第9話 母親が教えてくれた「帝国」のこと

 その時彼女がやはりテーブルの上で読んでいたのは、分厚くて大きくて重い本だった。

 休日の起きぬけだった気がする。彼女は茶色のガウンを羽織ったままで、髪も後ろで一つにくくっただけだった。

 そのテーブルは大きかったので、いつの間にか掃除の時の彼女の避難場所になっていた。

 掃除が一段落したハウスキーパーは、お母様に持ってってくださいな、と甘くしたコーヒー入りのミルクを彼の分と二つ作って持たせた。

 いい天気だった、と彼は思い出す。

 南向きの大きな窓から、薄いカーテンごしに陽の光がいっぱいに部屋には入り込んでいた。彼女は…… 実にお行儀の悪い恰好で真剣にその分厚くてでかくて重い本を読んでいた。

 分厚くてでかくて重いから、膝には乗せなかったのだろう、と今になれば彼は思える。

 帝国直輸入の本には時々そういうことがある。尤もそんな本は、だいたい図書館行き専門のもので、どうして母親が自分の本棚に並べておけたのかは謎である。


「かーさん……」

「んー?」


 本から目を離さずに彼女はだるそうな声を上げていた。


「いい?」

「おー…… ちゃんとこぼさずに置けるか?」


 考えてみれば、彼女のその対応はまるで父親のものに近いのではなかろうか、とも思わずにはいられない。

 よいしょ、とテーブルの、自分が乗ったはずみでもこぼれないような所を見つけてトレイを置く。そしてよいしょ、と広いテーブルの上に乗る。 


「はい」

「おお」


 目も離さずに彼女は厚手のカップを受け取る。彼は横に回って本を眺める。ずいぶん絵や写真の多い本だな、とその時彼は思った。


「お前この国以外の国を知ってるか?」


 コーヒー入りミルクをすすりながら唐突に彼女は息子に訊ねた。七つの子供は普通は知らない。学校でも教えない。


「知らない」

「この国と砂漠をはさんだところに『帝国』って国があるんだよ」

「ていこく?」

「面白い国だ」

「おもしろい?」

「そう。面白いんだ。何せ化け物が皇帝やってる」


 今になって思えば、とんでもないことを母親は言っていたと思う。


「ばけもの?」

「今わたし等が住んでる国は、誰が動かしてる?」

「だいとうりょう」


 もちろんそれは大人の話の受けうりである。


「だな。そういう奴をたくさんの人が選んで動かすのがわたし等の国だ」


 もちろん当時のシルベスタは「国を動かす」という意味も知らない。だが母親はそんなことお構いなしに話す。


「だけどなシルブ、むこうでは誰かが選ぶんじゃなくてな、そういうことをする奴は、始めから決まってるっていうんだ」

「始めから?」

「そ。例えばそーだな。わたしは今学校の先生だろ?」

「うん」


 端折って言えばそういうことになる。


「お前はわたしの息子だろ?」

「うん」

「だからお前は学校の先生になるという感じかな」

「それって変」

「だろ? 別に誰が何になっても構わんとわたしは思うんだが、どーやら向こうは違うんだよ。ま、普通のひとはいいんだが、その皇帝という奴だけは」

「こーてい?」

「向こうで国を勝手に動かせる奴のことだよ。だから大統領に近いけど、もっと勝手にできる奴だな」

「へえ。たいへんだね」

「そ。たいへんだよ。だからという訳かどうか知らないが、皇帝ってのは妙なもんらしいな」

「どーして?」

「どこが妙って意味か?」

「だと思う」


 そーだな、と言って母親は、ぱらぱらと厚手の紙でできたページを繰る。そこには一枚の写真があった。


「明るくないね。ざらざらしてる」


 当時のシルベスタはモノクロ写真のことをそう形容した。


「まあな。百五十年くらい前の写真だ。状態悪いのも仕方あるまいな。でな、これが当時の皇帝。今向こうの国に居る皇帝の父親にあたる」

「おとうさん?」

「そうだ。まだ若いな」

「うん」

「ところが、だ。今から百年前の写真。現在の皇帝にその皇帝という地位を渡す少し前の写真だ」


 多少状態は良くなっていたが、やはりモノクロの写真には、青年が二人写っていた。


「? さっきの人じゃない」

「さてシルブ、百五十引く百はいくつだ?」

「……五十」

「だな。じゃあお前がさっき言った同じひとは幾つになる?」

「え? ちょっと待ってかーさん、……それって」


 母親はその時やっと彼の方を見て、にやりと笑った。


「変だろ?」

「……まちがいじゃ……」

「あいにく、これはちゃんと帝国から送られてきた、正史の本なんだよ。出ていること全部が、一応正しいことになってる」

「だってそれじゃ、さっきのひと、五十年経っても全然変わんないってことになるじゃない」

「そういうことだな。ああ、ちなみにこの『変わんない人』のとなりに居るのが、現在の皇帝だ。つまり、この二人、親子ってことになるな」

「げーっ!」

「だから化け物だって言ったろう?」


 あっさりと母親はそう言って、コーヒー入りミルクがぬるくなってしまったな、とつぶやきながら残りを飲み干した。

 もちろん彼はその時、母親の相手構わず説明する内容の半分も理解できた訳ではない。だが実にその母親の言葉が印象に残ってしまったのは事実だった。皇帝は歳を取らない化け物だ……

 ちなみに現在の帝国の皇帝は七代目であり、その百年前の写真に二十歳少し過ぎ、の外見で写っていた人物である。

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