第9話 籠の鳥②

(1)

 

 一瞬にして崩れ去った幸せなひととき――、あの安息日から数日が経過した。


「さっきから心ここにあらずと言わんばかりだな」

 ダドリーは読んでいた本から顔を上げ、目の前に座るミランダに視線を移す。机に向かって紙にペンを走らせていたミランダはダドリーを見上げる。

「やる気がないのなら、今日はもう止めるぞ」

「……ごめんなさい。ちゃんとやるから、そのまま続けて」


 ここ最近のダドリーは夕方六時の開店と同時に店へと訪れ、客が店に居残れる上限の時間、翌朝八時まで滞在することが増えていた。

 お蔭でミランダは彼のほんの僅かばかりの視線の動き、ごく瞬間的な目元や眉間、口元の顰め方で、彼の心象を理解できるまでになった。とはいえ、未だに彼の思考自体に理解を示すことは出来なかったが。


 ダドリーと過ごす時間が増えるにつれ、床を共にする以外の時間も必然的に増えてくる。特に最近では、ミランダはダドリーから字の読み書きを教えてもらっていた。

 きっかけは、ある時ミランダが絵本をたどたどしく声に出して読んでいたところ、偶然ダドリーに見付かってしまったこと。無学な娼婦が、僅かばかりとはいえ識字できることに対しダドリーは珍しく驚いてみせた。


「なぜ学校にすら通っていないお前に字が読めるのか」

「……昔の馴染み客の中に学校の教師がいて、少しだけ教わったの」

 悪戯が見つかった子供のように絵本を後ろ手で隠しつつ、ミランダは気まずそうに目を伏せる。

「……何なら、私が教えてやってもいい」


 ダドリーの余りに意外すぎる申し出。てっきり馬鹿にでもされるものかと覚悟していたミランダは拍子抜けすると共に、何か裏の魂胆があるのでは訝しんだ。

 けれど、せっかく教えてくれると言うのだから素直に教えを乞うことにしたのだった。


「どうせあの男のことでも考えていたのだろう」

「何のことかしら」

「私が何も知らないとでも思っているのか」


 ミランダは、字を書く動きをぴたりと止める。ペンを握りしめたまま、ダドリーを見返す。ダドリーは、コバルトブルーの瞳に無機質な冷たさだけを湛えながら、淡々と語り始めた。


「リカルド・ベイル。年齢は二十五歳。身体的特徴として、髪色はアッシュブラウン、目の色はグリーン、中肉中背の体躯で少し猫背気味。この国有数の繊維街で有名なアンバーで、仕立て屋の次男として生まれる。十五歳の時に当時流行った疫病により両親が他界、四歳上の兄は別の街へ出稼ぎに行ったまま戻らず。父親の知り合いの元でしばらく働いていたが十七歳の時に出奔、現在まで街から街を転々と渡り歩く生活を送っている……。ふん、要は、ただの根無し草のろくでなしということか」

「…………」

「どうやって調べたんだって顔をしているが、地の果てまでも追い掛け、調べ尽くしてくれる裏稼業の男が知り合いにいる。無論、それなりの大金は要求されるがな」


 見る見る内に凍りつくミランダの表情をダドリーは愉しんでいる。


「あぁ、そう言えば……。偶然とはいえ、あの男の仕事先にお前の昔の常連客がいて、お前とあの男が一緒にいる時にお前の素性をばらしてこいと言ってやったな」


 ダドリーは口元を手で覆い隠し、これ以上は耐えきれないとばかりにくっくっと声もなく笑い出した。正確に言うと、噛み殺していた笑いを思わず漏らしてしまったような感じであるが。


「まったく……。あんな雀の涙程度のはした金を握らせただけで面白いくらい言うことを聞くとは……。下賤の馬鹿さ加減には笑わせてもらった」 「……言っておくけど、私は彼と、一度たりとも寝たりなんかしていないわよ」

 必死で笑いを堪えるダドリーを冷ややかに見つめながら、ミランダはやっとの思いで言い返す。

「……だろうな。だが、心はあの男に完全に傾いてる。いいか」


 ダドリーは椅子から立ち上がるとミランダの腕を引っ張り上げ、無理矢理立ち上がらせた。

 強引に腕を引っ張られ、ミランダが顔を顰めた拍子に握っていたペンが手の中からすり抜けて床に転げ落ちていく。更に、立ち上がった時の勢いで椅子がけたたましい音を立てて倒れた。


「私の言葉一つでお前をどうにでもすることができる。あの男だって始末することだってできる」

 ダドリーは痛がるミランダに構わず、彼女の腕を掴む力を益々強めていく。

「私を怒らせるな。絶対に逆らおうとするな」


 ダドリーはミランダを無理矢理壁際まで追い詰めると、壁に強く押し付けて唇に激しく噛み付いた。

 ダドリーの身体を引き離そうと必死にもがくが、力や体格差の違いから無駄な抵抗にしかならない。ミランダは次第に大人しく彼のされるがままとなっていった。


 





(2)


 更に時は進み――、ミランダが広場に顔を出さなくなってから、一か月近くが過ぎようとしていた。


 十二月に入り、クリスマスが近いせいか歓楽街はいつもより華やいでいた。道行く人々も心なしか浮かれた様子で楽しそうに歩いている。


 この時期は店の娼婦達も目一杯着飾り、馴染みの客と賑わう夜の街へ繰り出す者もいれば、恋人や情夫への贈り物を用意する者もいる。皆がいつになく色めき立つ中、ミランダはファインズ家が主催する夜会に出席することが決まっていた。


「ミランダ、これはまたとない好機よ!この夜会で男爵様や奥様に気に入られれば、貴女は次期男爵夫人になれるかもしれないわ!!いいこと、ダドリー様の周囲の人々に上手く取り入りなさい!!」


 マダムの気合いの入れ方は尋常ではなかった。

 ミランダが夜会で着用するドレスや身につける装飾品、靴を選ぶのに、富裕層ご用達の高級仕立て屋や宝石商を次から次へと店に呼び、どれにすればいいか頭を悩ませている。まるで、自分自身が夜会に出掛けるのか、と思う程に。


「今年はバッスルスタイルのドレスが流行だけど、貴女は小柄で華奢だから裾を絞り過ぎては却って貧弱に見えてしまうわ。程々の絞り方にしてもらわなきゃねぇ。色はこの冬流行の淡色でもいいかもしれないけど……、って、ミランダ??」


 当のミランダと言うとドレスにまったくもって関心がなかった。

 マダムがこれはどうだ、あれはどうすると色々勧めてきても気のない返事を適当に返すだけ。そのやる気のなさにとうとうマダムは怒り出した。


「ミランダ!いい加減にしなさい!これは遊びじゃなくて仕事なの。真面目に選んでもらわないと困るのよ!!」

「……どんなに上等で高級なドレスを纏ったところで所詮ただの娼婦じゃない。貴族や成金のお嬢様方と同等になんか到底なれっこないわ。私はあくまでダドリーの婚約者とかいう、ご令嬢の代理でしかないんだから」

「貴女……、なんてことを言うのっ!!」

「……本当のことを言ったまでよ」


 頭の血管が切れるんじゃないかと思うくらい怒りで顔を真っ赤に染め上げたマダムを、ミランダは酷く冷めた目で一瞥し、顔を背けた。


 ダドリーは男爵家より爵位が上である伯爵家の娘と婚約を交わしていた。まだ彼が幼い頃に家同士で決められた婚約ーー、政略的なもので愛など欠片もない婚約。

 位こそ高位だが、その伯爵家は辺鄙な片田舎で細々と暮らしている様な、いわば零落しかけている家だった。

 低位でありながら発展した街を治めるファインズ家と繋がりが欲しかったのだろうし、ファインズ家も高位の家から娘を娶ることで箔を付けたかったのだろう。

 ダドリー自身も「結婚など家を繁栄させるための手段に過ぎない」と言い切っているあたり、さしてこの婚約を嫌がっている訳ではないようだった。しかし、その伯爵家の娘については「保守的で凡庸な上に身分に甘んじて何の努力もしようともしない、怠惰でつまらない田舎者。家のためでなければ、口を利きたいとも思わない」と辛辣に語っていた。


 ダドリーの話を聞いた当初、仮にも未来の妻になる相手に何て酷いことを、と彼への嫌悪を更に募らせた。だが、この度の夜会を令嬢が欠席表明した理由が「十二月の寒い時期に遠い街まで赴くのが億劫だから」と知った時には少しだけ、ほんの少しだけだが彼の言葉に同調せざるを得なかった。

 しかし、そのことと、ミランダが代理で夜会に出席することを光栄に思うかは、また別の話である。


「ミランダ!待ちなさい!!どこへ行くの!?」

「……疲れたから一服しに行くだけよ。五分したら戻るわ」

「ミランダ!!」


 尚もヒステリックに叫び続けるマダムを無視し、玄関先までへ出て行くとミランダは煙草に火をつけた。別に吸わなくても平気でいられるにはいられるが、疲れて何も考えたくない時、無性に煙草を吸いたくなってくる。


(そういえば、リカルドと会ってからの二ヶ月は一本も吸ってなかったな……)


 彼は今、どうしているだろうか。

 今もまだ、この街に滞在しているのだろうか。

 相変わらず、あの広場でギターを弾いているだろうか。


 (……考えちゃ、ダメ。考えだしたら、また彼にどうしようもなく会いたくなってしまう)


 ミランダは、二、三度首を横に振り、盛大に大きなため息をつく。



 ーー駄目だよ。ため息をつくと幸せが逃げるって言うだろ。あと、煙草は体に良くないよーー



 (……本当に疲れてるのね。幻聴を聴くなん……て……??)


 恐る恐る、顔を上げる。

 その視線の先ーー、目線を少し上げた先に、深いグリーンの宝石が二つ並んで優しく光っている。


 ミランダにとっては世界で一番美しく、他のどんな高価で珍しい宝石でさえ、その宝石を目の前にしたらただの石ころ以下に成り下がってしまう。


 初めて出会った時と変わらない穏やかな笑顔。

 ミランダは指の間に挟んでいた煙草を、知らず知らずの内に地面へ落としてしまっていた。

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