希望、小五。そのご

「望! 何やってんの!」

 久しぶりに聞いたママの怒鳴り声に、一瞬で空気が凍り付いた。脊髄反射で振り返ったノゾムの顔は、完全に青ざめている。吊り上がっていたママの眉が、急に垂れ下がった。ノゾミの前でしゃがんだママは、僕を取り上げた。

「ダメじゃないのノゾミ。おとなしくしてなくちゃ。何かあったら、どうするの? 看護師さん達が心配していたよ」

 ママは、僕をノゾムに渡して、ノゾミの背中を押す。ノゾミは、泣き出しそうな顔で、僕の頭を撫でた。

「ホップまたね。望ありがとう」

 ノゾミは、肩を落として、トボトボと病院へと歩いて行った。

「望。ここで待ってなさい。分かったわね?」

 ママとノゾミが病院へと入っていく。ノゾムを見ると、鋭い視線で病院の出入り口をにらみつけていた。僕は、ハラハラしてどうすれば良いのか分からない。このままでは、ノゾムがママに叱られてしまう。入院しているノゾミを外に連れ出すのは、いけない事なのだろう。それでも、ノゾムは、ノゾミの為にやったのだ。勿論、僕も嬉しかった。これまで順調だったのに、最後の最後で失敗してしまった。作戦内容の見積もりが甘かったのかもしれない。予期せぬトラブルを計算に入れていなかった。

 僕が、狼狽えていると、病院からママが出てきた。ゆっくりとこちらに近づいてくる。どうしよう、どうしたら良いのだ。ノゾムの僕を抱える手に力が入っている。しかし、ノゾムは、この場から一歩も動かない。ママは、僕達の前で立ち止まると、厳しい表情で見下ろしている。

「望。何か言う事はない?」

「・・・別にないよ。悪い事をしたとは、全く思ってない」

 ママとノゾムは、暫く無言のまま睨み合っている。すると、ママが大きく息を吐いた。

「ここまでは、どうやってきたの?」

「自転車と電車とバス」

「ノゾミに何かあったらまずいとは、考えなかったの?」

「何かって何? 死ぬまで、ベッドに縛りつけとけば満足なの?」

「死ぬとか言わない!」

「・・・チッ・・・自分が言わせたんじゃないか」

 小さく舌打ちしたノゾムは、小声で悪態をつく。ママはノゾムの態度に立腹しており、見る見る顔が険しくなっていく。ママはママで、ノゾムはノゾムで、色々とため込んでいるものがあるのだろう。ママもノゾムも、ノゾミが大好きで大切に想っている。愛情を持っている。その表現方法が違うだけだ。目的は同じなのに、目標が違う。

「ノゾミは、ホップに会いたがっていた。ホップだって、ノゾミに会いたがっていた。でも、ホップは病院に入れないから、ノゾミに出てきてもらった。ノゾミは、ホップに会えて本当に嬉しそうだった。良い顔してた。あんなにも楽しそうなノゾミの顔は、久しぶりに見た。僕も嬉しかった。それだけで、僕は満足だ。怒りたければ勝手に怒れば良いよ。二人を合わせる事ができたんだから、もうどうでも良い」

 そんな言い方をしたら、火に油だよ。

「なんなのその態度は!? いい加減にしなさい!」

 ママの怒りの論点がズレている。きっと、ママもノゾムの行動に対して、それほど怒っていない気がする。ノゾムが素直に謝れば、すぐにでも和解できるはずだ。ママは、振り上げた矛を収める切っ掛けがないだけだ。ママには、余裕がないように見える。ノゾムよりもママの方が、切羽詰まっているように見える。何が悪くて、何が正しいのか。いつもの優しくて、冷静なママではなくなっている。ノゾミの事で、そうとう追い込まれているのかもしれない。でも、ママ思い出して、ノゾミもノゾムも可愛い子供だよ。どっちも大切でしょ? ストレスのはけ口にしないでよ。

 ノゾムを睨み続けるママと、そっぽを向いているノゾム。打開策がまるで思いつかない。ひりつくような時間が、いたずらに過ぎていく。すると、業を煮やしたママが、右手を振りかぶった。僕は、全身に力を込めて、体を捻った。慌てて僕を抱き直そうとするノゾムの手から逃れ、地面に着地した。ママと対峙する。

「ママ! それは違うよ! どうして、叩くんだよ!」

 僕は、全力で叫んだ。ママに向かって、牙を剥き出しにして、叫び続けた。そんなの大好きなママじゃない。そんな姿見たくない。こんな二人の姿を見たノゾミは、何を思うだろう。今の二人がいる家に、帰りたいと思えるだろうか? 絶対に思わない。すぐにでも、帰りたいと思える家じゃないとダメだ。ずっと、一緒にいたいと思える家族じゃないとダメだ。ごめんね、ママ。でも、ママは間違っている。

 僕の姿にママは、凍り付いたように固まっていた。怯えた表情を顔面に張り付けて、振りかぶった手が宙に浮いている。そして、全身の力が抜けるように、ママの腕は下がっていき、芝生に尻を付けた。両手で顔を覆い隠すと、次第に泣き声が溢れてきた。胸をナイフで突き刺されたような痛みが走った。ゆっくりと、ママへと歩み寄り、膝先で見上げる。手から零れ落ちる涙が、ズボンを濡らしていた。僕が、か細い声を出すと、ママは僕を抱え顔を埋めた。僕の体は、涙や泣き声を隠すには、丁度良いのだろう。親子そろって、同じ事をしている。ノゾムを見ると、顔を叩かれたような引きつった表情を浮かべていた。ママのこんな姿を見たのは、初めてだろう。ママを泣かせたかった訳じゃない。

「望・・・望・・・ごめんね」

 絞り出すようなママの声に、胸が熱くなった。ノゾムは、次第に表情を崩し、声を出して泣き出した。そして、ゆっくりと僕とママの前までやってくると、ペタリと座り込んだ。ママもノゾムも緊張の糸が切れたようだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 ママは、両手を伸ばして、ノゾムを抱き寄せた。僕は、ママとノゾムに潰され少し痛いけど、全然嫌な気分ではない。むしろ、ホッと胸を撫で下ろしている。

 すれ違って誤解して、勘違いして思い込み、相手の為と思いつつ傷つけて、相手の為と言いつつ自分の為だったりする。何が正しくて、何が間違っているのか、模索して失敗する。

 家族だからと言って、何もかも分かり合える訳はなく、自分の思い通りになる訳もない。ママやパパだって、人間だから悲しい時も苦しい時もある。大人だからとか、子供だからとか関係なく、互いが支え合える距離にいる事が大切なのだろう。

 勿論、楽しい事ばかりではない。嬉しい事ばかりではない。それでも、僕も家族の一員として、中に入られた事を嬉しく思う。

 ノゾミの事で、ママもノゾムもパパも、不安で不安で仕方がなかったに違いない。もっと沢山話をして、もっと沢山の時間を共有して欲しい。

 僕は、そんなみんなと一緒に居たいんだよ。

「ありがとね、ホップ。さすがお兄ちゃんだね」

 ママが僕の頭を優しく撫でる。最高のご褒美だ。

 ホップ君は、いいお兄ちゃんだね。

 イチカさんの声が聞こえた気がした。

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