希望、小五。そのに
僕とノゾムがいる川沿いの広場は、周囲の住宅街よりも低い位置にあるので、夜の訪れが少し早い。ノゾムの体に溜まった不安や悲しみが解消された訳ではないだろうけど、様子を伺うに少しは落ち着いたようだ。あまり遅くなると、ママとパパが心配するから、そろそろ帰った方が良いだろう。僕は、首を捻ってノゾムの腕を舐めた。本当は頬を舐めてあげたかったけれど、ノゾムに体を押さえられ舌が届かない。ゆっくりと顔を上げたノゾムであったが、暗くて表情は見えなかった。きっと、ノゾムも顔を見られたくないだろうから、丁度良かったかもしれない。
「あ、いつの間にか、暗いね。ホップありがと。帰ろうか」
ノゾムは、僕を優しく地面に着地させ、尻を払っている。腕で目元を擦っているのは、見なかった事にする。我が家に向かって歩き出し、ノゾムは黙って後ろをついてきた。家に到着して、ノゾムが僕の足を拭いてくれた。
「おかえり。もうじきご飯できるから、少し待っててね」
「うん、できたら呼んで」
ノゾムは、リビングを通過して、階段を上っていった。ママとパパの顔を見ると、二人とも悲しそうな顔をしていた。ママもパパも、ノゾムと話がしたかったのではないだろうか? ママもパパも、ノゾムといる時は、極力明るく努めている。それは、ノゾムを不安にさせない為だろうけど、無理をしているのが伝わってしまっている。家族の一大事なのに、ノゾムを蚊帳の外に追いやっている。その疎外感に、ノゾムは敏感に反応している。
ノゾムは、まだまだ子供だけど、ママとパパが思っている程、子供ではないような気がする。ママとパパが抱えている不安や悲しみを隠そうとする程、ノゾムの中に暗闇が溜まっていく。不安や悲しみ―――その正体は、ノゾミの病気であって、ノゾミではない。
―――希がいなくなった時の、予行演習をしているみたい。
先ほど、ノゾムが零した言葉が、耳に張り付いて離れない。ママとパパに教えてあげたいけれど、そんな事出来るはずがない。みんながみんなを守る為に、みんなを苦しめているようで、居た堪れない。ママとパパだって、ノゾムを守る為に必死なのだ。ノゾミを守る為に必死なのだ。一方的にではなく、もっとお互いに支え合えたら良いのに。家族なんだから。弱みを見せられたら、ノゾムはもっと頑張れる子だよ。
夕飯が出来上がり、ママがノゾムを呼びに行った。一つ空いた席を気が付かないフリをして、三人は食卓を囲む。パパが盛り上げる為に話をしているが、ママが無理に合わせているのが見え見えだ。ノゾムの空返事が、パパの心を折りそうだ。
何とかしなくてはと、僕はご飯を早々に切り上げて、食卓の周りをウロウロするけれど、結局ウロウロする事しかできなかった。ノゾムが座っている椅子の隣で、見上げている。すると、箸を置いたノゾムが、僕を持ち上げて膝の上に乗せた。テーブルの下から顔を出すと、ママとパパが驚いた表情を見せている。ハラハラして居心地が悪かったけれど、ママの怒声は飛んでこなかった。
「今度の希のお見舞いに、ホップを連れて行っちゃダメかな? ホップも希に会いたいだろうし、希だって絶対にホップに会いたいはずだよ。希が元気になると思うんだよね」
ノゾムが僕の頭を撫でながら、ママとパパの顔を見ている。顔を前に向けると、ママとパパは互いに見合っていた。
「そうしたいのは山々なんだけどね、それはダメなんだよ」
箸を置いたパパが、眉を下げている。ママも箸を置いて、小さく頷いていた。
「どうして?」
「そういう決まりなんだよ。病院の」
「ふーん、病院の決まりなんだ」
ノゾムは僕の脇を抱えて、腕を伸ばした。どうして、このタイミングで高い高いをされているのか分からない。
「そうよ、ノゾム。病院には、沢山の患者さんがいて、犬が苦手な人もいるからね。それに、アレルギーを持っている人がいるかもしれない。患者さんに何かあったら、大変だからね」
「ふーん、そうなんだ。分かったよ。ごちそうさま」
僕を抱えたまま立ち上がったノゾムは、階段を上っていく。
「あのね、ノゾム! ノゾムの気持ちはよく分かるんだけどね! でもね」
「うん、だから、分かったって。もう良いよ」
階段の途中で立ち止まったノゾムは、ママの声を遮るように振り返った。ふてくされている様子はまるでなく、聞き分け良く冷めた目を向けた。ノゾムは僕を抱えたまま階段を上がっていく。チラリと下を見ると、ママとパパからの悲しそうな視線を感じた。それと、どうすれば良いのか分からないといった戸惑いも交っている。
階段を上ってすぐ右手がノゾムの部屋だ。僕はベッドの上に下ろされた。隣に座ったノゾムが、頭を掻きむしっている。あまりの勢いに、髪の毛が無くなってしまわないか心配になった。一目で理解できてしまう程、苛立っている。
「決まりってなんだよ。希の為に何かしてやりたいと思わないのかよ。決まりと希のどっちが大切なんだ。他の患者と希のどっちが大切なんだ。決まりって最初から諦めてんじゃねえよ。百回でも千回でもお願いしたのかよ。何もしてないくせに、分かった風な事言って、諦めてるだけじゃないか」
ノゾムはベッドに腰かけ、頭を抱えながら、ブツブツと恨み言を吐き出している。言っている内容は悲しくなるようなママパパ批判だけど、それでも僕に吐き出してくれているのは嬉しい。きっと、先ほどの川沿いの広場で、僕に吐き出した事で幾分かスッキリしたのだろう。独り言を呟くよりも、例え返答がなくても誰かに聞いてもらった方が、精神衛生上良いのかもしれない。
ノゾミも僕に色々話してくれていた。だから、ノゾムも僕にドンドン話して欲しい。聞いてあげる事しかできないけれど、嬉しい事も悲しい事もなんでもこいだ。暫く、ノゾムの声に耳を傾けていると、いつの間にか文句はなくなっていた。今では、どうやって僕をノゾミに合わせるかを考えていた。やっぱり一番考えている事は、ノゾミの事で、お姉ちゃん想いの優しい弟だと感心した。ふと、思い立って、顔をノゾムからクローゼットへと向けた。あれはいつの事だったっけ? 僕は、ベッドから飛び降りてクローゼットの前で座った。そして、クローゼットを爪でガリガリと引っ掻いた。
「ん? どうしたの? クローゼット?」
振り返ると、ノゾムがこちらに歩み寄っている。僕の隣に来たノゾムがクローゼットを開いた。確か上の方にあったような。ああ、そうだ。あれは旅行かなんかへ行くとかで、ノゾムがそこらじゅうをひっくり返していた。僕は、首を最大限に伸ばして、クローゼットの上部を見る。だけど、僕の位置からでは、見つからない。
「上? 上に何かあるの? 別に大した物なんかないけど・・・あ!」
ノゾムは、クローゼットの上の棚から、大きいカバンを引っ張り出した。
「そうか! カバンか! これなら」
ノゾムはカバンの口を開いて、床に置いた。僕は、スルスルとカバンの中に入った。そして、中からノゾムを見上げる。ノゾムは僕が入ったカバンを持ち上げて、肩にかけた。
「なるほど! これなら、バレない! 流石ホップ! 天才!」
ノゾムはカバンをベッドの上に置いて、中から僕を取り出すと、頬ずりして大喜びだ。
「後は、病院までの行き方を調べるだけだ。病院の名前は分かるから簡単だよ。いつ行こうか」
ノゾムは、赤ん坊をあやすように僕を抱きながら、天井を眺めている。僕とノゾミを合わせる作戦を考えているようだ。
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