無限の月

ランバージャック

第1話

 満月は親月おやづき、あるいは女王盈じようおうえいと呼ばれるならいだ。

 野の鳥獣がこの月の夜にはらむからだとも、月を産んだのは女の神だからだとも言われている。父月や母月と称する地もあるという。

 ここ、青寧あおね国のあたりではもっぱら父月という呼ばれ方をしている。

 さて、そんな真円の月の光を厚く茂る木の葉の向こうに透かし見て、一人の娘が途方に暮れていた。

(――迷った)

 娘の名を、ツチという。

 名前の通りの豊かな田畑の色の頬は、瑞々しく張っている。年の頃なら十六か七。縄のように編んだ髪をひとまとめにして、頭の後ろでくくっている。異様なのは、その色だ。百歳ももとせおうなのような白髪である。目は、熾火おきびに似ていた。

 どう見ても、小僧おとこにしか見えない。頬や肩、胸乳むなちの線は確かに細くまろい。しかし、身体に対して大きな手や硬質な額、鋭い鼻梁びりようは女の持ち物としては過ぎている。これで男物の旅衣のまとっているのだから、十人中十人に男と思われる。

 そんな事実はさておき、ツチは、

(――やっぱり、迷った)

 のである。

 このあたりの山々は緩やかだが、深い。獣道もないような山中で、やぶを払うための山刀を片手に、ツチは呆然と突っ立っている。

 ツチが目指す郷は、竜背たつせ川の源流近くにある。

 ならば川沿いをまっすぐ遡上そじようするのが手っ取り早かろう、と単純に考えたのが間違いだった。あれよあれよという間に木に巻かれ岩に阻まれ、とうとうこんな深山にまで入り込んでしまった。今や、水音など一滴たりとも聞こえない。


 ――青寧のお山にはねえ、化け物が出るよぅ。


 昨日泊まった宿の親父の言葉が耳に蘇る。

 身の丈が三丈を超す鬼だそうな。炭焼きや木地師きじしが食われただとか、牙が大人の手のひらほどもあるだとか、狩人の放った矢をはじき返しただとか――どこまで真実かは怪しいものだが、噂は恐ろしげなものばかりだ。


 ――街道をお行きよぅ、坊主。

 ――お山に入っちゃいけないよう。


 宿の主人の親切な言葉を無視したのは、他ならぬツチ本人である。

(化け物に会ったら、その時はその時だ)

 と、そんな風に腹をくくっている。

 やけっぱちなのではない。死をねがってるのでももちろんない。今、この場でその化け物とやらに襲われたら、ツチは力の限り抵抗するだろう。楽観とも少しだけ違う。

 極論、雑なのだ。ツチという娘は。

 親にもよく嘆かれたものである。

 雑な女は、山刀を腰の後ろにぶら下げた鞘にしまった。

 月が傾きかけている。やぶを刈るのももう飽き飽きだった。

 どこか休める場所を探そう――。

 自分自身が刈り進んできた道を戻ろうとした、その時だ。

 鍛えられた感覚を、ざわりと撫でられた心地がした。

 半ば無意識に、ツチは跳んでいた。蜻蛉とんぼを切って、着地する。最前までツチが立っていた場所には、深々と短刀が刺さっていた。跳ばねば、足ごと地面に縫い止められていただろう。

 葉ずれの音も、しなかった。

 どこから――とはツチは考えなかった。

 考えるより先に、藪に飛び込んでいた。

 がさがさと、襲撃者からすれば失笑ものの音を立てながら、ツチは夢中で藪の中を進んだ。野放図のほうずに伸びた鋭い葉や枝が肌に無数の傷を作ったが、気にしてはいられない。

 追い立てられているのは気配を探らずとも分かる。もはや隠す気はないらしい。そこにもてあそぶような遊びはない。純粋な、澄み渡った殺気。

 追っ手が誰か、などとツチは考えを巡らさない。頭にあるのは逃げることだけだ。この動物的な脳の使い方こそが、ここまでツチを生かしてきた。

 ――しかし、同時にいくつもの窮地きゆうちおちいらせもしてきた。

 激痛が走った。

 地面から伸びた細竹、明らかに人の手で鋭くそぎ落とされた先端に、足の甲が刺し貫かれていた。ご丁寧に返しまでつけてある。毒が塗ってあることは、容易に想像がついた。

 歯を砕けるほどに食いしばって、無理矢理引き抜いた。肉が裂けた。ぽっかり空いた穴から赤黒い血が溢れ出す。

 絶叫をみ殺して、なおもツチは歩を進めた。速さは、先ほどの半分にも満たない。

 視界がぐにゃりと歪んだ。毒の回りが早い。血は流れ続けている。この赤い跡をたどれば、三つの子どもだってツチを簡単に見つけ出せてしまう。

 どこかから、水の匂いがした。

 ――沢。

 脳裏に浮かんだ単語は、聞き覚えのないただの音としてとらえられた。けれど、生存本能は過たずその音にすがった。

 自由にならぬ右足を引きずり、ツチは懸命に駆けた。目はもう役に立たなくなっている。匂いだけを頼りに進んだ。ただ、無我夢中だった。だから最初、ツチは自分の足が空を切ったことすら気づかなかった。

 ふ、と体が軽くなった。

 編んだ髪が、顔の横を流れていく。

 瞬きをふたつする間もないほどのその時間、見えぬ目はこずえの間からこちらを悔しげに見下ろしている像を正確に描いた。

「ば・あ・か」

 最後の母音が終わる前に、ツチの体はけたたましい水音を立てて流水の中に沈んでいった。

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