十字の星とイルカ

蓮見庸

十字の星とイルカ

 空と海の境界を、半分飛びながら泳いでいくイルカの群れ。

 空には水しぶきをまき散らし、海の中には胸びれで空気を巻き込み、泳いでいく。先頭にはひときわ速く泳ぐ一頭のイルカがいた。背びれが白く、とてもよく目立つので、ほかのイルカたちはそれを目印に付いていく。

「キューン(こっちに付いてきて)」

「キュキューン(エサの魚がいるよ)」

「キュキュッ(あのサメには気をつけて)」

 そのイルカは常に群れを率いるリーダーだった。その選択はいつも正しく、みんなの信頼もあつかった。


 イルカは尾を強く振り、群れを引き離した。じゅうぶんに離れたのを視界の後ろに確認し、急に深く潜ったかと思うと、今度は真上に方向を変え空を目指して速度を上げた。そして海の表面にできた膜を突き破るように一気に飛び出した。空中で体を2回ひねり、続いて、ばっしゃんっ! 勢いよく水面に体を叩きつけ、その勢いのまま、次の瞬間にはまた群れの先頭を切って泳いでいく。


 夜に泳ぐときは、空に光る十字の星を目印にして、またサメに襲われないように慎重に泳いでいく。

 母イルカに聞いたことがある。夜空にある小さな光は“星”といって、夜になると生まれて、朝になると死んでいくものなのだと。なかでも十字の形をした星はひときわ明るく、いつも同じ場所に生まれるので、それさえ見つけられれば道に迷うことはなかった。

 また、星を何十個、何百個も集めて、膨らんだりしぼんだりする大きな丸い光は、“月”というものらしい。いつもあるわけではないが、月の光が明るく静かな夜は、海の中に自分たちの影ができて魚はみんな逃げていく。そんなときはエサを探すのをやめて早く眠りにつくしかない。


 海が油を流したようにひとつのさざ波すら立てず、なめらかにたゆたうある晩のこと。イルカが目を覚ますと、水の中は金の粉を撒き散らしたように、キラキラと光っていた。これは何だろうとイルカは周りを見渡すと、それは星の光が海の中にまで入り込み、ふわふわ漂う小さなプランクトンに反射しているのだった。

 ちゃぷんと水面から顔を出してみる。水面は星の光を反射して金色の絨毯がどこまでも敷かれているようだった。空には数えきれない星の光。そのなかに明るく輝く十字の星を見つけられた。けれど今日はいつもと違って、空から半分落ちたところにあった。

 イルカは不思議に思いながらも、興味をひかれ、『よし、あの十字の星まで行ってみよう』と、尾をひねって泳ぎ出した。尾を振るたびに水はかき乱され、キラキラとした道ができていく。

 ほかのイルカはみんな穏やかな眠りにつき、後に付いてくるものは一頭もいなかった。


 イルカは十字の星を目指して泳いだ。ときおり方向を確かめるために水面から顔を出してみるが、少しも近づいた様子はなかった。そればかりか空からさらに滑り落ちるように、その端は水面に届いていた。

 イルカはさらに泳ぎ続けた。せいいっぱい泳いだ。けれど気がついたときには十字の星は半分も水の中に沈んでいた。

 イルカは今度は思いっきりジャンプをしてみた。しかしそれでも近づくことはできず、十字の星は相変わらず水の中に沈んでいた。ジャンプを何度も繰り返し、くたびれたころ、空は急に明るくなり、一面を覆い尽くしていた無数の星々は、数個の光だけ残して消えていった。十字の星も見えなくなってしまった。


 イルカはそれでもあきらめきれず、十字の星があった方へ向かって泳いだ。太陽は高くのぼり、そして低く下りてきた。

 やがて知らないイルカの群れと遭遇した。

「ねえ、十字の星を知らない? そこに行きたいのだけれど」

「十字の星? このあたりで十字といったらあれのことかな」

 そのイルカが指し示した先にあったのは、海に突き出た岬の上に建つ教会だった。その屋根の上には大きな十字架があり、夕日を反射してキラリと輝いていた。

「でもあそこは人間がいるから危ないよ」

「ありがとう。気をつけて行ってみる」


 イルカが岬の海岸に近づくと、大きな岩に刻まれた十字架の前で、神父が祈りを捧げていた。

 イルカはその様子を眺めていたが、神父はそれに気づき話しかけた。

「見かけないイルカだね。こんなところへ何をしにきたんだい」

 神父はひとりごとを言ったつもりだったが、イルカは答えた。

「十字の星を目指して泳いできたら、ここにたどり着きました。でもぼくの知っている十字の星とは違うみたいなんです。ほんとの十字の星のところへ行くにはどうしたらいいんでしょうか」

 神父は驚いたが、少し考えたあとハッと気がつき、ほほえみながら答えた。

「後ろを見てごらん」

 イルカが振り返ると、そこには明るく輝くいくつかの星があり、水平線の上に見なれた十字の星がぼんやりと浮かび上がってきた。

「お前が来た道は、お前がこれから進む道だ。さあ、みんなが待っている。これを持ってお帰り」

 神父は金色に輝く十字架のネックレスを首から外し、イルカに向かって放り投げた。イルカはそれが海底に沈む前に拾い上げ、口にくわえながら来た道を引き返した。まずは先ほどのイルカの群れのところへと、そしてその群れを従えて、一度も後ろを振り返ることなく、十字の星に向かって泳いでいった。

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十字の星とイルカ 蓮見庸 @hasumiyoh

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