分岐点、或いは再生

迷想

第1話




気づいたとき、僕は真っ白な空間にいた。ここはどこだろう…

僕のいる場所は、上でもなく、下でもない。地面に接しているわけでもなく、空中に浮かんでもいない、狭くも広くもなく、暑くも寒くもない。なんとも奇妙な感覚だった。


誰かー、いませんかー。

遠慮がちに呼びかけてみるけど、何も返ってはこなかった。



困ったな…

このままだれにも会えないとどうしよう。そんなことを考えてしまうほどに、そこは不思議な場所だった。






ふと、何もないはずの空間から、間の抜けた声がする。


やっほー、少〜年〜〜。

ふ、古い。ノリが古い、と感じながら僕は声のするほうへ顔を向けた。そこには真っ白なワンピースを着た、おそらく僕の姉より年上だが、僕の母親よりははるかに年下っぽい女の人がいた。


女の人は、僕と垂直に立っていた。というか、垂直に位置して僕を見下ろしていた。セミロングの髪がまっすぐに垂れ、その奥から覗く瞳が光ってはっきり言ってビジュアル的に異様だった。

僕がよっぽどへんな顔をしていたのだろう、その女の人は、ああ!となにかに気づいた表情をし、よっこいしょういち、とサムいことをいいながら、くるりと身をひるがえして僕と平行に降りてきて僕の前に並んで立った。平行になると、なんということのない普通の女性だった。これで大丈夫だね〜、少年〜〜。


も、もしかしてこの人しかいないのか…。僕は非常に猛烈に不安になりながら大袈裟に額に手を当ててうずくまってみせた。あれれ〜?どうしたの?おなかいたいの??少年?


いえ、大丈夫です…。


あ、あの、ここはどこなんですか?見たところなにもないみたいですし…、他の人は?生活とか食事とかはどうなっているんですか?


ここにはいまはキミと私しかいないよ。って、何その顔…。




うーん、ここがどこか、って言われると…私にも説明し辛いのよ。ただ、行き交う場所、ってところかな。進む者と戻る者、先へ行く魂と還ってゆく魂の交差する地点が偶然にもこの世に現界する…そんなあわいがたまたまここなのよ。


あ、大丈夫、流して流して。わかんなくても大丈夫だから。

あなた、高校生?中学生?まだ若いわね。


そういうお姉さんは、よく見ると結構おばさんですね。

ひどーい、おばさんだなんて。これでもまだ28よ!

28はもう充分おばさんですよ…



うるっさいわね〜、そっちこそ、高校生なら恋の一つでも二つでもしてんじゃないの?え、うそホントに!?どんな子どんな子!!?なに、へ〜、神崎さんていうの!?かわいい!?あたしより!??なーんちゃって、それはないわよねえ、やだ〜〜!!!


いいーじゃない!!若者、どんどん恋せよよ!!よく恋し、よく学べよ!!


異常にテンションの高いおばさん、じゃなくてお姉さんは、コロコロと笑ってひとしきり騒いだあと、腰に両手を当て仁王立ちしてなにもない真っ白な空間に向かって豪快に叫んだ。う、うるさい…。



いいじゃない、あなたも私も、こんなに大声出せるのはこれが最後かもしれないんだしさ。

振り返ってお姉さんは言う。

待ってください、つまりここは…

難しく説明しちゃったけど、簡単に言うと、まだ死んでない人間がいるところね。

正しくは、成仏していない魂。時間も場所も、時代も空間も、人種も無機物も…すべての決まりがここにはないわ。いま人間と言ったけれど、ときには種族みたいなものも越えているみたい。あなたが来る前は、犬がいたのよ。大きくて黒い、おとなしい犬だったわ。とても優しい目をしてた。

あなたも私も漂っているの。

なぜだか、ここに来てしまったのね。





お姉さんは、イタリアで死んだんですか?

そおよお、もともと付き合ってた男がよりによって私の親友と付き合うことになったの。なった、っていうか、知らなかったのは私だけね。私は二人の恋を盛り上げる、とんだピエロだったってわけ。そんな二人が海外旅行に行こうってことになって…何の因果かそのイタリア旅行に私がついていくことになったのよ。二人は揃って私に謝るし、これからも大事な友達でいたいからって親友のミカは泣いちゃうし。お願いだから来て、って拝み倒されてね。仕方なく付き合うことにしたの。二人だって寝覚めが悪いでしょ?だけど、当然、たのしかないわね。

三人でパブでお酒を飲んだあとに私は、まだ酔ってたのに一人で帰れるって強がって異国の夜道を一人で歩いたわ。バカだった。きっと、もうどうにでもなれって思ってたのね。あっという間に拉致されてコレよ。と、お姉さんは白く細い首の前で横一文字にすぼめた自分の右手を左右にスッと振って見せた。


─亡くなられた日本邦人山口頼子さんは…


どこからか、テレビニュースの音がする。ひっどーい!現地時間なら29かもしれないけど、だからあたしは日本にいたらまだ28だったんだってばあ!!

まだ言ってる。


そもそも、騒ぐべきはそこなんだろうか。

悲しく、なかったんですか?「え?」

行ったこともない土地で、知らない人間に殺されて。その上、あなたの死因はこんな…口に出すのも憚られるほどにひどい死に方だ。



そうねえ、さっきは首の前でジェスチャーしてみせたけど、実際のところは幸いと言うべきか後頭部に一撃でズドンだからね。そのあと自分の体がどんな扱いを受けたのかなんて、私にはわからないし、死んでしまっているから関係ないわ。例えば仮に、ド変態にじわじわなぶりごろされていたり拷問でもされてたなら、いまでもこんなにヘラヘラしていられないかもしれないわね。でも、いまは、何も感じない。もうそれは、私の体じゃないの。私が入っていただけの器でしかないの。



あなたは、どうしてここに来たの?やおらお姉さんが僕に問いかける。それは当然の質問だろう。だけど僕は。すいません、覚えてないです─。


あー、そのパターンか〜。いるのよね、結構。

気にすることないわ、どうせそのうち思い出すから。



あの、犬は。さっき言ってた黒い犬は、どうしたんですか?




いなくなったわ。

??いなくなった、ってどこへですか?僕たちは、ここから別の場所へ行けるんですか?


そうね行ける。だから返してあげたの。知ってる?ここなら動物の言葉もわかるのよ。あの犬が、たまたま特別だったのかもしれないけど。

私、さっき言ったわよね。ここにはまだ死んでない魂が来る、って。私たちは漂っているって。だから返してあげたの。もとの世界に。うつしよの世界に、あの子は返してあげることにしたの。




あー、あとね…

ここからは一人しか帰れないの。言ってなかったっけ?ごめんね、私ったら、昔っからおっちょこちょいなの。



それってどういう…僕が言い終わらないあいだに、お姉さんが言った。「そんなにボンヤリしてるから、死んじゃうんだよ」


何もなかった白いだけの空間の中に、僕とお姉さんのあいだに無数の金色に輝く光の粒が散らばった。僕が驚いて後退りすると、お姉さんは僕に向かってズイ、と右腕を伸ばしてきた。


「!!?」

お姉さんは、僕の胸に腕を突っ込んで文字通り心の臓を掴み上げた。殺される、僕は確信した。さっき一人だけと言ったこの人は、僕を殺して替わりに自分が生き返ろうとしているんだ。



赤や青、僕とお姉さんのあいだに何色もの無数の激しい閃光がお互いを打ち消し合うように幾重にも走り、ぶつかり合って砕け散る。




や、やめて!!ぼくは…

ぼくは生きたい!!死にたくない、帰りたい!!母さんと姉さんのところへ、学校に戻って、神崎さんに、もう一度会いたい!!

会って、今度こそ、好きだって…






─言えばいいじゃない。

僕の頰に優しく柔らかな指先が触れる。



恐る恐る目を開くと、あたりはまた何もなく、驚くほど綺麗で眩しくて、優しく満ち足りたお姉さんの表情があった。


私はもう行くわ。私はもう終わり。それでいいの。あなたみたいにもう若くないし、私のことを待ってくれている人もいない。

あなたが帰るのが正しいわ。私たちに選択の権利が与えられているのならね。


そのとき、僕は自分の心臓が再び動き出しているのに気づいた。僕の心臓は、ついさっきまで止まってしまっていたのだが、僕はそのことについぞ気づいてはいなかった。



そ、そんなことでいいんですか!!っだって…だってあなた死んじゃうんですよ!?僕を助けたら!!もう二度と助からない!!あなただって、まだまだやりたいこととか、やり残したこととか、会いたい人とか…そうだ、あの最悪の彼氏にだって、ひとこと言ってやりたいんじゃなかったんですか!!!


お姉さんにそう言いながら、僕は僕の学校生活のことを思い出していた。なくなった運動着。机の上に花瓶を置かれ、羽交い締めにされて憧れの神崎さんの前でズボンもパンツも下ろされて、廊下を歩くたびに邪魔だとグーで殴られた。僕はあんな毎日なんて早く終わってしまえばいいといつも思っていたのに、どうしてこんなところで、こんなに必死になって見ず知らずの女の人を心の底から説得しているんだろう。




タカシは彼氏じゃないわよ。死んだときには、もう別れてたもの。


何落ち着き払ってるんですか!!



だ〜か〜ら〜、もう魂が解脱しちゃってるから、憎いも惜しいもないの。

だったら、あなたが帰ったほうがいいでしょ?

それに、やりたいこともしたいことも、まだまだいっぱいあったんでしょう?あなたがいま言ったみたいに。



やけに優しく諭すように僕にそう言い、バイバイキン、と言って彼女は消えた。最後まで古臭いノリで。平成生まれにわかるかよ…。舐めんなよ、バカにするなよ。子どもだと思って。

僕は、そんなんでいいのかよ、ふざけんなよ、と思っていつの間にか泣いていた。さっき会ったばかりの、死因しか知らない女性なのに。








僕は、学校の屋上から落ちた。自殺ではない。鉛色の僕の記憶の中でそれだけはハッキリしている。体育の授業でいつものように僕だけボールをぶつけられるのにウンザリして、一人で鍵のかかった屋上の柵によじ登り、貸し切り状態で授業をサボっていた。といっても僕は不良ではないので、サボりかたすらわからない。こんなときお約束の、タバコのひとつだって持っちゃいない。仕方なしに所在無く手すりに背をもたげていた。そしたら、学校の一番高いところからはじめて見上げる空は目が覚めるほどにどこまでもどこまでも美しく青く澄み渡り、薄暗い見慣れた灰色の校舎とそれはぜんぜん違っていて、僕はボサっとしたままその青に見とれていた。そうしているうちに無意識にズリズリ

と手すりに沿って伸びをしていって、身を乗り出しすぎてそのまま柵の外側へと滑り落ちて事故死した。お姉さんのような葛藤も、複雑な人間関係も、ましてやドラマ性もない、なんとも間抜けで孤独な侘しい死に様だった。





イジメを受けていたやつが屋上から飛び降りた。退院して学校に戻ったとき、僕についての噂はすっかりそう広まっていた。でも、僕にとってはもうどうでもよかった。僕は100均で買った替えのスリッパとTシャツを持参して登校し、上履きがなくなっていたらそれを履き、体操着がなかったときはそれを着た。イジメを黙認していた先生たちは何も言わなかったし、机の上の花瓶はその度に黙って教室の後ろのロッカーの上に置いておいた。そしていつしか、だれも僕に構わなくなった。どうしてこんな簡単なことが、いままでできなかったのだろう。そう思うたびに、あの不思議な場所で会ったお姉さんのことが浮かんだが、思い描けるのははっきりとした目鼻立ちではなくどこかぼんやりとしたなんとなくの印象だけだった。目をつむるとお〜〜い、少年〜、という調子っぱずれな声がする。あんなに好きだった憧れの神崎さんのことも、僕には、なんだかどうでもよかった。




ある日、夕食も終わり家族でテレビを見ていると、何十年も前に起きた海外での未解決事件の特集が流れていた。山口頼子さん29歳。─頼子さんは現地で誕生日を迎え、その日が奇しくも彼女の人生最後の日となったのです。飲んでいたコーヒーも忘れ画面に釘付けになっていたぼくにちょっと、こぼれてる、と姉が声をかける。

ご、ごめん。

山口頼子。確かにそう聞こえた。


キッチンから慌てて布巾を持ってきた母が徐ろに口を開いた。

あれあんた、この事件知ってたっけ?ほら、この人、あんたの岐阜の従姉妹のサクラちゃんのお母さんの妹さんよ。「…え?」綺麗な人だったのよお、高校の英語の先生してて。生きてたら私より、もう少し上ぐらいかしらね。当時はバブルだったから海外旅行に行く日本人も多くって、…でも、この事件のせいでちょっと減ったみたいね。まあ、亡くなり方が亡くなり方だし、悲しいものねえ、日本の土を踏めずに死ぬなんて。



テレビ画面の中のお姉さんはいつもヘラヘラ笑っていたやけに明るい顔ではなく、味気なく無愛想な証明写真だったり無理矢理切り取られた粒子の荒い不鮮明な集合写真の一部だったりした。再現女優も似ても似つかない顔の女性がお姉さんを演じている。きっとまた、私はこんなにブサイクじゃないと怒るだろうな…、と思うと僕は少し笑ってしまった。「ちょっと、あんた何泣いてるの…?どうしたのよ一体…」






2020/04/15/12/15

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