ビデオ返し部、最後の戦い

凍日

夏のはじまり


 蝉の声が降りしきる、2020年7月22日。

 真夏の日差しが容赦なく降り注ぐ校舎の三階、その一室。

 狭苦しい部室に男が二人、机を挟んで向かい合っている。

 その一方、小山陽太こやまようたは、首から額から汗を垂らしている。


 ……クーラー、欲しかったな。


 窓から流れ込む風はじんわりと湿り気を帯びており、色あせたカーテンを揺らすばかりでちっとも涼しくない。

 だがうれしいこともある。明日から夏休みだ。

 なのに向かいに座る銀縁メガネは沈痛な面持ちである。


「試合の日時が決まった。31日、午後4時だ」


 銀縁メガネの石田努いしだつとむは、重々しく口を開いた。


「男の戦いだ。気合い入れていくぞ。最終試合、だからな」


 石田は立ち上がり、歩き始めた。


「競技人口は減る一方だ。インターハイが盛り上がったのも昔の話、今じゃ隣町の東高校しか部活がない」


 最終試合の相手の東高校にしても、部員はわずかに二人だけだ。

 石田はどこか遠いところを見ながらつぶやく。


「オリンピックの正式種目にも採用されなかった」


 小山は若干の申し訳なさを覚える。努に誘われて部に入ったものの、熱意は高くなかった。


「そして来月で『ワンダーランド』も店を閉める。潮時だろう」


 生活圏内にある、最後に残った個人経営店が『ワンダーランド』だった。

 小山自身は思い入れがあるわけではない。しばらく前に石田に連れられて店内を覗いたことがある程度だ。

 だが友人の感傷を目の当たりにして、一抹の寂しさを覚えるのだった。


「僕がもっと真剣だったら……」


 石田は首を横に振る。


「いや。無理に付き合わせているのはわかっている。いいんだ」


 目頭を押さえ、「とにかく」と石田は言う。「最後の試合だ。抜かるなよ」




「小山くん」


 下駄箱に向かった小山は聞き覚えのある声に足を止めた。

 同じクラスの有栖川綾子ありすがわあやこが、胸元で控えめに手を振っている。


「今、帰り?」


「有栖川さん」


 こちらも部活の帰りらしい。


「明日から夏休みだね。なんか、宿題多くなかった?」


 小山は頷く。


「だね。思ってたより。特に数学」


「だよね! 苦手だし最悪」


「国語も妙に多かったな。読書感想文が二冊文とか」


「映画の感想文なら楽勝なんだけどな」


 学期始めの席決めで隣同士になった小山と有栖川は、映画鑑賞という共通の趣味から話が弾んだ。直近の席替えで離れてしまったが、良好な関係が続いている。


「『メトロ・フューチャー』がそろそろだね」


 近日公開予定のアクション映画のタイトルを挙げると有栖川は、ぱん、と手をたたいた。


「そうそう! ダリ様の新作! 楽しみなんだ」


 ヒゲが特徴的な若手監督の新作がまもなく見られる喜びに、有栖川は声を弾ませる。

 その様子に小山は、言いようのない温かな気持ちを感じたのだった。


「じゃあ」


 勝手に口が動いた。


「一緒に行かない?」


 言ってしまって、内心慌てふためいた。

 じゃあ、一緒に行かない? だって? これじゃあまるで……!

 しかし小山の焦りに反して有栖川は、


「うん、いいよ」


 唇の下から歯をちらりと見せて笑った。

 さらに続けて言う。


「せっかくだから公開日に見たいな」


「公開日……」


 浮き足だった頭が少し冷静になる。

 公開日、ということは。


「31日?」


「うん」


 31日。最終試合の日だ。


「早い時間だと用事があるな……」 


 瞬時に脳内で天秤にかけたが、すぐに有栖川が慌てて、


「あ、でも、私もその日は夕方まで、家の手伝いがあるから……」


 視線を空中にさまよわせた後、


「6時頃、でいいかな」


 と、小山を伺った。

 夕方の6時。試合の後なら映画に行ける。大丈夫だ。


「じゃあ、31日の6時頃、『メトロ・フューチャー』」


「うん!」


 小山と有栖川は当日どこに集合するかなど簡単な取り決めをして、その日は帰路に就いた。


「用事って、大事な用事だった?」


 別れ際に尋ねた有栖川に小山は、「大丈夫」と頷いた。


「男の戦いがあるんだ」


 遠くを見据えて言った。



 

 7月31日、午後4時、少し前。

 スタートとゴールを兼ねる公園に四人が集まった。

 石田は4時10分前になったことを確認すると、厳かに口を開いた。


「ダブルス、タイムアタック。二本フリージャンル、ノーチェンジ。対象はウタヤ三つにワンダーランドを加えた四店舗」


 小山たちは、各々カバンからレンタルショップの返却袋を二つ取り出し、石田に手渡した。石田は合計8個の返却袋が集まったことを確かめると、さらに個別に黒いビニール袋に収納し、それらをシャッフルした後、ベンチに並べた。その中から各人2つずつ選び取る。石田がプレイヤーとレフェリーを兼ねるところに、業界内の人材が逼迫している現状が見て取れる。

 その後、全員の腕時計を調整する。


「試合開始時刻は4時。それまで各自、待機せよ」


 緊迫した空気が流れる。


「もし勝ったらさ」


 小山は石田に耳打ちする。「もう一回、試合セッティングしてよ」

 石田は少し驚いたが、「そのうちな」と笑顔で答えた。

 袋を持つ手に力が入る。

 石田が顔を上げた。


「定刻だ。試合、開始!」


 四人が一散に駆け出し、公園の砂塵が渦を巻き、中空に舞う。

 小山は炎天下のアスファルトに走り出した。

  

 彼らが挑むのはご存じレンタルビデオ返却合戦、通称『ビデオ返し』というスポーツ種目である。読んで字のごとく、借りてきたビデオを返却する競技で、DVDが主流になった今も昔の名残でそう呼ばれている。

 チームは二人一組、各人にランダムに振り分けられたディスクを返却し、合計所要時間が短い方が勝ち、というのが大まかなルールだ。男女混合部門もあるが今回は全員男子である。

 

 小山は走りながら、袋を開ける。

 一枚目、アニメ映画、現在地から最寄りの、駅前のチェーン店。

 当たりだ。

 一枚目は時間をかけずに返せる。これは大きい。

 続いてもう一方の袋を開ける。


「……げ」


 出た、と思った。AVだった。返すときにちょっと勇気がいるやつだ。

 この試合、簡単には終わりそうにない、と小山は笑った。



 

 体中の汗腺という汗腺から汗が噴き出している。

 真夏の炎天下の屋外ではなく、クーラーの効いた店内である。

 駅前のレンタルショップを瞬殺した小山は、続けて二軒目に走った。

 たちまち汗だくになった。西に傾いたとはいえ未だなおじりじりと照りつける太陽に炙られながら、早くクーラーの効いた店に入りたいと思っていた。

 やがて目的の店が見えてきた。

 レンタルショップ、『ワンダーランド』。

 小山の二枚目はここで借りられたものだった。

 そして小山は今、カウンターの前で凍死しそうになっている。


 無人のカウンターに返却袋を置き、呼び鈴を鳴らした小山は奥から出てきた人物を見て硬直した。

 昔カウンターに座っていたのは、店主とおぼしき老人だった。

 老人ではなかった。

 有栖川綾子だった。

 夕方まで家の用事があると言っていた。なのにどうして……?

 家の用事とカウンター業務が小山の中では結びつかない。

 有栖川は目を丸くていた気もするし、笑いかけられた気もする。だが小山の脳は活動を停止していた。

 有栖川は返却袋を開け、するりと中身を取り出した。

 そのままバーコードリーダに通そうとして、動きが止まった。

 じっと見る。

 あられもないピンク色のタイトルに視線が注がれる。

 クーラーが効きすぎている。

 汗が滝のように噴き出している。

 汗ですらないかもしれない。血かもしれない。血の気が引く、とはまさにこのことだ。引いた血が外に流れ出ているのだ。

 顔を上げる気配がした。

 小山はカウンターの、シールをはがし損ねた跡のような黒い染みを見ている。

 ディスクがリーダに通される。ピッ、という電子音がやけに大きく耳に響く。

 沈黙に耐えかねた。


「ぼくじゃない」


 本当は、ぼくのじゃない、と言いたかったのだが、出てきたのはかすれ声だった。


「何が」


 冷え切った声が心臓を凍らせる。


「な、なまえ、見て」


 震える指でカウンター上のモニターを指さす。客には見えない角度で設置されているモニターには、利用者の情報が表示されているはずだ。レンタルした人の名前を見てくれ。僕じゃない。

 横目でちらとモニターを見た有栖川が発した声は冷え切っていた。


「当店ではプライバシー保護の観点から、利用者の氏名は表示されません」


 万事休す。小山は『ワンダーランド』の会員ではなく、会員カードの類いも持っていない。借りたのが小山ではないと証明する手段は、つまるところ、無い。


「1980円」


「え?」


 間抜けな声が出る。1980円?

 1980円とは何のことだろうか。口止め料だろうか。払ったらクラスの女子に言いふらさないでくれる、とか。あるいは慰謝料? 払えば、このことは水に流してくれるとか?

 違った。


「7日間、延滞されてますので」


 延滞金だった。しかも7日も。


「他にも延滞されています。至急返却願います」


 そんなことを言われてもどうしようもない。

 弁解できない間にも、店内の気温は下がり続ける。


「しかも」


 有栖川がディスクのケースを突き返す。


「ケースと中身が違います」


 確かに、ケースと中のディスクで表示されているタイトルが違っていた。

 さらによく見るとディスクはDVDではなくブルーレイディスクだった。画質にこだわる好き者だと思われたに違いない。有栖川はアルコール消毒液で手を拭いている。

 のろのろとディスクを袋に戻す小山には目もくれず、有栖川がつぶやいた。


「男の戦いがある、って言ってたよね」


 店内の有線放送は狂ったようにヒットチャートソングを流している。

 真夏の陽気を賛美する歌声は、耳慣れぬ異国の情緒を伴っていた。


「こういうことだったんだ」




 こうして試合は終了した。

 問題のディスクは相手チームのミスだった。延滞までは作戦の内だったが、中身を入れ間違えて返却できないのでは試合が成立しない。

 相手チームは一心に詫びた。石田は笑い、今回は無効試合として、近日中に再試合をするよう提案した。

 だが小山は、力なく首を横に振るばかりだった。

 その魂が抜けて干からびた様子は、まるで蝉の抜け殻のようであったという。

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ビデオ返し部、最後の戦い 凍日 @stay_hungry

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