◇葉桜の君に◇

ぎざ

第1話

 幼い頃の思い出……。

 春のあたたかな光の中で、私は地面に寝そべっていた。

 隣には私の初めてのカレが、しゃがんで地面に字を書いている。


「あき…た、よ……うた?」


「そ! 漢字だと、そう書くんだ。かっこいいでしょ?」


 公園の土に木の枝でなぞって、彼の名前の書き方を教えてもらった。その頃は漢字が四文字も並んでいてもよくわからなくて、ひらがなで書いてもらって、ようやく読めてた。

 彼のその字を今でも覚えている。


「わたしのなまえはね」


 次は私の名前を書く番だ。私は彼に教えるために頑張って字を練習したんだ。

 その時、一陣の風が吹いた。


 その公園には大きい桜の木があった。なぜ私がその木のことを覚えているかと言うと、その木に私の自己紹介を邪魔されてしまったからだ。


 その風は私の手から木の枝を奪い去り、なおかつ彼の目線を私から奪った。


 桜の花びらが空に舞い上がった。

「うわぁ!!」


 今で言えば何ら珍しくない、公園に吹いた小さな竜巻。桜の花びらを巻き込んだ桃色の小さな竜巻は、彼の注意をそらすことに成功した。なんてやつだ。


 彼はその竜巻の中心に入るために、その竜巻を追いかけて向こうに走って行ってしまった。その彼と竜巻の追いかけっこを眺めてため息をつく。

 もう、楽しそうで何よりですこと。


 私は彼が書いたその名前を覚えるために、地面をじっと見つめた。

 ふと、いいことを思いついた。

 彼の苗字の隣に、私の名前を書いてやるんだ。これで、彼はびっくりするかな。


 吹き飛ばされた木の枝を探してきて、私はもう一度、足元に広がるこの大きな婚姻届けにサインすることにした。




 ◇


春川はるかわ……、春川!」


「は、はひっ」

 反射的にヨダレをぬぐった。


 目前には授業中の光景が広がっている。

 おかしい。さっきまで、春のうららかな公園で遊んでいたはず。


「春川、おまえ、寝てたな?」

 先生が近寄ってきて、私の額を小突いた。

「ね、寝てません。考え事をしていたんです」


「ほぅ、なら、この問題、わかるな?」


 考え事をしていたイコール黒板の難問を解ける、だなんてどういう理屈なんですか先生。と反論するのもできるけれど、残念ながら私は寝ていたのだから論破される。私の負けだ。

 ならば、その負けを可能な限りぎりぎり勝ちにするにはどうするか。この問題を華麗に解くことだ。こいつ、寝てても解けるのか、デキル。と、思わせること必至だ。


 先生はにやにやと、まるで解けないのを楽しんでいるかのように笑う。

 私だって、いざとなったら色々とできるのだ。


 私は隣の隣の席にいる親友に目配せをする。友達はアイコンタクトですべてを察し、手に持つ消しゴムを左に落とした。わざと落としたようには見えないその演技、助演女優賞は彼女の物だ。

 そして、私たちの間で、左に消しゴムを落とすことは答え『イ(2番目の選択肢)』という暗黙の了解が存在する。


 私は高らかに宣言する。

「答えは2番です!!」


「ほう、そうか。『2番』か」


 私は黒板に書いてある文字をよく読むと、愕然とした。

 黒板には、クラス委員長を誰にするかが議論されていた。

 そして、2番目には私こと、『春川はるかわ 桜子さくらこ』の文字が。


 いつの間に!? 私は立候補なんてしていない。なぜならば寝てい……思案にふけっていたから。

「ちょっとどういうこと!?」

 私は隣の隣の親友に猛抗議をした! 親友はピースをして笑っていた。


 してやられた! せめて黒板の文字は読んでおくべきだった。

「今、大事なクラス委員長を決めようとしていたんだがな、誰も立候補しないんで、今寝ている生徒の名前を黒板に書いて、誰がいいかを起きている人たちで考えていたんだが、まさか自分で自分を推すとはな。よし、春川、お前がクラス委員長だ」


 これで早く帰れるぞー! と担任の先生は言い、クラスのみんなはいえーい! と叫んだ。

 私の高校のクラスは3年間クラス替えも無ければ、先生も変わらない。2年目の春ともなれば、みんな仲良しだ。誰が何を考えているかなんて手に取るようにわかる。私ははめられたんだ。早く帰りたいがために、白羽の矢が立てられてしまったのだ。


 おそるべし親友!! にくむべき担任!!


「じゃ、春川は放課後、日誌を提出すること。以上! 解散!!」


 わらわらと散るクラスメイト。

 親友もふふふと笑って、さっさと帰ってしまった。


「はいよ、日誌。渡しておくぞ」


 担任は日誌をポン、と私の机の上に放ると、そのままスーツの上着を肩に背負って、教室を出て行ってしまった。日誌には、日付と今日の時間割と、気温、天気、気になったこと、などを書く。まったく必要のない日課だ。


 天気、晴れ。気温……スマホで確認する、最高気温23度。あったかいわけだ!

 担任、秋田あきた 葉太ようた

 記入者名、春川 桜子。


 気になったこと。

 それは私の子供の頃、恋人ごっこをしていた彼の名前と同じ人が、クラス担任をしているということ。

 同じクラスになってはや2年目。それなのに、何にも言ってこない。

 というかですね、あんなぶっきらぼうで、がさつで、マイペースで、優しくない人じゃなかったと思う。

 もっと紳士的で、優しくて、かわいくて、ステキな彼氏だったと思う。もう、十年近く経っているわけだから、人間変わっちゃうわよね。はぁ、憂鬱。


 ま、それは日誌には書かないけどさ。

 気になったこと、とくになし。

 と、書くのはもったいないから、私は教室の窓から外を覗いた。春の生暖かい風が、教室内の張り紙を揺らす。黄色と桃色のチョークの粉が舞う。私は窓を閉めた。窓を閉めるのもクラス委員長の役目だ。


 今日は桜がきれいでした。

 小学生か、と言われそう。多分、明日もきれいだし。

 間違ってないもん。きれいって思うことが大事。思ったことを、言葉にするのが大事なの。あー、きれい。あー、あったかい。あーだるい、ねむい。


 私はあくびをした。さ、書くこと書いたし、早く日誌出して帰ろっと。






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