第7話
蒔岡家にフィットしていった母であったが、義父の気遣いによるところが大きかった。義父は母を妻として、ハンナを娘として極めて優しく丁寧に扱い、女性として尊重しすぎるほどに尊重した。それに対して遠慮がちだった二人もようやくこなれ、むしろ公務員の家族としてちゃんとしないといかんわね、という誇らしいプレッシャーを感じるようになった。はじめは他人行儀であった下男、下女たちも、「~だべ」とか「~じゃん」等の語尾に代表される、ハンナたちの平塚底辺オリエンティッドでくだけた言動が新鮮だ、と感じたのであろうか、あたらしい奥さまとお嬢さまは気取ってないのに顔面が美しくて会話もなんかおもろいから好き、なんて風潮があった。
相対的に株が下がったのが一人息子のエリクであった。ハンナにとって義理の兄である彼は、蒔岡家の中でも最も濃い闇だった。屋敷の一番奥にある彼の部屋、十畳ほどの空間でほとんどの時間を過ごしていた。毎日決まったルーティーンで過ごしており、周囲へのの勉強してますアピールなのか片時も本を手放さなかった。ホントマジで一日中勉強しており、表情は常に世界の終わり、仏滅、みたいな感じを保っていた。死刑囚の方が義兄よりまだ愉快にくらしている、とハンナはおもった。基本的に部屋から出ずに読書、青白い顔をして、ぶつぶつ世の中への恨み言をヒトの耳ではキャッチできない周波数でつぶやき続けている。彼は国立行政学院という国内のエリートが通う学校へ通っているのだが、ハンナはそこでエリクがどのような勉強をしているのか全く知らなかった。母に至ってはその学校の存在さえ、行政という言葉の意味さえ知らなかった。いずれにせよ学業が拷問に近いほど厳しい状況にあるのは明らかであり、ハンナは屋敷のとある暗がりからエリクの絶望のすすり泣きが聞こえてくる、なんて怪談めいた体験をしたことがある。怪談ではすすり泣きをするのは大体女の幽霊であるが、エリクは十八の変声期もとうに過ぎた男性である。う、う、う、ぐすっ、ううううーなんてそれなりに低い声で聞こえてくるものだから、初めて現場に遭遇した際にハンナは巨大な草食動物がお産でもしているのか、と勘繰った。ハンナも母もエリクには気を使い、食卓では話をふったり、食後には、ガム食べる?、なんてはなしかけてそれとなく機嫌をうかがっていたりしたのだが、反応はおしなべてつれなく、僕は薄幸の貴公子、みたいな態度にをとるのでいらついたりしていた。それは下男下女共も同様で、エリク様いつもイライラしていてむかつく、キショいなどの雑言がLINEとかのメッセージアプリを主に一日に何百も交わされており、エリクの厭世的態度への嫌悪感、傲慢な態度への悪口を言っているうちに盛り上がり、意気投合したとある下男と下女が、結婚し一姫二太郎をもうけ幸多き人生を送ってしまう程であった。要は下人たちは誰もエリクに好感を持っていなかった。
ブタクサやイネなどの秋花粉にアレルギー気質を持つ誰もが苛立ち殺人でもしてやろうかとおもっている時候のことである。
エリクも例にもれず前述した植物群の生殖活動に被害を受けており、自室で苦しんでいた。勉強に身が入らないことを理由に下男やハンナに当たり散らしていた。アシャーン、と鼓膜が破れそうなくしゃみを五秒に一回くらいしながら、何十時間ぶっ続けの無茶な勉強を続ける様は、なにかの拍子に頭が爆発するのではないかとは思われるほど悲惨であった。
そんな折、ある若い下男がエリクの部屋の窓を開けようとした。この下男は蒔岡邸の各部屋を掃除するなどをメインに働いている男で、基本的にエリクやハンナと会話することをジョルジにより禁じられていた。
長時間換気していないせいか、あまりにも空気がよどんでいたからである。勉強部屋の中は先程エリクが古い本をひっくり返し、埃が舞って暗い室内に漂っており、リドリー・スコットの映画っぽい雰囲気。窓から漏れる陽光を受けると埃が美しく光って、スノードームの様に美観であるなあ、と下男はおもったが、そんないいものではなく只の埃である、そんなものは己が気遣いで無散させよう、と意気込んで窓を開けた。また彼の狙いとして、窓を開けるという行為がエリクの勉強で摩耗した精神になにがしかの爽やかさを与えるだろう、という読みもあった。
だが、その読みは外れた。
エリクがものすごい怒ってます、って感じで言った。
「おーいおいおいおいおい。なんで窓あけてんの、ぶち殺すぞ貴様」
下男はあれ、とおもった。
「花粉がはいってきちゃうでしょ、空調システムの存在を汝は知らざるや」
エリクが鼻声で続けた。読んでいる本の影響でへんな言い回しになっている。
下男は、しまった、エリク様は花粉症だったか、とおもった。花粉症ではない彼にとって、気を付けるべきは春の花粉であって、秋は埒外であった。不覚をとった。やっべー。
「申し訳ございません、すこしお屋敷に風を入れようと思いまして」
下男は素直に謝った。
「いまお屋敷に風をいれてなんになるんだい。俺はちっとも勉強が進まないよ、それは花粉によるアレルギー反応によって脳が鈍っているからだよ。さっきから俺はくしゃみばっかしてるでしょ、なんでそんな気遣いも出来ないんだ君は。花粉症じゃない人って頭脳が猿なんじゃないのか。花粉を取り入れて俺の脳を鈍らせたいのか。鈍らせたことによって猿の脳を持つあなたはなにを得るのだ。季節がうつろい花粉がなくなった、と判断したらあけてよ窓を。そんな判断すら出来ない人間が居ることを俺は初めて知りました。衝撃でした。そんな御仁に蒔岡家は給金を払っている。これは問題なので、俺は今から窓の開け閉め専用のプログラムを書こうとおもう。君よりましだとおもうから。よってぼくちゃんはきみが犯した窓を開けた罪に対する懲罰人事として退職を命ずる。きみの退職金に関しては蒔岡家就業規則を確認してください。もし不当解雇だと訴訟でもしてみろ、オレが自ら弁護して全力で潰してやる。わかったか田吾作」
下人はエリクの膨大なストレスの一端に触れたようで、心底震えあがった。鬼のような形相であった。声を出せないほどの恐怖を感じた。
「大変失礼いたしました。今後花粉の時期に窓はあけません。解雇だけはご勘弁ください」
「マジで頼むよ。つぎあけたらほんとにぶち殺すからね」
「承知いたしました」
ちょっと安心した下男はそんなに怒んなくてもいいじゃん的な態度を取らない様に気を付けた結果、それこそAIと大して変わらぬ無表情で謝罪、その場を去った。同い年くらいなのになんでこんなびびんなきゃいけないんだ、なぜ俺がこんな目にクソが、と言う気持ちだった。
ハンナとジョルジはそれを遠巻きに眺めてへらへらしていたが、エリクが近づいてきたのでそれとなく立ち話をしているふりにきりかえた。
「あいつのせいで目がかゆい、勉強ができない」ハンナの近くでぼそっとつぶやいたエリクは洗面所へ向かった。アシャーン、とクラッシュシンバルをおもっきしぶっ叩いたみたいな音のくしゃみをしていた。ハンナは巨大な呪いの一部を浴びせられたような心地がした。
下人の中でジョルジだけは、エリクを悪く言うことは無く、この前ある下男がエリクの悪口を言っていたなんて情報を耳に入れると、その下男を呼び出して拳による制裁を与えた。殴られたのは以前花粉の件で怒られた下男であった。ハンナはそれをたまたまみかけた。ジョルジのやさしそうな顔面とぶっとい腕から放たれるまったくやさしくないリバーブローが下男の下腹をとらえた。それを受けた下男が大げさにこぶしを回してみる新人演歌歌手みたいな情けない顔をしてぶっ倒れた。ハンナは彼の口から飛び出して床にしいた赤いじゅうたんにぶちまかれる吐瀉物を見て、この世は悲しみに満ちているのだな、とおもった。その下男はやがてジョルジに暇を言い渡された。最後の挨拶に来たとき、彼もまた呪わんばかりの表情をしていた。
なぜこんなにもエリクがピリピリしているかというと、完全に義父のせいであった。エリクに対して直接厳しい言葉を吐くのは義父のみであった。疲労とストレスで尋常ではなくなった外見や日常の態度などでは叱ることは無く、知性の欠けた言動や、科学知識における間違った認識をしている場合に叱った。叱ると言ってもねちねちとした論理的矛盾を一つ一つ突いていくような大学教授のゼミ生の発表に対するダメ出しに近い叱責であり、ホワイトボードに図を書きながら叱ることもあった。瀟洒な大食堂に企業が会議室などで使う色気のないホワイトボードがあるのは蒔岡家ぐらいのものである。
例えばある晩、義父とエリクが最新の量子力学について議論していたときのことである。もちろん母とハンナは理解できるはずもないので、同席しつつもゆずシャーベットを食うなどしてぼけっとしていた。
エリクが間違った認識で生意気なことを言ったらしく、四時間かけてエリクの間違いを指摘し、お前はバカか、と一五〇回くらい言いながら、エリクが泣きながらごめんなさい、と言ってもやめなかった。ハンナは、十八の男のくせによく泣くなあこの兄は、とおもった。
「最新の論文を読んだはずなのになぜそんな勘違いをするのですか。先行研究を理解していなければ意味ないでしょう。量子力学をオカルトと勘違いしているんじゃないですか。まさか引用元の論文をチェックするのをわすれてるんじゃないですか。一本論文を読んだら必ず引用元の論文や本をすべて読みなさいと言ったではないですか。どんだけ怠け者なんですか貴方は。死んでしまえばいいんじゃないの、はっきりいいまして。いいですか、論文のいわんとしていることをちゃんと読みとりなさい。読むのは概要と結論だけでもいいから。わかった? 返事は? 返事しないということは反抗的な態度を私に示しているという認識で承知してもよろしいですか? 違う? じゃあ返事をしてくださいよ。コミュニケーションを拒否する感じですか? 思春期は終わってるはずだけどどうしたんですか。そんなに自意識をいじくりまわすのが好きなら小説でも書いていればいいではないですか、このクソ人間の出来そこないが」そう父はエリクに言う。
エリクは「いいえ」と泣きべそをかきながら言った。「がんばります」と涙をぬぐって続けた。ティッシュをジョルジから受け取って鼻をかんだ。
「答えになっていない。脳みそがあるならちゃんと答えなさい。がんばりますじゃなくて」
「うううう、最新の論文を、注意深く、うう、読みます」
「読んだだけじゃだめですよ。簡単にまとめておきなさい」
「はい」
「ほんとに?」
「はい」
「ほんとにほんとにやるんだろうな?」
「……はい、うっうっうっ」
そう言ってエリクは涙目でまた鼻をかんだ。
哀れな光景である。
ハンナは子供心にエリクが父の教えを忠実に遂行したとすると、読まなければいけない論文や文献が指数関数的に増え、無間地獄みたいなことになってしまうんじゃん、とおもった。一本の論文の引用元は下手をすれば百を超えるだろう。その一つ一つに、さらなる引用元があるので、どれだけ読んでも終わらない。終着駅はニュートンか、あるいはプラトンまでさかのぼったりして。
ハンナが部屋でだらだらしている間も父と子の議論は深夜まで続いた。この時エリクは小便を漏らしていた。トイレに行きたくても義父が恐ろしくて言い出せなかったのである。義父は気付いていたが無視して議論は夜中まで続いた。エリクは自分の脳が悲鳴を上げているのを感じていた。このままだと発狂する。どうしよう。彼はこの生活を続けるにあたり自分の生命の維持について真剣に考えた。致命的なまでにストレスがたまっている、と感じていたが、実際は完璧に体調と精神的負荷、脳への負荷がコントロールされており、スポーツトレーナーよろしく最も速く知能が発達するよう考えられた負荷がかけられているため、ぎりぎり大丈夫だった。
ハンナはエリクの生活が地獄であることに同情していた。これではエリクの性格も歪む一方であり、あたしだったら発狂して、いつか文化包丁を逆手に持って奇声を発しながら巣鴨に繰り出して老人を二十人くらい殺害したのち路上に突っ伏して号泣するだろう、なんてハンナは考えていたが、エリクはそんな生活に歯をくいしばって耐え、なんとか倫理的に逸脱せずに公務員の子息として体面を保っていた。その点に関してはハンナはエリクの根性に恐れ入っていた。
ただ、ハンナが恐れ入っているとしても彼女の常識の範囲内で恐れ入っているので、認識が甘い。エリクは彼女が想像さえ出来ぬほど難解な迷路を日々さまよっていた。ハンナが想定している勉強の辛さというのは、なにか英単語を沢山覚えるとか歴史の年号を覚えるとか答えの決まっている問題、つまり義務教育の範疇での辛さだったが、彼の場合はちがった。エリクはそんなステージはとっくに過ぎていて、「真理の探究は利害をはなれたものであり得るか」、「芸術に規則は不要か」、あるいは「科学的真理が危険な場合はあるか」など、前提知識すらないものにとっては、なにいってんの? 意味わかんないんですけど、と言ってへらへらしたくなるような形而上の問題について、へらへらせずに真面目に考え、父と議論し、バカだと罵倒され、何十冊も本を読み、何日もかけて回答する、ということを日常的に行っていた。その解答に父やその他の識者が納得するまで続くのである。次なる為政者、行政システムのメインプログラマーの育成は、日本国における最高レベルのエリート教育であった。
それにくらべてハンナは、日がな「髪が伸びてきたなぁ」とか、「もう少し痩せたい」とか自分の外見を中心としたよしなしごとに脳を使っていた。
母に至っては毎日ほぼ脳を使っていないに等しく、「天気がいいからたまには庭を散歩しよっかなあ」とか「カレー食べたい、ナス入ってるやつ」などのことを時々考えるのみであった。
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