希望、小四。そのご
それから僕は、連日ノゾミの練習相手になっていた。未だに、もう一文字が言えていない。夕方になって散歩に出かけ、ノゾミは毎回辺りをキョロキョロしている。きっと、シズヤ君の姿を探しているのだろう。そして、溜息をこぼしながら、帰宅するのだ。ノゾミのポケットには、いつもお守りが入っている事を知っている。健気過ぎて、ノゾミを見ているのが、悲しくなってきた。朝でも夜でも、シズヤ君の家の前で待っていたらいいのに。そう思ったけれど、ノゾミはあくまでも偶然を装いたいようだ。そして、自分で渡したいらしいから、タクミ君に頼む事もしない。なかなかに、難しい。
お守りを購入して、一週間くらいが経っていた。例の如く、落胆したノゾミと散歩をしていて、公園に差し掛かった。公園のベンチでは、タクミ君とミマが話をしていた。ランクはもう、ミマに向かって吠えてはいない。前に会った時に、もう大丈夫だと伝えておいた。僕の勘違いで、申し訳ない事をしてしまった。でも、ミマに対する申し訳ない気持ちは、微塵も湧いてこない。そりゃそうだ。あいつは、嫌いだ。
僕達は公園には入らず、そのまま通り過ぎようとした。しかし、ランクが僕達に気が付いて、元気いっぱい僕を呼んでいた。ランクの姿に、タクミ君も僕達に気が付き、手を上げてくれた。ノゾミも手を上げ返し、そのまま帰ろうとした。
その時、ピンッ! と、閃いた。僕は、猛スピードで走り出した。油断していたノゾミの手から、僕を繋ぐリードがすり抜けた。僕は、全力疾走でランクの元へと駆け寄った。大きな体のランクに覆いかぶされて、死に物狂いで抜け出す。
「ランク、ちょっと落ち着いて! 僕のお願いを聞いて欲しいんだ」
「なになに!? 遊びたいんだけど!」
「ああ! 遊ぼう! ただし、明日の朝だ!」
「えー明日? 今がいい!」
興奮するランクを宥めて、僕は作戦を告げる。まあ、作戦なんて大層な事ではないけれど、単純にシズヤ君を連れ出して欲しいだけだ。明日の朝、この公園に、シズヤ君と散歩をしに来て欲しい。
「いいかい、やり方はこうだ。朝になったら、リードを咥えてシズヤ君を起こすんだ。リードは咥えられる場所にあるかい? この時気をつけなくちゃいけない事は、シズヤ君以外には気づかれない事。他の人が代わりに来たら意味ないからね。大丈夫、シズヤ君は優しいから。それで君に必殺技を教える。いいかい、お願いしたい時や怒られそうな時は、こうするんだ」
僕は頭を下げて、上目遣いでランクを見た。
「これで、だいたい上手くいく。この時、瞳を潤ませるのが、ポイントだ」
「潤ませるって?」
「とにかく、悲しい事を考えるんだ」
その後、ランクに実技指導を繰り返し、作戦を何度も復唱させた。ランクは、あまり物覚えがよくないらしく、なかなか苦戦した。大丈夫かな。ランクは一度飛び跳ねたら、覚えた事を全て零してしまいそうだ。だけど、ランクに頼むしか手はない。
「じゃあ、明日の朝ね。頼んだよランク。明日、沢山遊ぼう」
「うん、分かった! 頑張る!」
後は、上手くいく事を祈るばかりだ。正直、ランクの知性は信用に欠けるけれど、遊びたいという欲求に賭けるしかない。僕は、ランクとスキンシップをはかり、その場から去る。ノゾミは、待ってましたと言わんばかりに、挨拶をして僕についてきた。こう言ってしまえば失礼なのは承知だけど、タクミ君とミマに興味がない。ミマには、僕が直接手を下すのではなく、天罰が下る事を期待する。
そんな事を考えながら、公園から出ていく。一度、後ろを振り返ると、ランクがミマに飛びついて、驚いた彼女がベンチから転げ落ちていた。
あ、祈りが通じた。幸先がよいと、両手足が軽やかに、帰宅した。
世間的には、休日の朝。僕とノゾミは、公園にいた。ご近所さん方もまだ眠っている人が多いようで、静かなものだ。天気もよくて絶好の散歩日和。
頼むぞ、ランク。
僕は、不安な気持ちを押し殺して、木村さんの家を眺めた。太陽の光が屋根に反射して、家がキラキラ光っているように見えた。ノゾミを見上げると、不安そうな顔で、大切なお守りを見つめていた。
数分前に、僕は昨日、ランクに教えてあげた通りに、ノゾミを散歩に誘った。ノゾミは、僕の意図を理解しているように、手際よく支度を済ませた。なんの疑いもなく、僕についてきて、ここにいる。後は、ランクがシズヤ君を連れてきてくれるだけだ。
心の中で、何度も何度もランクを呼んだ。実際に呼んだ方が気づいてもらえる可能性は、大幅に上がるだろう。でも、こんな静かな住宅街の真ん中で、僕が大声を上げようものなら、きっと多くの人に迷惑をかけてしまう。なによりも、相羽家に多大な被害が及んでしまう。なぜなら、僕は相羽家のホップとして、みなに認知されているからだ。大好きな家族の顔に泥を塗ってしまう。もどかしい限りだ。ランクなら、例え家の中にいても、僕の声を拾う事ができるはずなのに。
お願いだ、ランク。
僕が、何十回と名前を唱え続けた時であった。僕の耳が、玄関扉を開く音を捉えた。その瞬間、喜びのあまり一度だけ声を上げた。
「ホップ!」
僕の声に反応して、ランクが声を上げた。そして、諫めるシズヤ君の声。僕は、その場でグルグルと走り回った。
「どうしたの? ホップ」
僕の喜びの舞いに、ノゾミは目を丸くしている。ノゾミは、まだ気が付いていないようだ。
「ちょっと! ランクどうしたんだ? 徹夜明けなんだから、勘弁してくれよ」
ランクに引っ張られるように、シズヤ君が公園に入ってきた。ノゾミがシズヤ君の姿を確認し、両手で口元を覆っている。僕がノゾミの足元に顔を擦ると、彼女は僕を抱き上げた。
「ホップは、本当に凄いね。本当に凄い。ありがとね」
僕に頬ずりをするノゾミの顔は、パッと花が咲いたような温もりがあった。
ああ、僕はねノゾミ。この顔が見たかったんだよ。
「あれ? ノゾミちゃん? おはよう。休みなのに早起きだね」
「うん、おはよう。静哉君も早起きだね」
「早起きっていうか、ほとんど寝てないんだ。朝まで勉強してたらさ、突然ランクが部屋にきて、散歩をせがむんだよ。さすがに勘弁して欲しかったんだけど、ウルウルした目で訴えてくるの。あんな目をされたら、断れないよね。可愛すぎてさ」
シズヤ君は、困ったような嬉しそうな顔で、白い歯を見せ後頭部を掻いている。僕が微笑ましく、二人を眺めていると、ランクが飛びついてきた。分かった分かった、ズタボロになるまで遊んであげるよ。きっと、僕の体のまだら模様は、砂だらけで汚れてしまうのだ。そして、その後、ノゾミにお風呂に入れられるんだ。僕は、お風呂が大嫌いだけど仕方がない。
ランクに襲われている僕は、なんとか二人を見る。世間話で盛り上がっているようだ。僕が小さく声をかけると、ノゾミは小さく頷いた。そして、握りしめていたお守りを差し出す。
「シズヤ君。受験勉強頑張ってね。合格祈願のお守り。これ、よかったら」
ノゾミは、真っ直ぐにシズヤ君を見つめて、練習の成果を発揮した。シズヤ君は、笑顔で受け取ってくれた。
よく、頑張ったね。ノゾミ。
きっと、ノゾミにとっては、大きな一歩を踏み出したのだろう。恋というものが、どうなるのかは、僕には分からない。でも、幸せで楽しい道を歩んでいくのだろう。
パパが名前に込めた、希望に向かって歩いていく。そう願っていた。
しかし―――。
数か月後、ノゾミの体に異変が起こったのだ。
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