夕立クライシス

橙 suzukake

夕立クライシス



ちゃぷん・・・


 右にハンドルを切って交差点を曲がると、まだ、後ろの座席のどこかから音が聞こえてきた。



◇◇◇



「わっ、おとうさん、いま、そらがひかったよ」


 助手席の窓を見ながら5歳になる息子の昌宗まさむねが驚いた声で言った。


「もう、お空が真っ暗になったもんね」


 後部座席に座っている妻が言った。


「あ、また、ひかった!なんかね、そらが、むらさきいろになったよ」


「ああ、思い出したよ」


「え?おとうさん、なにをおもいだしたの?」


「ううん。言わないでおく。ちょっと、寄り道していくよ」


 俺は、四ツ郷屋よつごうや海水浴場と書かれた道路案内の青い看板のある交差点を左折させた。


「え?どこどこ?どこにいくの?」


「とっても、いいところさ。ま、黙って前の方を見てな」


 俺は、アスファルト道路なのか砂地なのかわからなくなった道を低速で進ませた。


「あ、また!」と、昌宗が大きな声で言ったけど、そのまま黙ってしまった。


「な。昌宗、光ったときに何か見えなかったか?」


「うん、なんか、みえたようなきがする」


 俺は、海水浴場の駐車場の一番先端まで車を進ませてから停めた。


「いいかい。暗くてよくわからないだろうけど、目の前はもう、海しかない。このまま西の空をずっと見ててごらん」


「あっ」


「な?見えたろ?」


「うん、みえた!なんか、くろいおおきなの」


「そう、黒い大きなの、何だと思う?」


「う~ん…なんだろ…」


「お母さん、わかった?」


「ううん、見てなかったからわかんなかった」


「じゃあ、見てて」


「あっ!でた!」


 淡い紫色の光が雲が立ち込めた空一面に湧くように光ったかと思うと、その下に、黒い大きな物体が一瞬現れた。


「あ、もしかして、佐渡?」


「そう。お母さん、正解!」


「え?さど、って?」


佐渡島さどがしま。海の向こうにある大きな島だよ。もう、20年くらい前だけど、これとおんなじのを此処で見たことがあるの、お父さん。あ、また、光った」


「わあ、すごい!」


「だろ?お父さん、その時も、大雨に打たれながらずっとここで見ていたんだよ」


「お父さん、その時は、誰が助手席に座っていたの?」


「おいおい、一人だってば。またあ、お前はすぐにそういうことを聞くしな。もっと、こう、自然に感動する気持ちとかないんかい」


「あ、おとうさん、あめ」


「おっと、当たってきたね。東の雷、雨降らず。此処は、れっきとした西雷でござい!と。よし、帰るよ」


 俺は、車を反転させて、元の国道に車を出した。



 最初、ぽつぽつとしか降らなかった雨はすぐに大粒の雨になり、そして、またすぐに、雨粒の大きさも分からないようなべしゃべしゃした大雨になった。ワイパーを最速にさせたけれど、ブレードが拭き取ったガラスをすぐに雨水がだらしなく覆った。



「ねえ、お父さん、わたし、なんだか、お腹痛い」


「え?」


「もしかして、産気づいたのかも」


「ええっ?」


「おかあさん、うまれそうなの?」


「うん、なんかね、けっこうきてるの」


「だって、お前、予定日は」


「うん、来週なんだけど…これ、やっぱり、そうだと思う」


(いいか、俺、落ち着け。此処はもう新潟市… 国道402号線… 救急車?いや、このまま車を走らせて病院まで行った方が早いはずだ)


「美佐子、携帯で病院に電話できるか?このまま病院まで車を走らせるから。そうだな、あと30分後に着く、って電話してくれ」


「わかった。ねえ、お父さん、わたしはだいじょうぶだから、運転気を付けて」


「わかってる。こんなんで事故ったら元も子もない。大丈夫だ。それより、電話頼む」


 俺はそう言いながら、402号線から先、どうやったら病院に早く着くことができるか道順を頭の中で作っていた。


(今日は日曜日… このまま402号線を最後まで行って、問題はそこからだ… 日曜日のこの時間、買い物帰りの車で混雑しているかもしれないから、街中はなるべく通らない方がいい…)


 雨は、やむことも緩むこともなく強く降り続いているし、ワイパーも最速のまま。雨に濡れたフロントガラスを時々、雷光が紫色に照らしもしたが、昌宗ももう何も喋らなくなって、前を見ていたり、心配そうに後ろを振り返ったりしていた。


「ここから、海沿いの道に入って行くよ」


 俺は、402号線の終わりで車を左折させて、しばらく進んだ交差点で右折させたその時だった。

 俺のすぐ前を走っていた車高の低い2シーターのスポーツカーがブレーキを踏んで停まったかと思うと、2シーターの車の屋根から大量の水が後ろの俺の車の方に流れ落ちてきた。


「なんだ?どうした?」


 2シーターは、ハザードランプを点滅させたかと思うとバックランプを点灯させた。


「マジか!ちょっと、待て!」


 俺は、バックミラーで後続車が居ないことを確認してから車をさっき曲がった交差点までバックさせた。2シーターは、何度か切り返しをした後、反転して来た道を戻っていった。

 俺は最速ワイパーで拭き取られた一瞬、一瞬で目を凝らして前方の道路を見ると、どうやら冠水しているらしかった。


「おとうさん…」


 心配そうにそう言う昌宗に「大丈夫!お父さんの車はさっきの車より車高が高い四駆だよ。こんな水たまりなんてへっちゃらさ!」そう言って車を前に進めた。


「昌宗、これも、お前は初めて見るよ。よく見ててみな」

 

 俺はそう言いながらアクセルを踏む右足に力を込めると、台風の時のテレビのニュースで観るような大きな飛沫が車の左右で立ち上った。


「うわぁぁあ」


「よ~し!このまま行け~!」


 ワイパーに拭かれた前方を見ると、ハザードランプを点けっぱなしにして停車している車を何台か確認した。


(この低くなった冠水道路も、おそらく、あと100mくらいで終わるはず。止まっちゃだめだ。このまま…このまま…)


「お父さん、大丈夫なの?」


「美佐子、大丈夫だ!こんなのでお父さんの車は停まったりしない!」


 そう言い終えると同時に車はスローダウンして、やがて止まった。


「あ… もしかして…」


 俺は、イグニッションキーを一旦戻してから掛け直すも、ギュルギュルギュルという鈍い音が鳴ったかと思うと無音になった。そして、何度かその動作を繰り返しているうちに完全な沈黙になった。


「やっちまったか…」


「おとうさん、もう、うごかないの?」


「ああ、そうみたいだ」


「だから、わたしが、大丈夫なの?って言ったじゃないの!」


 当然のことながら、美佐子は怒った声でそう言ったが、返す言葉を俺は持たなかったし、産気づいている妻にイライラをぶつけるわけにもいかなかった。


「だいたい、あなたが、あんなところで雷見物なんてしていなかったら…」


「美佐子、考えるから、少し、黙っていてくれないか」


 俺は、そう言うと、フロントガラスの真ん中で止まっているワイパーの隙間から真っ暗な前方に目を凝らし、左右も見渡した。

 しばらくすると、運転席側の窓の外を白い車がゆっくりと前に進んでいくのがわかった。そして、停まっている俺の車を追い越したときに、4人の男が車を押しているのがわかった。


「昌宗。今日は、お前にとって初めてのことばかりだったけど、これからお前にお願いすることも初めてのことになる。よく聞いてくれ」


「うん。なに?おとうさん」


「この車は、もうエンジンが掛からなくて停まってしまった車だけど、ああやって人が押して前に進むことはできる。お父さんは、これから外に出て、ああやって水で停まってしまっている他の車を高いところまで押して救助する。そして、その人たちに、この車も押してくれるように頼もうと思ってるんだ。で、な、お前にこの車の運転をお願いしたい」


「ええっ?ぼくがうんてんするの?」


「あなた、それは、いくらなんでも無理よ!」


「美佐子、俺の勝手のせいでお前に心配かけて申し訳ない。お前は、携帯で救急車を此処に呼んでほしい。住所は、新潟市の西海岸公園前の道路だって伝えてくれ。昌宗だったら大丈夫。エンジンは掛かっていないからハンドルを真っすぐに保っていてくれればそれでいい。昌宗、できるか?」


「うん!やってみる!」


「よし、じゃあ、昌宗、美佐子、頼んだぞ」


 俺は、そう言うと意を決して、運転席の重いドアを両手で押した。すると、水が運転席に一気に流れ込んできた。「ああ!みずが!」と運転席に移り座ろうとした昌宗が叫んだけれど、俺はその声を後ろで聴きながらもドアを半分くらいまで押し開けてから車外に出てすぐに外から閉めた。


 冠水は俺の腿の高さまでになっていた。周りを見渡すと、ハザードランプを点けて停まっている車が俺の他に4台あったので、プールでウォーキングしているようなのを感じながら片っ端から声を掛けて歩いてみんなで助け合う約束を取り付けた。

 そして、冠水していない高い場所まで最も遠い所で停まっている車から順番に5人の大人の男で押して動かし、俺の車は最後に押して動かした。

 車内に入った水とエアコンが作動していない蒸し暑さで曇った運転席側のガラス窓の近くで、10時10分でしっかりハンドルを握っている昌宗を応援しながら俺は車を押した。

 冠水していない高いところまで車を押し上げると、後ろのマフラーから大量の水が下に流れ落ちた。


「このまま、こうやって、エンジンが乾くまで待つしかないですね」


 一緒に車を押してくれた中年の男がそう呟いた。


「昌宗、運転上手だったな!おかげで助かったよ」


 俺は運転席と後部座席のドアを全開に開けてそう言った。


「救急車、頼んだわ。10分くらいで来てくれるって」


「美佐子、大丈夫か?ほんと、悪かったな。ええっと… 産まれる子どもの名前は『水もの』じゃない名前にしような」


「こんな時に、そんな冗談、よく言えるわね」


「いやあ、ほんとに、さ」


 あれだけ降っていた雨はいつのまにかやんでいて、東の空から気付いてほしいと言わんばかりの小さい雷鳴がかろうじて聞こえた。








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