第参話 ありがとうを君に

 狛犬は大きな橋から飛び降りようとしていた。

 そんな狛犬に一人の女の子が話しかけてきた。


「あなたは一体何をしているのかしら?」


 死のうと橋の手すりの上に立った狛犬に話しかけたのは、今となっては彼女となった彼女である。

 狛犬は目をぎょっとさせ彼女を見る。


「もう。どうしてあなたは飛び降りようとしているの?それにこの川に落ちたって近くには水泳が得意なホームレスが暮らしているわ。だからこの川じゃ誰も死ねない」


 なるほどと思った狛犬は、ゆっくりと手すりを降り、地に足をつける。


「なあ、君はどうしてボクを助けようとしたんだ?」


「助けようとなんかしてないよ。私は君にこの川の情報を教えてあげただけ。それで君が死ぬのをやめるなら、それはそれでいいんじゃない?」


「ねえ。君の名前は?」


「月島 さい


「ボクは白宮狛犬。よろしくな」


 狛犬は自分より少し小さな彼女に、手を差し出す。

 彩は狛犬の手に手を重ね、握手を交わした。


「よろしく。狛犬」


「よろしくな。彩」


 もし運命というものが存在するのなら、きっと今この場所こそ、運命が始まった場所であろう。

 狛犬はまだ迷っていた。


 あの日言えなかった"ありがとう"を、いつか言える時が来るのだろうかと。


「彩……」


 狛犬は過去の思い出を鮮明に思い出す。

 思い返してみれば、良いことなんて何一つなかった人生を、月島彩が変えてくれた。

 狛犬の心の奥に沈んだ"ありがとう"という言葉を、いつ彼女に伝えることができるのか、未だに分からないままだ。


「狛犬。ついたよ」


 彩が言う。

 狛犬と彩がいた場所は、初めて会ったあの懐かしい橋。


「ねえ狛犬。私はさ、君に会えて本当に幸せだったんだよ。私もあの時死のうとしてたから、同じ境遇を歩む君を励ましたくなったんだ」


 彩は笑う。

 大好きな狛犬に。


 狛犬も笑う。

 大好きな彩に。


「ねえ。私……」


 だけどーー


「私は……」


 運命というものはーー


「ーーさようなら」


 本当に気まぐれだーー

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