ラーメンと酔っ払い


4.

 飲み会当日──わざと遅刻して行ってやったら、ほとんどのゼミメンバーができあがっていた。

 帰ろうと思った。

「待って待って、菊池さん」

 呼び止められたら、顔を真っ赤にした鳥羽が目の前に立っていた。

 これから酔っ払いに絡まれるのかと思うと、帰りたい気持ちもより一層強くなる。

「外行こう、外。店の中うるさいし」

「私、帰ります。飲み代は渡しといて下さい」

 財布を取り出そうとした私を、鳥羽は制した。

「そんなの僕が払っておくから。ほら、ちょっと涼もう」

 涼むには……真冬の夜は寒すぎるんですけど──


 それから……、あれよあれよと、いつのまにやら鳥羽にラーメン屋に連行されていた。

「いや、寒いね、外」

「当たり前じゃないですかっ! 今一月ですよ?!」

「いや~、飲み屋の暖房があまりにも効き過ぎててさぁ……」

 赤みを帯びた頬で、メニューも見ずに、鳥羽の横顔はへらへらと笑っている。

「ゼミのメンバー、なかなかに面白い面子だね。これはさぞ教授も楽しかっただろうに」

「ちょいちょいサボる人もいますけどね」

「君は当然ながら……皆勤賞だったんだろうな」

「まあ……」

「進級論文のテーマ、小川未明だって?」

「はぁ……」

「ここからじゃ星は見えないね。彼らは今、一体どんな話をしているのだろう?」

 それは、盲目の星が出てくるあの童話の事だ──と、理解するのに少々時間を要した。

「僕も彼をテーマに論文を書いたよ」

「え?」

「卒論だったけどね」

 出されたおしぼりをいじりながら、鳥羽は窓の外の夜空ばかりを見上げている。

「日本のアンデルセンと呼ばれていた……って堂本教授から聞いてさ、すっごい気になったの──今でも覚えてるよ」

「教授の影響ですか……」

「おそらく君と一緒だよ」

 鳥羽はやっとメニューを手に取った。店主がこちらをジロジロ見ていたからだ。

 適当に店オススメのラーメンを二つ注文すると、鳥羽はぐるりと私の方を向いた。

「菊池さんも教授の影響とは思うけど……改めて、どうして小川未明なの?」

「え……えっと、なんか、お話全部が凛としているというか……、ほとんど短編だからすごい読みやすいし。盲目の星が運命決めてる、とか、発想すごいし」

「そうなんだよ! すごいよね!!! 昔の人の発想はすごいよ! 今やっと蟹工船とか見直されてきてるけどさ、やっぱり近代文学って深いと僕は思う!」

 突然の大声。

 やっぱり酔ってる……。

 私はため息をつきながら、鳥羽の、空になったコップに水をついでやった。


「僕はね、幸せだったんだ」


 コップを握りしめながら……鳥羽は視線を落とした。

「あの人の元で学べた事、誇りに思ってる」

 酔っ払いは、やけに饒舌だ。

「だからさ、あの研究室に入った途端、実は号泣したんだ。何もかも変わってなかったから……」

 泣いた?

「泣いたんですか?!」

「うん。泣いた。そしたらさ、同じ様にあの部屋で号泣した生徒がいたって聞いて……。だから──君に会ってみたかったんだ。堂本教授に恋した女の子は、一体どんな子だったんだろうって。……ごめんね。うっとおしく絡んだりして。僕は……もしかしたら、この喪失感を君と共有したかったのかもしれない」

 申し訳なさそうな顔で、鳥羽はおもむろに、胸ポケットから何かを取り出した。

「……眼鏡ケース?」

「教授のデスクの引き出しの奥の奥に入ってた」

「やだっ。ちゃんと整理したつもりだったのに……」

「実は……こっそり貰ってしまおうかと思ってたんだけどね、君にあげるよ」

「え?!」

「僕には『卒業祝い』があるからね」

 いたずらっぽく笑った鳥羽を見て、「ずるい!」と叫んだ自分を思い出した。急に、恥ずかしくなった。

 恥ずかしくなったら、ラーメンがいつのまにか目の前に置かれていた。

「さ、食べようか。美味そうだ」

 箸を割った鳥羽を横目に、貰った眼鏡ケースを開いた。


 そこには、堂本教授がいた……──


 正しくは、教授の眼鏡が……入っていた。

 あの……丸い、いつもの、老眼鏡。

「ぃやだ……」

 いつのまにか……私はぼろぼろと泣いていた。

 鳥羽は黙って、ラーメンをもくもくと食べている。


 堂本教授はもういない。

 私の愛していた人は、もういない。

 だけど……心の中には、ずっと……──


「……茶わん蒸し」

「え?」

「茶わん蒸し、今度……持っていきます」

「茶わん蒸し?」

「これのお礼、ですっ」

 私は涙を無理矢理袖で拭うと、やっと割り箸を割った。

 ラーメンは少し、伸びていた。


ずっとすがっていたかった。

 喪失感に浸っていたかった。


 だけど……それじゃぁ、前に進めない。

 進めませんよね? 堂本教授……──

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