第20話 星だけが見ていた⑤

(1)

 

 祈りを捧げる僅かな時間が過ぎると、ミランダから穏やかな微笑みが跡形もなく消え去った。部屋の扉を叩く音が聞こえたせいだ。

 ミランダの顔つきはいつものきつくて陰惨なものに戻る。


 さっき客が帰ったばかりだというのに、続けざまに客が訪れるなんて。今のミランダには珍しく喜ぶべきなのに。

 しかし、今日はもう客は来ないだろうし、と、ゆっくり酒を飲むつもりでいた。

 細やかな楽しみを水を差され、忌々しげに扉を睨む。


「……さっさと入ったら?」


 面倒臭い、と思っているのを全く隠そうともせず、扉の向こう側の人物に向かって言い放つ。すると、静かに扉が開き、一人の男が左足を少し引きずるようにして中に入って来た。

 ミランダとそんなに歳は変わらなさそうだが、腰のない茶色い髪にはところどころ白髪が混じっている。


 男は売春宿で女を買うことが初めてなのか、ひどく緊張している。扉を閉めると気まずそうにその場に立ち尽くし、微動だにしない。

 ミランダは、扉の前で彫像のように固まって全く動こうとしない男に対し、露骨に苛々してみせる。


「いつまでそこで突っ立ってる訳??さっさと服脱ぐなり何なりしなよ」


 それでも男は一歩も動こうとしない。遂にミランダは、自分の方から男につかつかと歩み寄る。


「自分で脱がないなら、私が脱がしてやろうか??」


 くたびれたシャツの襟元を掴み、ボタンに手を掛けようとした時だった。

 ようやく男と目が合った途端、ミランダは思わず手を止める。そして、今度は彼女の方が身を固まらせる羽目になった。


「……ミラ、久しぶりだね……」

「…………」


 痩せこけた頬、目尻や下瞼、口元に刻まれた小皺、随分面変わりしてしまっていた。だが、その優しさを湛えた深いグリーンの双眸だけはあの頃と何一つ変わっていない。


「……リカルド、なの??……」


 男は十年前と同じく一点の曇りもない、真っ直ぐな瞳でミランダに微笑み、ゆっくりと大きく頷いてみせる。


 ミランダは、琥珀色の大きな猫目を目一杯見開き、目の前に立つ男ーー、リカルドのぎこちない笑顔を、シャツの襟元を掴んだままでしばらく茫然と見つめ続けていた。気のせいか、シャツを掴んでいる両手が微かに震えている。

 リカルドも彼女の手をどけようともせず、あえてそのまま黙っていた。


 どのくらいの時間、二人はそうしていただろう。


「……何で、貴方がここにいるの……」


 先に沈黙を破ったのはミランダだった。


 シャツから両手を離し、リカルドを解放する。しかし、次に言うべき言葉が上手く紡ぎ出せず、再び口を閉ざしてしまう。





 生きていてくれて本当に良かった。


 もう二度と会えないだろう。ずっとそう思っていた。


 私のせいで酷い目に遭わせてしまってごめんなさい。





 どれも十年間抱え続けていた言葉達。だけど、今この場で口にすべきふさわしい言葉なのか、いま一つ自信が持てない。

 もっと他に言うべき言葉があるはずだ。


 リカルドは相変わらず黙ったまま、ミランダの言葉を待っている。

 十年前と変わらない、ミランダが愛したあの優しい笑顔を浮かべて。





 あぁ、私はすっかり落ちぶれて、若さも美しさも失くしてしまったのに。

 彼は、彼だけは、変わらずに私を見つめてくれているーー。





「……ずっと、貴方に、リカルドに……、会いたかったの……」





 ミランダの口から零れ出したのは、あのクリスマスの夜から心の奥底にずっとひた隠し、必死に忘れ去ろうとしていた言葉だった。

 すると、十年間押し殺し続けてきた様々な感情が一斉に溢れ出し、ミランダはその場で泣き崩れてしまった。


 床にへたり込んで小さな子供のように泣きじゃくるミランダに何も言わず、リカルドは床に膝をつき(その際、左足が痛んだのか、僅かに顔を顰めたが)、小さな身体をそっと抱きしめる。


「……やっと、君を迎えに行く準備が整ったんだ。あれからーー、十年前のクリスマスの夜、僕は意識不明になるまで男爵の手下から暴行を受けたけど、奴らが去った後にある青年が僕を助けてくれてね。しばらくの間、彼の元で静養させてもらっていたんだ。怪我の後遺症は多少残ったけど、まぁ元気になったし、あの時に君と向かう筈だった場所……、以前話したウィーザーっていう港町に戻って、君を身請けするためのお金を必死で稼いでいた。ちなみに今もその街で働いてる。随分と時間がかかってしまったけど、今度は堂々と正面切って君を迎えに行きたかったんだ」

「……私は、貴方を酷い目に遭わせたのよ。その足だって、あいつらにやられたんでしょ??」


 すでに目を真っ赤に腫らしているのに、ミランダは尚も泣きじゃくっている。


「そんなの、君が悪いんじゃない。君こそ、あいつに、あの男爵に人生を狂わされて僕の想像を絶する辛い思いを散々してきたんじゃないのか??」


 リカルドはパサパサに痛んでしまった長い髪にそっと触れる。まるで、壊れ物を大切に扱うような丁寧な手つきで。その変わらない優しさにミランダの胸が痛む。


「……そんな風に優しくしないで。私はあの頃以上に汚れてしまったし、年を取ってすっかり醜くなってしまったわ。身も心もね。おまけに、酒に溺れて手放せなくなってしまった、ろくでなしの売女なのよ」

「……違うよ。君は傷つきやすいきれいな心を守り続けてただけだ。今もずっと。もう君の雇い主に身請け金は渡したから、君は今すぐにこのまま僕と一緒にここから出ればいいだけさ」


 リカルドと再会できただけでも、ミランダにはこんな奇跡が起きるなんて信じられないと、喜びよりも戸惑いの方が大きいくらいなのに。彼は今すぐに自分を身請けするとまで言ってくれる。


 もしかしたら、私は幸せな夢を見ているだけなのか、と疑い、思いきり手の甲を抓ってみる。皮膚が突っ張り、じんとした痛みが走る。


 これは夢じゃない、現実なんだとはっきりと思い知らされる。


「今すぐだなんて……。再会したばかりなのに強引だわ……」

「だって、このくらいしないとまた君と離れ離れになってしまう気がして。だから」


 リカルドは左足を庇いながらゆっくり立ち上がる。まだ座り込んでいるミランダの痩せ細った腕を掴み、少年のように悪戯っぽく笑う。


「君は、ただ黙って僕についてきてくれば、それでいいんだよ」





 ーーあぁ、この人の笑顔には逆らうことなんて、私には絶対にできやしないーー





 リカルドに反発するのを諦めたミランダは呆れたように、それでいて少女のようなあどけない笑顔を浮かべて立ち上がった。こんな風に笑うなんて、一体何年振りだろうか。


「……仕方ないわね。そんなに言うなら貴方についていってあげる。でも、ちょっとだけ待っててくれない??」


 ミランダは大量の酒瓶を置いた丸テーブルから、やけに光沢を持つ赤い布地の小箱を持ち出す。それを目にしたリカルドは、あっ!と、声を上げる。


「……まだ持っていてくれていたんだ……」

「当たり前でしょ。だって、これは私の一番大切な宝物なんだもの」

「じゃあ、せっかくだから、つけてみせてよ」

「え、それは無理。だって、もうおばさんだもの。似合わないわ」

「そんなこと言ったら、僕だっていいおじさんだよ??じゃあ、あとで宿に到着したら着けてよ。僕が見るだけなら構わないだろ??」

「もうっ、分かったわよ!リカルドは相変わらず押しが強いんだから!」


 リカルドに手を引かれて部屋を出る時にミランダはふと思い出す。

 そう言えば、今日はクリスマスだったと。


 素晴らしいクリスマスプレゼントを与えてくれた神様、本当にありがとう。


 ミランダは、心の底から神に対し、多大な感謝の念を送った。

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