ガラス玉の世界

怪人X

ガラス玉の世界

 この世界には、ふたりしかいない。

 どうしてそうなったのかも、なぜ彼女と僕だったのかも、さっぱりわからない。

 ある日世界はガラス玉になっていて、そこには彼女と僕しかいなかったのだ。




「あの、佐藤くん」

 鈴の音が鳴るような声で、彼女は呼ぶ。この佐藤という実に一般的な名字が、僕の名字である。どの佐藤ですか?と普段なら聞き返すのだけれど、ここにいる佐藤は僕しかいない。

「なんですか?小山内さん」

 小山内さんは彼女の名字だ。こやまうち、と書いて、おさないさん。ありがちのような珍しいような、ちんまりとした可愛らしい名字だ。

「みんな、どこへ行ったんでしょうね」

 ぐるりと僕たちふたりを囲っているガラス玉。

 狭くもなく広くもないそこに別段不便はないけれど、気にかかるのはなぜ彼女と僕がここにいて、他に誰もいないのかということだ。

「本当、どこへ行ったんでしょうね」

 考えても答えは出ず、結局なんの進展もない言葉を返してしまう。このやりとりの繰り返しだ。

 不思議なことに人間というものは、誰かがいると冷静になれる。自分ひとりだったならこんな状況、ひたすら焦って嘆いてと大変だっただろうけれど、彼女がいることによって取り乱すことはなかった。

 実のところ、僕はこのガラス玉の中で彼女とはじめて出会った。

 小山内さんという名前も顔も、この世界ではじめて知った。

 彼女の方も、僕を知らなかった。

 それなのにこの世界には、ふたりしかいない。




「佐藤くん、趣味はなんですか?」

 世界がガラス玉になってからしばらくすると、お互い会話の内容が変わりはじめた。

 ここに時計はなく、時間感覚もない。まわりにあるのはガラス玉の壁だけで、太陽も月もない。もちろん食べ物もないけれど、なぜかお腹は空かなかった。

 音は彼女と僕が発するものだけで、静かだった。けれどその静かさは嫌な沈黙では決してなく、むしろとても穏やかなものに感じる。

「そうですね、音楽を聴いたり映画を観たりすることです。小山内さんはなんですか?」

 我ながらありがちな趣味だなあと思いながら話す。けれど他に思いあたるものもない。

「私は本を読むのが好きです。なんだか私たち、普通ですね」

「そうですね」

 ふふ、と笑いあう。

 こうして話せば話すほど、僕たちはなんの変哲もない人間であると思う。

 普通という枠は曖昧で不明確ではあるけれど、テレビの中でなにかを話したり、人の輪の中心に立ったり、少なくともそういうことをする人間ではないということだ。

 僕たちは少しずつ、ぽつりぽつりと会話を続ける。話すことはなんてことのない内容のことばかり。

 自分たちの家族や友達のこと、好きな音楽や本のこと、嫌いな食べ物のこと、休日の過ごし方。

 こんなにもゆっくりと、くだらないことを話し合うのははじめてだった。

 場を持たせる為に話すくらいで、普段なら聞き流す程度のことばかりだというのに。けれど不思議とその一言一言が、とても大切に思えた。

 飽きることもなく。




「小山内さん」

 ある時、ふいに僕は彼女を呼んだ。

「なんですか、佐藤くん」

 たくさんのことを話して、ずっと一緒にこうしていて、それでも僕たちの距離感はあまり変わらなかった。

 丸いガラス玉の中、僕は膝を立てて、彼女は正座を少し崩して座っている。

 なんとなく呼んでしまったけれど、特に話したいことがあるというわけでもなく、言葉に詰まる。

 急かすこともなく、彼女は待つ。

 なんて穏やかな時間だろうか。

「誰か、会いたい人はいますか?」

 このガラス玉の世界の中で、彼女はなにを思っているのだろう。

「そうですね」

 彼女の返答は思いの外早かった。

 ぱちり。目が合う。しばらくそのまま、じっと見る。大きく澄んだ瞳にガラスがきらきらと映っている。

 どうしようもない衝動に駆られて、そっと手を前に出した。

 すると彼女も同じように、手を伸ばす。

 お互いの手のひらが重なった。

 はじめて触れた、僕よりも小さくて細い手。そこからじんわりとあたたかい体温が浸透していく。

「今ここにいるのが佐藤くんでよかったと、私は思います」

 ふわりと、彼女は微笑んだ。

 胸の奥まであたたかさが広まって、僕も笑う。

「そうですね、僕もです」

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