第13話 奇跡の世界

 ゴーグルをかけ直した石和の目の前には、懐かしい軍艦島の風景が広がっている。実世界から聞こえた門野の説明では、石和が島を離れた直後、すなわち軍艦島が閉山した一九七四年(昭和四十九年)の風景ということだ。

 道路を埋め尽くす瓦礫もなく、建物も壊れてはいない。良く晴れて澄み渡る空から降り注ぐ明るい陽射しが島全体を美しく映し出し、まるで本当に島にいるかのようだ。

 一体、どうやってこの鮮明な過去の映像を準備したのだろう。本体装置もなくゴーグルだけでこの三百六十度の映像が見られるというのも不思議でならない。ましてや、心で思った方向に自由に動き回れるなんて考えられない機能だ。後で門野に確認しようなどと思いながらも、石和はその奇跡の世界に深く没入していった。


 ふと、画面の中央に猫が映し出された。 「おっ、なんだ?」 思わず石和が声を出した。  


 実写映像の中にあって完全に異質なCG(コンピューターグラフィックス)キャラクターが、こちらを見つめながらニッコリと笑っている。

「ARか」石和が呟いた。


 AR(拡張現実)とは、実際の風景にバーチャルな視覚情報を重ねて表示する技術をいう。


「現実世界ではないですが、実在した過去の映像にCGを重ねています。猫について行ってみてください」実世界からの門野の声がした。  


 CGの猫がお尻を向けた態勢から首をひねってこちらを見ている。ついてこいと言っているようだ。

「よしっ」と石和が心に思った瞬間、猫は前を向いて歩き出した。石和もそれについてゆく。



 CGの猫がゆっくりと前を歩いている。石和は見失わないように、でも周りをきょろきょろと眺めながら懐かしい風景を楽しんでいた。

 今、石和が見ているのは日本最初の鉄筋コンクリート造アパートである三十号棟だ。一九一六年の建設だけあって、石和が島に居た四十数年前も古く重々しい感じの建物だったが、改めてその歴史に感じ入るたたずまいである。石和が生まれる前、石和家はこの三十号棟に住んでいたというから今思えば少し残念な思いもある。建物の横にはトンネルが見える。トンネルの先は島の玄関口であるドルフィン桟橋だ。


 「いっけね。猫は? おっ、いたいた」

 三十号棟に見惚れ一瞬見失ってしまったが、首を左に振った先にCGの猫を発見した。お尻をこちらに向けてゆっくりと歩きながら先に見える建物の中に入っていった。石和が住んでいた三十一号棟だ。急いで後を追う。住んでいた階は違うが途中でくの字に曲がる懐かしい造りを体感し、そのまま建物を突き抜けた。遊び場だった小さな空き地と左手には売店、目の前には映画館がある。なにもかもが懐かしくゴーグルで隠れた石和の目は次第に涙で潤んでいった。


 CGの猫は石和に構わず先に進んでいく。この先は多くの人が行き交い活気に満ち溢れていた島のメインストリートだ。向かって左側には、海水浴でも話が出た対岸の高浜からやって来る行商のおばちゃん(高浜のおばちゃん)達が道沿いに並び、海産物や野菜を売っていた。右側には二十号棟から十六号棟まで五棟のアパートが立ち並んでいる。十六号棟、十七号棟、十八号棟には屋上庭園があり、そこも石和の大好きな遊び場だった。


 メインストリートの突き当り、ふと猫が立ち止まり、首をひねってこちらを見つめて「見失うなよ」と合図を送ってきたと思ったら、右に曲がり実写映像の建物の陰に消えていった。


「げっ、CGが建物の陰に消えた、いや、映像の中に入って行った」

「すごいでしょ、MR(複合現実)に近いイメージですね」 実世界からの門野の声がした。


 専門分野は違うが、同じITの世界に身を置くものとしては目の前に繰り出される技術には驚かされることばかりだ。今の建物に消えるCGも石和自身の立ち位置とCGの猫が消えた建物までの距離や角度で見せ方は違うからそう簡単ではないはずだ。

「あんなに見事に建物の陰に消えていくなんて・・・・・・」

 石和は関心のあまり歩くのを止めていた。


「ほら、急がないと見失ってしまいますよ」門野が歩を進めるように促す。

 石和はCGの猫が曲がった角に意識を集中し映像を進める。そして猫が曲がった角を覗き込むように映像を振り替えた。

「うわっ、人がいる・・・・・・」



 角を曲がった石和の眼前に、道を往来する沢山の人が飛び込んできた。そしてなんと追いかけていたCGの猫は完全に実写映像となって風景に溶け込みこちらを見つめていた。


「おっ、お前、やっぱりあの時の・・・・・・・一体どうなっているんだ・・・・・・・」

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