ささやかで勇気ある旅

秋色

第1話

秋の終わりの旅


 十一月の半ばで登山者も少なくなる時期だった。その山の山頂近くに人一人通れる位の脇道を見つけ、辿り着いたのは静かな湖だった。湖畔にはまぶしい位ピンクの花が群生していて、その広さは小学校の運動場の広さくらい。ピンクの花は山に詳しくなった当時の自分でも名前を知らない小花だった。まるで梅か木瓜のようなオレンジがかった灯りを思い起こさせる暖かみのあるピンクだった。晩秋なのに小春日和の暖かさで、空気は澄んでいた。座るのにちょうど良く岩が所々にあったので、僕はそこに腰掛け、まるで遠足の子供のように湖を見ながら持参のおにぎりを食べた。一人で山野を旅する事に慣れていたからいつも寂しさなんて感じず、淡々と風景を楽しんでいたが、この日はなぜか少しだけ孤独感を感じていた。だから幼い日の遠足を思い出しながら昼食を楽しみたい気分だったのかもしれない。

 当時大学の四年生だった僕は色々一人で考えたくて山に登ったというのが本当の所。もうそのシーズンの登山はこれが最後という時期でそろそろ冬か近づいていた。諦めかけていた所、たまたま連休に実家に帰省していたら天気も良いし、じゃあ遠出して山にでも登ってみるかという気になった。自分の実家のある地域は田舎で冬は雪もよく積もるような山間の谷間にあった。南側に隣接する県となると寒さもさほどでなく、そのまた隣の県はさらに温暖だった。そこは山々が連なり、しかも自分のような初心者の登山者にはうってつけの山が多い地域だ。特に故郷でも関東地方の山野でも見かけない植物を目にするのが楽しみだった。植物にも動物にも生態分布があり、ある土地にだけしかお目にかかれない植物や動物もあるのだ。

 その頃の事情を説明すると、僕は上京し東京の大学に通っていて、来年の春、卒業という時期だった。すでに東京のとある広告代理店に就職が決まっていて、周囲の眼には、山登りする余裕のある贅沢なやつと映っていただろう。だが心のうちでは悩みを抱えいて灰色の毎日だった。

 田舎から東京に出て来て約四年。決して都会に馴染む事がなく、いつも自分が異邦人のように感じられていたし、今後も変わらない気がしていた。実は卒業後を田舎で過ごす選択肢もあった。実家は温泉旅館を経営していて、別館も二つ程あった。兄と妹がいたが、両親は子供達全員に旅館関係の仕事を振り分けるのはたやすい事と考えていて、僕が田舎に戻る事を勧めていた。でもその勧めに素直には従えない気持ちがあった。親は仕事の合間にのんびり好きな絵でも描きながら暮せばいいと言う。それはある意味全てにおいてしゃかりきになれない自分には向いているのかもしれなかった。でもその道を選べは僕の残りの人生は目に見えていた。自分が子供の頃から変わらない人間関係の中で暮らし、知ったコと結婚するのだろう。多分誰か世話焼きの近所の人の仲介で。噂話に都会へのやっかみ。そんな世界で妻となる人の噂話に相槌をうちながら年をとっていく、そんな未来の自分が目に見えていた。

 一方都会を選べばそんな世界からは脱出できる。でも相槌を打つ相手もいない孤独な世界に身を投じる事になる。毎日毎日灰色の孤独な街で仕事に行き来し、年を取ってやがてある日起きる事が出来なくなって死に向かう時も誰にも気付かれない。極端な想像だけど、どちらを選んでも寒々とした未来で、どちらを選ぶべきなのか正直よく分からなくなっていた。と言ってもすでに広告代理店への就職も決まっている僕は年明けには職場に近いアパートに引っ越す事になっていたから、都会での生活は事実上決まったようなものだった。今さらモヤモヤしているのは自分の往生際の悪さだった。

 そんな時期だったからだろうか。青空の下湖畔の花が咲き乱れている風景は僕の心に滲みた。爽やかな風を送りこんでくれるような、明るい陽の光を射してくれるような。その風景が僕の心の中に渦巻いているドロドロとしたものを洗い流してくれる気がした。ずっとこの場所にいたい…そんな気持ちだった。それでもその場所にいたのはほんの二、三時間程だっただろうか。来た山路を引き返し、朝到着した地方の小さな駅に戻った。そこから乗る電車は暫く走ると少し大き目の駅に着き、そこから主要な路線に路線変更するため、実家の県のある駅まで乗り継がなくて良かった。僕は早起きしていたのでいつでも寝られるように、上着を布団代わりに上半身に掛けていた。何せ今は天気も良いし温かい小春日和の午後であっても実家のある地方は空気が凍りつきそうな位寒いに決まっているから。そうして車窓からの田園風景を楽しんだり、先程までいた湖のほとりの花々や木々の事を考えながらいつの間にかうたた寝をしていた。ふと目が覚めると車窓からの風景は相変わらずで、路線変更する大きめの駅にはまだまだだった。

 その電車は地元の人しか利用しないのだろう。少しずつ乗客が減っていき、気がつけば車両には僕以外にニ、三組の乗客しかいなかった。そのうち老夫婦が降りると、僕の他には幼い男の子と姉と思われる女の子を連れた母親ー服装から農家の主婦みたいだったーと新聞を読んでいる老人しかいなかった。

 いや幼い男の子とその姉と思われる女の子が母親に連れられていると解釈していたのは勘違いらしかった。観察していると、男の子とその母親がいて、たまたま乗り合わせた少女が男の子をあやしていただけらしい。少女は高校生位に見えた。痩せっぽっちで髪を後ろで一つの三つ編みにしリボンで結んでいた。少しハスキーな軽やかな声で男の子に色々話しかけ、年下の面倒を見るのに慣れたお姉さん風だった。その少女がフラフラとこちらのボックス席ー僕は四人がけのボックス席を一人で占領していたーの方まで来た時に、チラッと見ると社会人位にも見えた。なぜ幼く見えたか考えてみると、背の低さや三つ編みのせいもあったが、少女の着ているオーバーコートのピンクの色合いがいかにも子供じみていたからに違いなかった。それにそんな子どもが今の時間に一人で電車に乗っているわけがないという先入観もある。

 少女は人見知りせず、僕の席の真向かいの席の上に手を置いて立ったまま興味深げに僕を見て話しかけてきた。

「ねぇ、どこへ行く所なん?家に帰る所?」

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