第8話 母親の影響というもの

 最初に帝国の歴史に興味を持ったのは、七つの頃だった、と彼は記憶している。

 まだその頃は、母親と一緒に住んでいた。

 自分に母親の違うきょうだいが居ることはその頃から知っていた。十になったら二人暮らしの家から離れて、父親ときょうだいの住む屋敷へ引っ越さなくてはならないことも。

 母親はそういうことを隠そうとはしなかった。事実は事実だから、と小さい頃から真っ直ぐに彼に向かって話していた。

 今から考えると、彼女は変わった人だった、とシルベスタは思う。

 容姿は――― 自分と同じ薄茶の柔らかそうな髪と、同じ色の目を持った彼女は、美人と言えば言えないことはなかった。二者選択しろと言われれば、間違いなく美人の部類だったろう。

 尤も彼女は自分が美人であるかどうかなど気にしたことがないようだった気が、彼にはしていた。何せ家の中で化粧品を見かけたことなどついぞない。

 鏡はそれでも何とかあるが、そこに口紅だの化粧水だのの美しい曲線を描く、とりどりの色の典雅な瓶が並んだ図は、その家にはなかった。

 母親は朝起きて、顔をせっけんで洗い、多少肌が突っ張るならクリームを塗るが、それ以上のことは一切しなかった。

 髪を伸ばしてはいたが、それは放っておくと飛び跳ねそうな元気な髪をまとめるために伸ばしていたという方が正しい。

 長い方が便利だからな、と出かける時だけは器用に三つ編みを後ろ手で作り、くるりと頭全体に巻いていた。実際それは彼女によく似合っていた、と彼は思う。

 確かに容姿というものは彼女は全く意味のないものだったのだろう。彼女にはそれよりもずっと大切なものがいくらでもあったのだから。

 母親はその当時からルカフワンの「学府」と言われる中央総合大学で物理学の教授をしていた。まだ彼女は三十を越えていなかった。女性で、その若さで、教授、というのはただ者ではない。

 実際ただ者ではなかった。連合には飛び級制度があるから、成績さえ良ければ、どれだけ年齢が低かろうと、上の学年に進むことは可能である。彼女は十で高等学校を卒業し、十二で大学を卒業し、十五の歳で、博士号を取った。

 そのまま大学に留まり、研究を続け、講師-助教授-教授の階段を上がるのに十年かからなかった。

 しかもその間に、子供を作って産んでいる。しかもその相手が、十五も年上のデカダ通運の会長だったというから周囲は驚いた。

 シルベスタが後で、当時母親と同僚だったという人物に聞いたところによると、彼女は「知的興味に引っかかって何となく」既に妻も子も居たヴォータル・デカダ氏と付き合い、「まあそんな気はしたけど」自分を身ごもってしまい、「そうなったら仕方ないでしょ」と簡単に産むことを決意したという。

 その話を聞いた時シルベスタは脱力した。あまりにもそれが彼女らしすぎるからである。

 母親は、徹底して真っ直ぐな人だった。

 まあ今も生きてはいるし、時々彼も会ってはいるが、全くと言っていい程その基本的性格は変わらない。きっと世界が終わる時になっても変わらないのではないか、と彼は思わずにはいられない。

 そして彼が帝国史に興味を持つ原因もその彼女だった。

 まだ母親と暮らして居た頃、何よりも印象深かったのは、無茶苦茶な量の本だった。

 家そのものは広かった。

 だが空間というのは、使う人によって広くも狭くもなる。

 そういう意味で言うなら、その家は、狭かった。彼は父親の屋敷に引っ越してきて、どうしてこんなにがらんとしているのか、と不思議になったくらいである。

 その理由ははっきりしていた。本だの紙だのの量である。

 母親は、物理学の教授であったが、それは物理学がたまたま彼女の興味のある物事の中でスピーディに進む物事であったからに過ぎない。

 興味は異常に幅広かったし、他の人々よりはどんなものも理解度は速かった。おそらく他の分野もその気になればある程度の学位がもらえたに違いない。だがそういう欲はない人だった。

 そんな訳で、家には様々な分野の、いろいろなサイズの、いろいろな形の本が、棚だけではなく、床にもテーブルにも、所構わず置かれていた。

 すごいな、と彼が思ったのは、掃除をするハウスキーパーがどれだけ配置を変えても、母親が何も動じずにさっさと似たような本の中から必要なものを見つけだしてしまうことである。

 床に座り込んで、煙草をふかしながら内容に没頭してしまうと、ハウスキーパーから邪魔がられて、テーブルの上に避難して続きを読んでいることもあった。

 ただそんな時でも、シルベスタが近付くと、目は本から離さずとも、手だの足だので相手をしてやることだけは嫌がらなかった。

 そういうひとだから、案外自分も変にぐれたりしなかったんだなあ、と彼は後に思った。あぐらをかく膝の上にちょこんと座り込むと、ちゃんと腕を回してくれたし、無意識かもしれないが、煙草も近くの皿に――― その場合灰皿である必要はない――― もみ消していた。

 そして時々気が向くと、息子が理解できるかなど構わずに本の内容の説明を始めるのだ。

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