日常の②-16『名もなき厄災』

「姐さん、せっかく名前をつけてもろて申し訳ないんやけど、紅茶よりコーヒーにしといてもらえます?」


 リビングの大きなテーブルで俺に向かい合ったまま座った紅は、彼女……いや、彼、なのか?とにかく、紅をはさんで向こうに見えるキッチンでお湯を沸かしている花束さんに目も向けずにそう言った。いつものアヲちゃんとはまったくの正反対だ。肘掛に両手を伸ばし、姿勢も悪く偉そうにしている。


 瞬間。

 一筋の光が紅の……、アヲちゃんの頭に向かって飛来する。


「どわあっ!あ、あっぶな……」


 その光の線に向かって急に振り返り、紅が伸ばした右手はしっかりと人差し指と親指で、それを受け止めていた。


「誰に物を申しておる……?」


 20センチは刃渡りがあるであろう包丁が、紅の指にはつままれている。


「まってえな……。俺様が避けたらユーリ兄さんに直撃やんか……」


 紅が腕を振ると、さっきよりも遅い速度で包丁が回転しながら弧を描いた。


「ほう……。我が眷属はそのような愚物ではないと自負していたのだが?」


 花束さんは手すら使わない。包丁が彼女から数十センチ手前で止まり、キッチンの死角、おそらく元にあった場所に戻っていった。


「あのさ……、刃物で遊んじゃいけないって、学校で習わなかったのか?」


 正直、俺は二人との距離感をつかみかねている。

 しかしながら、つかめていないからこそ間違った刃物の使い方をしている者には、注意はしっかりとしないといけない、と俺は思う。


 それがもし、命を懸けることになったとしても。


「こんなブツブツ言ってる兄ちゃんのどこがいいんだか。姐さんホンマに悪いんやけど、なんでって思う」


 頬杖をついて、紅がアヲちゃんの口からそんな言葉を吐く。


「あら、あなたなら分かると思ったのだけれど。私はただ、過去を捨てて普通の人間として生きていきたいだけよ」


 おかえり、と言いそうになった口を俺は閉じることにした。


 花束さんは竜神の威厳をその内にやっと抑えてくれたようだ。

 正直、あの口調と魔力を出している花束さんはまるで別人で、俺の存在、いや、矮小な人間の存在なんかには目に入っていないような、そんな孤独感を覚える。


「…………………………」


 頬杖をついていた紅が、またしてもゆっくりと振り返った。


「姐さんのために言わしてもらうけどな。キッショいねん、その……、こっちの女の子みたいな口調。口からアウトプットせなあかんからしゃあなしにやっとるけど、俺様のでたらめな関西弁もそうやで。なんで俺様や姐さんが、口で会話なんて人間みたいなことせなあかんの?念話でええやん。どう足掻いても人間ちゃうやんか、俺様含め。姐さん中心にどうかしてんちゃう?」


「どうかしていたのは、きっと私たちだったんじゃないかしら…………。貴方の存在が消えて誰より悲しかったのは他でもない、貴方の全てを受け止めた私だったとは、思わない?その感情を炎にくべて、争いに身を焼き続けた私のわがままを、平凡な生活への憧れを、紅は否定するの?」


 コーヒーの香りがリビングに漂う。聞いている方まで苦くなってくるような、そんな花束さんの問い。


「お互い様やで。……俺様は、ずっと一緒に、アホなことしたかった」


 カップにコーヒーを注ぐ花束さんも、それに背を向ける紅も、視線を合わせもしないのに、お互いの全てを見守っているかのように会話が続く。


「なんでこうなったかは俺様の推測でしかなかったんやけど、姐さんがこっちに転生させられとるいうことは、俺も異世界転生の禁呪をくらったんやろうなあ。にしても、こんな魔法やったっけ?二十年近く、ずっと考えとってん……」


「おそらく、かなり未完成の状態ということになるわね。記憶を維持させてしまったり、完全に別の生物として転生させるわけでもなく、魂だけが、こちらの世界の人間の女の子に無理矢理いれられた感じかしら。……そういえば、貴方の死体が人間の手に渡ったものだから、街をいくつか焼いたのだけど…………」


 ソーサーに乗ったコーヒーが届き、花束さんがミルクが入ったコップと角砂糖の入った瓶をコトリと置いた。

 街をいくつか焼き尽くした竜神になんてことをさせてんだ、なんて俺は思ってしまう。


 そんなことはお構いなしに、花束さんは俺に微笑んで、俺の目の前のコーヒーだけにミルクと角砂糖を3つ、勝手に入れた。

 いやまあ、ちょうどその数いれるつもりだったけども。


「姐さんの逆鱗を除けば、竜の死体よりかは俺様の外殻は人間にとっては価値があるか……。今となってはしゃあなしやな」


「アヲちゃんはもう十九歳……。つまり、彼女が生まれてからその間、紅……さんは、彼女の精神の中に封印されていたってこと?」


 花束さんが紅の隣に腰かけてから、俺は口を開いた。そうそう、と軽く紅は首を縦に振った。


「紅って呼んでくれてええよ、ユーリ兄さん。ナユタのことなんも知らんと異世界に誘拐されて、まお……」


 花束さんの眉がぴくりと動いた。


「ふひ……、勇者て…………笑える。くくっ」


「笑ってくれていいよ。……俺も自覚ないし」


 たまに忘れそうになるが、俺は異世界のナユタを救う運命にある。いまだにそれしか知らないのだが、特に興味もないし、異世界人たちに深く聞くつもりもない。そもそも、異世界に行くつもりもない。異世界人との関係ですら、流れに身を任せているだけだし、今となっては異世界に行く術もない。


「私をあの魔法使いが殺すほかは、今のところ方法はないわね。現実的に不可能かな」


 言い切る竜神。俺のゆるい唇がまた思っていることを口にしていたようだ。


「……うーん。二人がここにいるってことは、そんなとこやろなあとは思ってたけども。あのさ、長なる、とは言ったんやけど、実際のところ俺様の口からこの子の人生を語るつもりはないんよ。なんやっけ、この子。……そうそう、宮城野青葉っちゅーたかな。俺様は一緒に体験してきたようなもんやから。あとは本人から……、いや、本人には聞かんといたげて。もっと仲良くなったら、本人から話すと思うからのんびり待っといてーな」


 コーヒーを啜りながら、紅は歯切れ悪そうにしている。そういえば、アヲちゃんのフルネームを初めて耳にしたような気がする。


「なにか、紅の口から話せないような過去が、アヲちゃんにはあるってこと?」


「兄さん、聞かんといてくれる?そもそもこの子には二重人格……、今は解離性同一性障害っていうんやったっけ?その素養があったから、俺様が精神に入れたわけやんか?そういう病気の原因って、兄さんは詳しく知りたいタイプの人なん?……せやったらこの子の見込み違いやなあ」


 陶器のぶつかる音がした。目を向けると、花束さんが飲んでいたコーヒーをソーサーに置いたところのようだ。

 花束さんの魔力の高まりを、なぜか感じる。


「アヲちゃんは、どんな感情を、ユーリくんに抱いているのか、紅は知っているのかしら?」


 努めて冷静を装い、吟味するように言葉を選びながら、花束さんは紅に聞く。


「姐さん、アホかいな。好きちゃうかったら男と旅行なんか絶対に行かへんで、この子」


 屈託のない笑顔で紅は、アヲちゃんは微笑んだ。


「姐さんと俺様、やっぱ永遠のライバルやねんなぁ」

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