120. 母と子


 徐々に気温も下がってくる五月の夕暮れ時。涼やかな風を心地よく思いつつも、スーパーで買い物を済ませ岐路に着く足取りは心なしか重たい。家に帰りたくないわけではなく、単純に肉体的、精神的に疲労が溜まっているせいだ。


 お昼頃まで雪華さんと個室で過ごし、まかないの昼食を食べて午後からは通常の接客に入ったわけだが、今日はかなり繁盛していたため大忙しだったのである。仕事中はあまり考え事に気を取られずに済んだものの、午前中に聞いた話はずっと頭の中で渦巻いているわけで。


 いったいどうしたものかと、実現へのプロセスが全く見通せない大きすぎる難題に先ほどからため息ばかりついている気がする。とはいえ、決めたなら向き合うしかない。相談できる友人もいるし、少しでもポジティブに考えていくしかないだろう。


 もっとも、今の生活は変わらず続いていくため目の前のやることを疎かにはできない。帰宅したらまずは晩ご飯の準備をして――――。


 頭の中でこの後の予定を確認していると、いつの間にか玄関の前まで歩みを進めていた。


 「―――ただいま」


 「おかえり、大也」


 扉を開くと、外の薄暗さに慣れた目が眩しさで驚いて瞼を閉じようとする。それと同時に聞こえてきたのは母さんの声。奥で寝ていないということは体調が良いということなので一安心なのだが、いざその顔色を窺うと別の心配が胸に湧き上がった。


 「・・・・・・母さんなんか怒ってる?」


 「よく分かったわね。少し話があるから手洗ってから座りなさい」


 「分かった・・・・・・」


 ずっと一緒に暮らしているのだから当然分かる。しかし、母さんに知られているであろうことで怒られるようなものがあっただろうか。


 疑問を残しつつも言われたとおり手を洗い、買ってきたものを整理してから席に着く。


 「それで、話って?」


 「今日のお昼頃ね、雪華ちゃんが来たの」


 「え・・・・・・? そ、そうなのか」


 店では何も言っていなかったし、その後連絡も来ていなかったため、俺としては完全に予想外の展開。ということであれば、怒られそうなことも心当たりが出てくる。まさにその直前に話したこと、そして今俺が悩んでいることについてだ。


 ただ、分からないのは雪華さんがうちを訪れた理由。いったい何のために?


 尋ねる前に、母さんが答えを教えてくれた。


 「瑠璃ちゃんに話があったみたいなんだけど、一緒にいたから母さんも話を聞いたわ。そしたら何? 嫉妬してプンプンしてる雪華ちゃん可愛すぎだし、今度お泊まりしていいって許可出しちゃったわ」


 「・・・・・・ん?」


 つまり、マリーさんから先生のことを知った雪華さんが、店を出た後で何らかの手段によって先生がうちに泊まっている現状を知って、先生に話をしに来たということか?


 そして母さんは雪華さんの可愛さに負けて宿泊許可を出したと。


 怒られると思っていたのに、拍子抜けの内容である。いや、俺の知らないところで二人が出会ってしまったことには驚いたが、想定外が重なりすぎて思考が渋滞しているためどう返せばいいのかわからない。


 それでも怒られずに済んだといったん息をつこうとして―――。


 「それに四人も可愛い女の子誑かして、一夫多妻のハーレム目指そうとしてるんだって?」


 それはできなかった。いきなり真剣な雰囲気を醸し出して核心を突いてくる母さんの目は本気だ。下手に誤魔化すのは悪手であるため、ここは正直に自分の気持ちを告げるしかない。


 「それは、その―――――」


 覚悟を決め、説明を始める。


 しかし、それもすぐに母さんに遮られた。


 「みんなと家族になれるなんて最高じゃない!」


 「えぇ・・・・・・。怒ってるんじゃないのかよ」


 ずっと一緒にいてもまったく読み取ることのできない言動に、ただ困惑することしかできない。それでも悩んでいることに対して肯定的であることが分かって、少しだけ安心できた。


 とはいえ、最初に怒っていると認めたのは母さんだ。いったい何を怒っているのか、聞く必要がある。楽しそうにしているので大したことではないのかもしれないが、何を言い出すか分からないので心構えだけして反応を待った。


 「怒ってるわよ。マリーちゃんのこと全然教えてくれてなかったことに!」


 「そこかよ!?」


 「むしろそこしかないでしょ」


 想像の斜め上過ぎて、思わず大きな声を出してしまった。それでも母さんはさも当然だと言わんばかりの様子なので、安心したせいか呆れたせいなのかため息がこぼれてしまう。


 「・・・・・・はぁ。男としてどうなんだって怒られるのかと思った」


 「いち女性として思うことはあるけどね。でもみんなが幸せにやっていけるならそれが一番だし、家族は多い方が楽しいと思うから」


 最近誰かがやってくる機会も増えて、たしかに母さんは元気になったし明るくなった気がする。だからこそ、その言葉には説得力があった。


 とはいえ、現時点ではただの理想論。絵に描いた餅であることに違いはない。


 「上手くやれる自信なんてないし、問題だらけの身勝手な理想だけどな」


 「それもそうね。でも頑張るって決めたなら頑張りなさい」


 「分かってるよ。それと、ありがとな。・・・・・・それで、瑠璃先生は?」


 応援してくれたことへの嬉しさと改めて感謝を伝える気恥ずかしさ、そして話題に上がっていた先生の姿が見えず心配していたことから、少し話題を逸らすことにした。


 すると母さんは自室の方へと視線をやりながら心配そうに説明を始める。


 「菜月ちゃん以外に二人、それも超お金持ちの可愛いお嬢様が出てくるなんて思ってなかったみたいで、混乱してたところに一夫多妻とか持ち出されて脳が限界を迎えたみたいね。寝込んじゃった」


 つまり母さんの部屋で寝ているということなのだろう。俺も頭がパンクしかけた内容なので、そうなってしまうことは理解できた。


 わずかに棘のある言い方をされた気もしたが、からかわれているだけだと信じたい。そしてもう一つ気になったのは、まるでマリーさんの顔まで知っているような口ぶりである。雪華さんが写真でも持っていたのだろうか。


 「・・・・・・あとで謝って話をしないとな。そういえばマリーさんの顔はどこで知ったんだ?」


 「雪華ちゃんが学園のホームページに写真が載ってるって教えてくれたから瑠璃ちゃんのスマホで調べたのよ。生徒会長なんだって。実際に会ってみたいなぁ」


 チラチラと期待のまなざしを送ってくる母さん。連れてこいと言っているに違いない。


 「聞いてみるけどダメでも文句言うなよ」


 「分かってるからお願いね! ・・・・・・まあでも、今度は橙宝院のお嬢様かぁ」


 嬉しそうにお願いしてきたかと思ったら、突然何かを諦めたかのようにテンションが急降下。白宮守家も橙宝院家も本来なら関わることなどない名家ではあるが、それだけではない何かがありそうな雰囲気がある。


 もっとも、俺だってそこまで察しの悪い人間ではないつもりだ。なんとなく言いたいことは分かる。それでも俺は――――。


 「どうかしたのか?」


 分からないふりをした。


 「いや、流石にもう黙ってはいられないなって。大也もなんとなく気づいてるんでしょ?」


 寂しそうにも、迷っているようにも見える複雑な表情。母さんが話したいのか、話したくないのかは分からない。いや、それに関係なくただ自分が聞きたくないだけなのだろう。


 だから、そのふりを続けてしまうのだ。


 「・・・・・・何に?」


 「知りたくないなら別にいいけど。今じゃないって思うなら、詳しく聞きたくなったときに言いなさい。全部話してあげるから」


 「分かった・・・・・・」


 そんな子供じみた行動は母さんにはすべてお見通しのようで、それを分かった上で俺にタイミングを任せてくれたらしい。


 そのときが来るのかは分からないと思いつつも、何故かそれは遠くない未来だという謎の確信もあって、戸惑いと諦めの感情が胸の内を支配する。


 本当に問題ばかりで、自分自身が情けなくてたまらない。


 それでも母さんは俺のことを第一に考えてくれている。


 「あ、そういえば――――」


 あとどれだけ、俺はこの人に親孝行ができるのだろう。そんなことを思いながら、母さんの話に耳を傾けるのだった。

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