第15話 ドン・キホーテの理解者
近付いてくる俺に対して二人は明らかな警戒の色を見せた。男は持っていた杖で俺を威嚇してくるし、女に至っては男の影に隠れてしまった。
悪いことをしている奴らはちょっとしたことにも臆病になるものだから仕方がない。
臆病になるぐらいだったら悪いことなんてやめてしまえばいいって考えるかもしれないが悪いことっていうのは金になるからやめられない。
男も女も俺よりは歳は食っていたがまだ髪も豊かで白髪もなく洒落た格好をしていた。
男の青いブラウスは凪いだ海みたいに綺麗だったし、ベルトのエンブレムは蛇の交尾みたいに手の込んだデザインだった。おまけに杖の先にラウンドブリリアントカットされた赤くて下品な宝石が付いていれば悪いことをして稼いでいる金持ちに違いなかった。
女は裸だった。
でもそれは陽の光が見せた幻で、よくよく見るとベージュのドレスに麦わら帽子を被っていて、おまけに白い日傘を差していた。よほど陽射しが嫌いらしい。ヴァンパイア夫人なのかもしれない。
ここが海でなかったらヴァカンスを楽しむ紳士と貴婦人のようにも見えた。だけど、ここが海である以上、
「旅芸人なんだ」
俺の予想に反して二人の様子は変わらなかった。
旅芸人って言葉を聞けば誰だって両手を広げて笑顔になる、そういうものだと考えていた。
男が「何だ、お前は!」って言うから「旅芸人なんだ」って繰り返した。そうか、よく聞こえていなかったんだなって。耳が遠いのかもしれないし、波の音でよく聞こえなかったのかもしれない。あるいは、事態はもっと深刻で脳に障害があるのかもしれない。何れにせよ全ての元凶は海にあった。
「消えろ!」
それは無理なパフォーマンスで腹も立った。演目については考えがあったからだ。初めての観客とはいえ男の要求には従えなかった。
俺は男を無視して鞄から太棹三味線を取り出した。曲はベートーヴェンの『エリーゼのために』と決めてあった。これだけは譲れなかった。この曲は全ての旅芸人にとってのラブソングみたいなものだから。
しかし、いざ三味線を取り出してみると片腕しかないことに気が付いた。
俺は焦りに焦って男を見た。
男は『一体何を演奏しようとしているんだ! ドキドキ!』って顔で俺を見ている。
楽しみにしてくれている観客が目の前にいるんだ。
その期待に応えないで何が旅芸人か!
「生えろよぉぉ!」
そう言いながら噛み切られた腕をぶんぶん振り回してみるとまるで朝顔の芽が土からひょうこり顔を出すみたいに腕がにょきにょきと生えてきた。努力って大切だって心の底から思ったね。
俺は男を見てぐふふと笑って天を仰いだ。さぁ、これで演奏ができるぞってね。
波の音は相変わらず五月蝿かったし、陽射しは強かったけど不思議と気分は良かった。
もしすると波の波長と三味線の波長って意外と合っていてこの世界と一つになれるかもしれないとか、太陽のグルーブを『エリーゼのために』に組み込んだらきっと凄いことになるぞとか、そんな熱い気持ちを抑えきれなくなって大声を出して笑った。
こんなに笑ったのはクツアがサイダーの魔女だとか言い出した時以来だった。
それから再び男を見てぐふふと笑ってウィンクした。
さぁ、演奏開始ですよって合図だった。
「貴様、人魔の類か!」
男が何を言っているか分からなかったけど客商売って笑顔が大事だから脳がアルコールの培養液にぷかぷかと浮いていそうな奴が相手でも笑っていないといけない。
だから俺はもう一度ぐふふって愛想笑いしてその場をやり過ごそうとした。
だけど男は暑さで正気を失ったのか、クツアみたいに『ごにょごにょ』と言い出して、杖を大鎌に変えて襲いかかってきた。
鎌が俺の首を切り落とそうとする刹那、理解されないって悲しいよなって感情が少しだけ湧き上がったのは自分でも不思議だった。
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