前編
prologue
『だからだめだっつってんじゃん』
恋人が声を荒げたので、鼓膜がキンとなった。
鼓動が早まり、わたしはスマホを耳から少し離した。
『とにかく移動しちゃいけないんだって。人と人が会っちゃいけないんだって。
「……見てるよ」
強く言い返したいのに、わたしの声は先細りになる。いつからだろう、彼が会話のイニシアチブを取ると萎縮してしまうようになったのは。
『じゃあ会いたいとか言うなよ、自分が保菌してないなんて誰も言いきれないんだから』
「
声を絞りだすように言うと、彼はハ──ッとわざとらしい溜息をついた。沈黙が流れる。わたしは電話越しに精いっぱい彼の部屋の空気を感じとろうとした。
『会いたいとか会いたくないとかそういう問題じゃねえだろ、今は。移動中に自分が無自覚にウイルスばらまいてたらどうする? 大迷惑だろ』
たっぷりと間をおいて彼は言った。こんな状況なのに、脳内でユニコーンの「大迷惑」が再生されてしまう程度にはわたしは平静だった。
「車で来てくれたらいいじゃん」
一呼吸置いて、わたしは言った。北見くんとおそろいのスマホを固く握りしめて。
『はあ?』
「車でサッと来てくれて、うちで一緒に引きこもってたらいいじゃん。何のための車なの?」
『里瀬!』
案の定、北見くんはキレた。
『だから、人と人が会っちゃいけないのっ! 話がループしてる! 不要不急の外出自体がだめだっつってんの、わかる!?』
胃の底がカッと熱くなり、言葉がワインの栓みたいにスポンと飛びだした。
「……あたしと会うのは、不要不急の案件なの!?」
さっきよりも長い沈黙が流れた。温度のない沈黙だった。
『――そう言わざるを得ないよ』
絞りだすように彼は言った。心がしんと冷えた。
「わかった、もういい」
鼻の奥がツンとした。
「無理言ってごめんね。感染に気をつけてね」
『里瀬――』
「元気でね」
彼との交際期間において、自分から電話を切ったのは初めてだった。
涙は出なかった。
窓の外に目を向けると、恋人と一緒に見ることのかなわなかった桜の木がはらはらと花びらをこぼしていた。
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