希望、小五。そのさん
次の日の土曜日。学校は休みだ。本日、作戦を決行する。病院までの行き方は、ノゾムがインターネットで調べて、電車とバスを乗り継ぐそうだ。いつもは、ママやパパが運転する車で向かっている。今日パパは、休日出勤らしく、朝から家を出ていた。
昼食をママとノゾムが食べている。僕も自分の部屋で、専用のお皿に顔を突っ込んでいた。
「望? ご飯食べたら、希のお見舞いに行くけど、一緒に行く?」
「ああ、予定あるから、僕はやめておくよ」
「・・・そう」
ママは残念そうな顔で食器を片付け、洗い始めた。ノゾムは、二階へと上がって行った。ごめんね、ママ。ノゾムの『予定』には、僕も加担している。家事と支度を終えたママが、二階にいるノゾムに声をかけた。上からの返事を聞いて、ママが玄関へと向かった。僕は、玄関までママをお見送りする。
「じゃあ、お留守番よろしくね。それから、望の事もお願いね」
僕の頭を撫でたママは、優しく微笑んだ。しかし、どことなく、影を落としているような気がする。ママもきっと色々思い悩んでいるのだろう。ママは大好きだ。でも、僕は―――後ろめたい気持ちを抱えながら振り返ると、ノゾムが様子を窺うように階段から顔を出していた。
「ママ行ったね。よし、少し待って僕達も出発しよう」
ノゾムは、僕を入れる大きなカバンをテーブルの上に置いた。椅子に腰かけ、財布の中身を確認している。ノゾムは何度も何度も壁に掛けられた時計を見ていた。そんなに頻繁に時計を見ても、動く速度は変わらない。
「病院までは車で四十分くらい、それからママは一時間くらい病院にいる。僕達は、自転車で駅に行く。だいたい、二十分くらい。電車に三十分くらい乗って、それから病院まで行くバスが十分くらい。乗り継ぎを考えても、一時間と少しくらいで病院に着く。それから、ママが病院から出てくるのを待ってから、ノゾミを外に連れ出す。その間、ホップはベンチがある広場で待っててね。芝生が生えていて、ベンチもあって、綺麗な広場なんだよ。病院の敷地内にあるんだ」
ノゾムが作戦を僕に告げている。なんだか、大雑把な作戦だと思ったけど、少し驚いた。僕はてっきり、カバンに入ったまま病院に突入するのだと思っていた。強硬手段に出るのだと。でも、これはノゾムなりに考えた優しさなのだろう。先週、動物が病院内に入ってはいけない理由を、ママが教えてくれた。動物としてカウントされるのは釈然としないが、アレルギーを持っている患者さんがいるかもしれない。犬が苦手な人がいるかもしれない。ノゾミが最優先だと言っていたが、ちゃんと他者の事を考えられる優しさと余裕があって安心した。
「さて、そろそろ準備して、出発しよう」
ノゾムは、椅子から立ち上がって、冷蔵庫の中から水のペットボトルを二本取り出した。カバンの口を開いて床に置くと、僕は中へと入った。おや? 中に入ってすぐに違和感を覚えた。カバンの底には、タオルが何枚も重ねて敷いてあった。居心地を少しでも良くしようとしてくれたようだ。カバンの中から見上げると、ノゾムはペットボトルを入れた。
「カバンの中が暑くならないと良いんだけど。水も飲ませてあげるからね。でも、カバンの中でオシッコはしないでね」
しないよ。でも、ありがとう。僕は、暑いのは苦手だ。この愛くるしい全身を包むモフモフは、良い事ばかりではない。
ノゾムはカバンを担いで家を出ると、自転車の前かごに僕を入れた。途端に、カバンの中が窮屈になった。激しい振動に体が揺さぶられて、目が回りそうだ。体のあちこちが痛いけど、我慢の一択だ。右左折や停車を繰り返して、体が持ち上がった。駅に到着したのだろう。カバンの口は少し空いていて、外からの光が差し込んでいる。駅という場所を見た事がないので、小さな隙間から顔を出そうとした。しかし、好奇心と一緒に、ノゾムに頭を押さえつけられた。
「顔出しちゃダメだよ。怒られるかもしれないからね。もう少ししたら電車が来るから、電車の中では顔も声も出さないでよ」
ノゾムはカバンの小さな口に手を入れてきて、ペットボトルを抜き出した。ゴクゴクという喉を鳴らす音が聞こえた。それから、カバンの口からノゾムの手が入ってきた。手にはペットボトルの蓋が持たれていて、水が入っている。僕は、遠慮がちに舌を伸ばして、水を飲んだ。
悲鳴のような叫び声が耳を劈き、体が跳ね上がる。プシューという空気が激しく漏れ出る音が続いた。外の光景が、まるで想像できず、不安が積もっていく。運命共同体と言うべきか、命運を握られていると言うか、兎に角ノゾムに託すしかない。もはや諦めにも似た気持ちで、静かに目を閉じた。揺らされ、持ち上げられ、置かれ、僕は息をひそめて、立派に荷物を演じきった。
「ホップ、大丈夫? 着いたよ」
カバンの口が大きく開かれ、まぶしい光とノゾムの顔が目に映った。カバンから顔を出して、辺りを見回す。地面が芝生に覆われていて、頭上には大きな樹木が手を広げていた。ここが、ノゾムが言っていた病院の敷地内にある広場なのだろう。広場と聞かされて、近所の川沿いの広場を想像していたけれど、こちらの方が手入れがいき届いていて綺麗だ。あちらと違って、ゴミが落ちていない。広場の隅っこに生えている大きな木の下で、腰を下ろしたノゾムの膝の上に座っている。周囲の目から逃れるように、木陰に身を潜めている。息苦しさから解放されて、大声をあげて走り出したい。でも、そんなことをしたら、ノゾムの作戦が台無しになってしまうから、やはりここでも我慢だ。ノゾムが水をくれ、少し落ち着いた。
あの大きな建物が病院なのだろう。あそこに、ノゾミがいる。早く会いたい。でも、焦りは禁物だ。顔を上に向けると、ノゾムの顎が見えた。遠くの方を眺めているようだ。ノゾムの視線の先を目で追ってみるけど、よく分からない。きっと、ママの姿を探しているのだろう。ノゾムは、しばらくの間、僕の頭をなでながら遠くを見ている。
「あ! ママだ! よし! 作戦通り!」
ノゾムは、膝の上で小さくガッツポーズをする。ゆっくり立ち上がって、木の陰から顔を半分だけ出していた。なんだか、楽しんでいるように見えた。ママが病院から出てきたようだ。
「そこの道をママが車で通り過ぎたら、ノゾミを迎えに行くからね」
ノゾムの腕の中で、実況中継を聞いている。ノゾムの鼻息が荒くなっていた。
「あ、あれだ! ホップ、カバンに入って」
ノゾムに抱えられ、地面に置かれたカバンの中に入れられた。ノゾムの顔が、徐々に隠れていく。
「急いでノゾミを連れてくるから、おとなしくしていてね」
小さく空いたカバンの口から、鼻を出してスンスンと匂いを嗅いだ。ノゾムが離れていく。すると、ノゾムが立ち止まった。どうしたんだろう?
「爆弾と間違えられて、警察に通報されないかな? そんな訳ないか」
ノゾムの匂いが遠ざかっていく。おい、冗談じゃないぞ。ハラハラドキドキしながら、僕は小さくなっていた。芝生を踏む音や、草木が揺れる音にも過敏に反応してしまう。ノゾムが余計なことを言うから、不安になってしまった。自分の心臓の音が、やけにうるさく感じた。
「あらあら、一人でお留守番? おチビさん」
突然の上からの声に、心臓が飛び出しそうになった。
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