第二章(2)以洋、懷天に怯えさせられる

 夕方遅くになって以洋イーヤンはようやく家に帰った。

 しかし、家の中に一歩入った途端、またあの奇妙な恐怖感とつきまとわれている感覚が甦ってくる。

 外にいる時はなんともなかったのに、家に帰って一人になった途端これだ。おまけにこっちには姿が見えないし。ああ苛々する。

 怖さと腹立ちをこらえながら、以洋イーヤンは午後の買い出しで買い込んできたものを、一つ一つ冷蔵庫に入れていった。不意に思わず、あっと声を上げる。

「……あったまくるなあ……、結局また買い忘れちゃったよ……」

 買い忘れるのはこれで二度目だ。しょんぼりと溜め息を漏らした以洋イーヤンは荒っぽい手つきで大根を冷蔵庫に押し込み、夕飯を作り始めた。

 今日の状況は昨日とほとんど変わらない。帰宅した懷天フアイティエンと一緒に夕飯を食べた後、昨日のあのDVDに再挑戦したのも、絶対に面白いはずだし、ずっと見たかった映画なのに、なぜだかソファに座った途端、すぐ眠り込んでしまうのも。

 今回も懷天フアイティエンが可笑しそうに以洋イーヤンを揺すり起こし、部屋へ寝に行かせてくれた。

 そしてそれから約三十分後、昨日と同じように真っ青になって以洋イーヤン懷天フアイティエンの部屋に転がり込むことになる。

 苦笑して懷天フアイティエンが上掛けの端をめくってくれた。

「おいで」

「うん……」

 幾分きまりの悪い気分で以洋イーヤンはベッドに近付き、大人しく懷天フアイティエンの傍に横たわる。

 無言で横になっているうちに、以洋イーヤンはどこかが間違っているような気がしてきた。昨日は恐怖のあまり一目散に駆け込んできてしまったが、今日は昨日のことがあったせいで心の準備ができていた。だから同じようにここに逃げ込んできていても、色々と考える心の余裕がある……。

 僕達って、これで付き合ってるって言えるんだろうか?

 しばらくして以洋イーヤンの頭に浮かんできたのはそんな疑問だった。

 それでも、口に出して訊くのは怖い。訊ねてしまえば、答えを出さなければならないのではないかと思うからだ。

 懷天フアイティエンのいつもの態度は、自分の存在が懷天フアイティエンにとって必要不可欠なものなのかどうかを以洋イーヤンに悟らせない。だから、自分達が付き合っているのか付き合っていないのかも以洋イーヤンにはわからない。

 ぐるぐると考えているうちに、魏千樺ウェイ・チエンホアのことを思い出す。自分は懷天フアイティエンにとって、魏千樺ウェイ・チエンホアとそんなに変わらない程度の存在なんじゃないだろうか?

 しかし少し考えてみると、それもまた違うという気がしてきた。懷天フアイティエン千樺チエンホアは警察大学以来の知り合いだし、自分よりもよっぽど付き合いは深いと言うべきだ……。

「昨日さ……」

 その言葉はぽろっと以洋イーヤンの口から出た。

「ん?」

 懷天フアイティエン以洋イーヤンの方に顔を向ける。

「昨日さ、あなたの小千シァオ・チエンに会ったんだけど……」

 無意識のうちに声がやきもちじみた響きを帯びていたらしく、懷天フアイティエンが小さく噴き出す。

「うん。それであいつが電話してきたんだよ。早く家に帰れって」

 そう言った懷天フアイティエンがベッドに肘をつき、以洋イーヤンの方に身体を向けた。

「ふうん……」

 答えながら以洋イーヤンの唇は尖ってしまう。

「気にしてたの?」

 気にしていたのかどうなのか、以洋イーヤン自身にもよくわからなかった。

「……僕だってわかんないよ」

 ベッドの上、二人の間の距離は数センチしか空いていない。互いの呼気が顔に掛かるのが感じられるくらいだ。以洋イーヤンは目を瞬かせた。懷天フアイティエンの優しい表情を見ていると、なぜかはわからないが自然に目が閉じていく。

「君って子は……」

 溜め息のようにそうつぶやいた懷天フアイティエンの声だけが聞こえ、以洋イーヤンは目を開けようとした。しかしその時にはもう懷天フアイティエンにキスされている。昨日よりももっとディープなキスで、以洋イーヤンは危うく息ができなくなりそうだった。

 更に、以洋イーヤンの腰に回されていたはずの懷天フアイティエンの手が、不意に以洋イーヤンの服の裾から滑り込んできて、脇腹を上に向かって撫で上げていく。

「ぅん……ん……っ」

 ほとんど甘ったるいと表現していいような呻き声が自分の喉から漏れているのが聞こえた。不意に湧き上がってきた情欲と炙られるような熱を受け止め切れず、以洋イーヤンは身体を竦めてなんとか後退ろうとする。しかし、そんな以洋イーヤンを押しとどめるように懷天フアイティエンの身体が上に覆いかぶさってきた。

「……んぅ……うンっ……」

 啜り泣いているような声を以洋イーヤンは上げた。決して嫌なわけではないし、気持ちが悪いわけでもない。それでも、その感覚が、急に怖くてたまらなくなる。




 以洋イーヤンの身体が小刻みに震え出したのを感じ、大きく息を吸い込んで懷天フアイティエンはそれ以上動くのを止めた。

 以洋イーヤンの首筋に顔を埋めると、自分が使っているのと同じボディソープの匂いがする。それから乳液か何かの匂いが。我慢できなくなり、懷天フアイティエン以洋イーヤンの首に軽く噛みついた。

「ゃぅ……」

 小さく震えた以洋イーヤンが、仔猫のような声を上げる。

 このまま続けたら、この先ずっと怯えられそうだ。

 懷天フアイティエン以洋イーヤンを放してやり、少し距離を取ってから口を開いた。

「ごめん。怯えさせるつもりじゃなかった」

 とは言え、以洋イーヤンの様子は心底怯え切っているという風には見えなかった。顔から首筋、服の襟の中までピンク色に血を上らせているというだけで。

 乱れた衣服と、かすかな喘ぎ。見ているとこの続きがしたくて我慢できなくなりそうになる。

 だが……これ以上続けたら犯罪だな……。

 心の中で懷天フアイティエンは溜め息を吐いた。

 この子は、ひょっとすると自分にとっては、幼過ぎるのかも知れない……。六歳しか違わないんだけどな……。

 笑おうにも笑えないような気分で以洋イーヤンの服を整えて、上掛けですっぽりと包み込んでやる。

「ほら、お休み。もう何もしないから」




 今、自分が何を言うべきなのか、以洋イーヤンにはわからなかった。嫌だったわけではないし、気持ち悪いと感じたわけでもない。単に……まだわからなかっただけだ、自分がこんな時にどう応じるべきなのかが……。

 それでも以洋イーヤン自身、わかってはいた。今もし懷天フアイティエンが我慢してくれている状態なら、自分の方もこれ以上、どんな意思表示もするべきではないということだけは。

 さっき、懷天フアイティエンの前で目を閉じるべきではなかった。もしかすると……あれは懷天フアイティエンを誘ってしまったことになるのかも知れない。

 自分の行動が不適切だった可能性に不意に気付いた以洋イーヤンは、コットンの上掛けの中に深く潜り込んだ。そして心の中で深く反省する。

 結果的に、以洋イーヤンは一晩中眠れなかった……――――。


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