第30話 ホロベシ男爵邸への帰宅

 さてこの女性、名はエファ・カラシェイナと言う。帝国の名家クドゥル伯爵家の末流にあたる家の末娘だったという。

 藍が教わった通り、彼女は少女の頃、まだ女子部ができたばかりの第一中等学校の高等科まで進んで、主に究理学を学んだという。そしてその卒業後の進路を決めかねていたところで、いきなり鶴の一声が飛んだとのこと。

 それが後宮入りだというから人生は判らない。

 ただの学問命、の少女が一転して宮中の新妃、そして皇后となってしまったのである。

 先帝六代帝の時代のこと。現在の今上は七代皇帝である。つまりは彼女の息子である。従って彼女の現在の称号は皇太后であり、皇后のいないこの後宮における、最高権力者と言える。

 この帝国は、女性が政治に参加することを法律で禁じていたので、いくら後宮で権力があろうが、直接的にその力を外側へと出す訳にはいかない。

 ……まあ表向きである。

 裏に回れば、何かと方法はあるのだ。例えば藍も所属する集団。

 皇太后カラシュは、その手のうちに「残桜衆」と呼ばれる集団を有していた。この集団もなかなか歴史がある連中である。その昔、三代帝の時代に、帝国に併合された藩国「桜」の忍び(現在はそれに相当する単語は帝国にはない)の残党だとも言われている。

 現在もその構成員は、帝国国籍の他に、真名を持っている。真名は「桜」の習慣である。彼ら小隊の場合、その真名は伝統的に「色」の名であった。

 さてその残桜衆をどうやって手に入れたか詳しいことは当の本人と、彼女の夫六代帝と、親友で現在も名門とされている私立の女子高等教育機関「紅中私塾」の創設者コンデルハン夫人と、当時の小隊長「朱」の四人しか知らない。

 だがそれはもう百年近く過去のことであり、三人までが鬼籍に入った今、当の本人が何も言わないから判りようがない。


 百年近く過去。


 つまり藍が驚いたのもその辺りである。

 その百年近く過去、に嫁いできた彼女が、未だに二十歳過ぎには見えない、という現実である。

 それが皇太后…… 皇后だった女性だ、と言われれば仕方がないが、藍は未だにこの女性の前に出ると緊張してしまう。

 皇太后カラシュは、そういう所が可愛いと思っているのだが。



「何ですって!ここにいない?」


 アルトの声が、玄関から奥へ、一気に響いた。さほど大きな声ではないのに、そこに居た全ての家人がびくりと身体を震わせた。

 高い天井の、シャンデリアが落とすそう明るくない光の中に、「旦那様」の遺体を迎えに、全ての家人が集合していたのだ。

 彼らはこの遺体を連れてきた少女についてよくは知らない。聞かされていたのはただ、「頭の良い少女を旦那様が引き取ってシラお嬢様の勉学相手になされた」ということだけだった。

 無論「旦那様」とナギが何処で出会ったとか、「お嬢様」とナギがどういう関係かなんて、全く知らない。知らない筈である。

 したがって、どうしてこの「勉学の相手」の少女がこうも怒っているのかまるで判らないのである。


「それで、何処へ行かれたのです!」


 ナギはひときわ声を高める。金色の目が燃えるようにきらきらと光る。その剣幕にこの屋敷の使用人達は息を呑む。


「……何処と言われましてもナギマエナさん…… 当初からここにはお嬢様はいらっしゃらなかったのですよ」

「当初から」


 ナギはこの帝都のホロベシ男爵邸の執事をにらむように見る。……さすがに彼は副帝都本宅の執事とは比べものにならないくらい神経が太そうだ。灰色の髪と、やや険しそうな青の瞳。瞳は青でも、全体的に灰色という印象がある。

 とはいえ、ナギもただ引き下がる訳にはいかない。知りたいことは幾らでもある。

 彼女は大きな猫を頭からかぶってみせる。大人しいフリをしていれば、自分は大抵の男の目からは綺麗な少女で通ることをナギは知っていたのだ。


「……怒鳴ったりしてごめんなさい。では誰がシラさんを連れていったのかしら? 判る? ええと」

「それは判ります」


 執事は彼女と同じくらいの背の高さであり、まだその職にしてはずいぶん若かった。おそらく四十は行ってないだろう。青い目が時々意味もなく細くなる。名は…… 名はなんと言ったか。

 名を思い出せないような、突っかかる言い方をする彼女に、執事氏は親切に言葉を促す。


「コレファレスです。イルゼン・サートゥン・コレファレス」

「ああごめんなさい、コレファレスさん。どうかしら」 


 言っておくが、もちろんナギは彼の名くらい知っている。だがコレファレス氏は、どうやら本当に彼女が忘れていたと思ったようで、やや勝ち誇ったような笑みを口の端に浮かべる。


「……市内通信が入りまして」

「発信元は?」

「ミナセイ侯爵家です。……どう転んでもそこからお嬢様をお預かりしていると言われては」

「……」


 ミナセイ侯爵家。黒夫人のところだ、とナギは記憶をひっくり返す。

 格が違うから、下手に口出しはできないという訳か。ナギは表情を殺す。


「ひとまずせっかくお越し頂いたのですから、まず休まれたらどうです。貴女の部屋も用意してありますし、お食事も言われればすぐに。そう大層なものは用意できませんが」


 女中の一人が声をかける。やり手とは縁がなさそうだが、やや太めの、優しそうな女性だった。コルシカ夫人と名乗った。


「ありがとうございます…… ああ別に私のことは構わないで下さい…… 食べられれば十分ですから……」

「だがどうにも貴女今、気が抜けていそうだ」

「気は抜けています、十分。ああそうだ。とにかくこちらの方はおまかせします、コレファレスさん。葬式のこともあるでしょう。貴方に任せるしか私にはできませんから……」

「でもすぐに葬式は出せないのですよ。それで我々も困っているのです」

「どうして」

「喪主がいないのですよ。喪主になれるのは、お嬢様しかいないではありませんか」


 ああ、そうだ。ナギは唇を噛みしめる。自分もそうだった。母親の、あの簡素で簡素で簡素な葬式の時にも、喪主は必要だった。自分がするしかなかった。

 ああ面倒だ。内心ナギはつぶやく。


「とにかく旦那様の方はしばらくお嬢様が戻られるまでそのままにしておきましょう。その辺りは私に任せてください。貴女はずいぶん疲れているようだ」


 ナギはうなづく。大陸横断列車の往復時に起きた事件のあれこれは、その時には疲れを感じる暇もなかったが、通り過ぎてみると、確かにその分がかかってきていた。


「コルシカ夫人、お食事の用意をしてやってくれ」

「はいはい。すぐに暖めますからね。こっちへいらっしゃい」


 動揺しているのは同じだろうに、心配してくれる。どうやら様々な思惑などとは無縁そうなコルシカ夫人の笑顔に、ナギは何となく肩の力が抜けるのを感じた。


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