テレビでCMがばんばん流れてる超強力な接着剤使ったのに……。車が吊り上げられるってやつなのよ?」

「ていうか、僕がステープラー使ったのはいったいなんでだと思ってたのさ……」

 悔しそうな顔の曉甜シァオティエンにそうぼやき返し、以洋イーヤン槐愔フアイインに声を掛けた。

槐愔フアイイン、もう食べられるよ」

「ああ……、ちょっと待ってろ……」

 槐愔フアイインは集中した様子で小宛シァオ・ワンの首に呪文を一周させている。これで頭を固定しようというのだろう。

 小宛シァオ・ワンの頭を掘り出すことができればそれが一番なのに……。

 思わず以洋イーヤンは溜め息を漏らした。

 頭さえ元に戻すことができれば、小宛シァオ・ワンはもっとしゃべれるようになるはずだし、他の誰かの話をきちんと理解することもできるようになるはずだった。生前は名の通った優秀な学生で、才色兼備なおっとり美人だったのだ。

 ただ問題は、今はどうやっても掘り出せないということで……。

 幾分憂鬱な気分で、以洋イーヤン槐愔フアイインのためにお茶を淹れに行った。オムライスにお茶を添えて、呪文を書き込み終えた槐愔フアイインが食べに来るのを待つ。

「よし。これでしばらくは落ちないぞ」

 槐愔フアイインがぽんぽんと小宛シァオ・ワンの頭を叩いた。小宛シァオ・ワンも嬉しそうに、またくるくると回りだす。

「で、お前はまた何をやらかしたんだ?」

 槐愔フアイインの目が以洋イーヤンに向けられた。

春秋チュンチウが電話してきたぞ。お前が誰かの自殺を目撃したって」

「だから僕は何もしたわけじゃないんだってば……。向こうが僕の傍に落ちてこようとしたんだから、僕の方はどうしようもないじゃん。押し潰されなかったのがラッキーだったんだよ……」

 そう言いながら、以洋イーヤンはふと思い出した。

 押し潰されなかったのは単なるラッキーじゃない。あの時、何かが以洋イーヤンの背を突き飛ばしたからだ。

「どうした?」

 不意に以洋イーヤンが黙り込んだのを見て、槐愔フアイインが手を伸ばすと以洋イーヤンの頬を捻る。

「痛たたた」

 自分の大事な頬っぺたを以洋イーヤン槐愔フアイインの魔の手から取り返し、大事に摩ってやった。

「単に思い出しただけだって。あの人が落ちてくる前に、誰かが僕を前に突き飛ばしてくれたなって……」

 槐愔フアイインは小さく頷いただけで何も言おうとしない。だが、その態度を見て以洋イーヤンもある程度の察しがついた。自分を救ってくれたのは、たぶん首に掛けているあの聚魂盒じゅこんばこだろう。

 そして、春秋チュンチウ槐愔フアイインにわざわざ電話してくれた理由も、恐らくはそれだったはずだ。

 既に以洋イーヤンの鼓動と同調しているその箱を、以洋イーヤンはそっと撫でた。

槐愔フアイイン……、この箱ってずっと僕を守ってくれてるの?」

「ああ。お前がそいつを一日身に着けてれば、『あいつ』は一日お前を守る」

 槐愔フアイインは一気にお茶を飲み干した。

「けど、あいつを使って妙なことはするなよ。さもないと、最後にはあいつを制御できなくなる」

「制御なんて、そもそもどうやったらいいのかわからないよ……」

 顔を顰め、以洋イーヤンはなんとなく箱を撫で続ける。

「ま、そのうちにわかってくるさ」

 教えてくれるつもりは槐愔フアイインもないらしく、オムライスを食べるのに没頭していた。まるでこの数日間、何も食べていなかったかのような勢いだ。

「毎日何に忙しくしてるの? そんなにお腹空かせてるなんて」

 槐愔フアイインのためにもう一杯お茶を注いでやりながらの以洋イーヤンの質問に、一瞬呆気に取られた顔になった槐愔フアイインが、オムライスの最後の一口を掻っ込んだ。

「子供の訊くこっちゃねえよ」

 皿をシンクに下げに行った槐愔フアイインを見ながら、以洋イーヤンはむっつりと答える。

「小さくないよ……もう子供じゃないし」

 頬を膨らませている以洋イーヤンの顔を、槐愔フアイインが面白そうにわざわざ腰をかがめて覗き込んできた。

「なんだ? あのガオって奴が、遂に我慢しきれなくなってお前に手ェ出したのか?」

 からかわれているのを察して、以洋イーヤンはリュックを手に取り立ち上がる。

「……帰る……」

 だが、玄関を出る前に槐愔フアイインに呼び止められた。

小陸シァオ・ルー

 仕方なく足を停めて振り返った以洋イーヤンに、槐愔フアイインが笑いながら告げる。

「もしどうしたらいいかわかんなくなったら、ここに住みな。部屋をちょっと改装するくらい大した手間でもないし、曉甜シァオティエン小宛シァオ・ワンが一緒なら両手に花で悪くないだろ?」

 少しの間考えてから以洋イーヤンは口を開いた。

「応じることはできる……はずだと思うんだけど」

 言ってはみたものの、言い終わってみると我ながらどうにもはっきりしない答えにしか聞こえない。溜め息を吐いて以洋イーヤン槐愔フアイインに背を向けた。

「帰るね」




「ちゃんと道を見て歩けよ」

 槐愔フアイインも特にアドバイスはせず、それだけ声を掛ける。考え事をしながら歩かせたりしたら、またどこかで転ぶ羽目になりかねない。

 玄関のドアを閉めた槐愔フアイインは、皿を洗いに行こうとキッチンに向かいかけたところでふと思い出した。例の自殺した人物がその後どうなったのかを以洋イーヤンに訊いていない。

 だが、まあいいかとすぐに思い直す。どうせ以洋イーヤンの身は聚魂盒じゅこんばこで守られているのだし、何も問題はないはずだ。

 それっきり槐愔フアイインの意識は皿の方に向かった。

 皿を洗い終えたら、今日はもう帰ることにしようと思う。一階にまた停まっているのが見えた車を、あまり待たせないように。

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